ロシアの作曲家。ロシア国民音楽の父と呼ばれ,ロシア5人組やチャイコフスキーをはじめ,その後のロシアの作曲家に深い影響を与えた。スモレンスク県ノボスパススコエの裕福な地主の家に生まれた。幼年時代はこの典型的なロシアの農村で,豊かなロシア民謡や教会の鐘の音に囲まれて過ごした。叔父が農奴オーケストラを所有していたので,管弦楽にも親しむことができた。1818年からペテルブルグに出て師範学校付属の寄宿学校に入り,当時の進歩的な貴族教育を受け,同時にJ.フィールドやその弟子のC.マイヤーにピアノを学んだ。30年からイタリアに住み,イタリア・オペラを学び,33年からはベルリンでS.デーンについて音楽理論を修めた。34年ロシアに帰って,最初のオペラ《イワン・スサーニン(皇帝に捧げた命)》の作曲に熱中し,36年の初演で圧倒的な成功を博した。これはロシア国民音楽の出発点ともなる歴史的事件であった。42年にはオペラの第2作《ルスランとリュドミラ》を初演した。この二つのオペラは,ロシア史やロシア民話に主題を選ぶという点でも,ロシア民謡だけでなく東方のいろいろな音楽語法をとり入れるという点でも,集団的な場面やロシア的ユーモアを織り込むという劇作法の面でも,のちのロシア・オペラの模範となった。48年に作曲された管弦楽曲《カマリンスカヤ》では,二つの対照的なロシア民謡を主題として,ドイツ的な主題労作の方法ではなく,華麗な管弦楽法による変奏的な展開をおもな方法とするロシア的なソナタ形式の書法を確立し,チャイコフスキーやA.P.ボロジンをはじめとするロシア交響楽の基礎を置いた。スペイン旅行に取材した管弦楽曲《スペイン序曲》第1番(1845),第2番(1851)や,数多くの歌曲も重要である。56年,ロシアの宗教音楽を改革するために,パレストリーナ様式の対位法を学ぶべくベルリンへ行ったが,そこでかぜのために急死した。
執筆者:森田 稔
ロシアの土壌学者。帝政ロシア時代にスモレンスクで生まれ,近代土壌学の祖V.V.ドクチャーエフに鉱物学を学んだ後,土壌学の研究に入った。ヨーロッパ各地の土壌調査を行い,〈世界の大土壌群とその生成〉に関する著書をまとめた。これによりドクチャーエフ学派の見解が西欧やアメリカに紹介され評価されるようになった。彼は土壌研究の上で気候などの生成環境を重視するドクチャーエフやシビルツェフNikolai Mikhailovich Sibirtsev(1860-1900)の考えの上に,土壌断面観察の重要性を強調し,断面形態の発達およびその成熟度に従って土壌を分類すべきことを唱えた。ドイツの土壌研究者H.ストレンメやアメリカのC.F.マーブットに影響を与えている。
執筆者:浅海 重夫
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ロシア国民楽派の創始者として19世紀ロシア音楽に強い影響を与えた作曲家。6月1日、スモレンスク付近のノボスパッスコエで大地主の家庭に生まれる。近隣に住む叔父の所有する農奴のオーケストラで西洋音楽に親しんだ。1818年ペテルブルグの寄宿学校に入学。在学中に有名なピアニストのJ・フィールドのレッスンを受け、フンメルと出会い、またプーシキンとも親交を結ぶ。そしてペテルブルグの豊かな音楽生活から刺激を得て、卒業後の22年に作曲を始めた。30年春には歌劇を学ぶためにイタリアに向かい、ベッリーニやドニゼッティと知り合う。ミラノでは作曲家として人気を得たが、彼は郷愁の念からロシア風の作曲を志し、33年帰途につく。途中ベルリンでS・デーンに作曲法を体系的に学び、34年帰国、愛国的英雄イワン・スサーニンを題材とするオペラの作曲に没頭した。皇帝ニコライ1世の命で『皇帝に捧(ささ)げた命』と改題されたこの作品は36年に初演され、大成功を収めた。やがてプーシキンの叙事詩に基づくオペラ『ルスランとリュドミラ』に着手。これは42年に完成し初演されたが、思わしくない結果に絶望した彼は1年後に故郷をあとにした。パリではベルリオーズの熱烈な支援を受けたが、グリンカも彼の管弦楽法から多くを学び、翌年スペインで作曲した『スペイン序曲第一番』(1845)に結実させた。ワルシャワでは管弦楽曲『カマリンスカヤ』(1848)を作曲。晩年のグリンカは多くの支持者を得、故郷とパリの間を往復して活動を続けたが、さらに厳格対位法の研究のためにベルリンに赴き、57年2月15日その地で客死した。
[寺本まり子]
ロシア生まれの土壌学者。ドクチャーエフ学派の優れた後継者である。サンクト・ペテルブルグ大学でドクチャーエフに鉱物学を学び、土壌研究の基礎を固めたのち、ノボ・アレクサンドリア農業研究所の地質・鉱物主任研究員を経て、ドクチャーエフ学派の一人であるシビルツェフNikolai Mikhailovich Sibirtsev(1860―1900)の後を受けて、同研究所のペドロジー(土壌学)主任教授となった。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロシアのみならず西ヨーロッパの各地を巡って土壌調査研究を行い、ドクチャーエフによって開かれた成因論的土壌学すなわちペドロジーの研究を発展させた。とくに著書『世界の大土壌群とその生成発達』は、ドクチャーエフ学説を西ヨーロッパ諸国(ドイツ、イギリス、フランスなど)のほかアメリカ合衆国にも普及させる功績となった。のちにアメリカに渡り、第1回国際土壌学会議で講演したあと胃癌(いがん)で死去した。
[浅海重夫]
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出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報
1804~57
ロシアの作曲家。「国民音楽」の父。1836年,ポーランドのロシア侵入をテーマとした最初の国民歌劇『イヴァン・スサーニン』を発表。ロシア的旋律と感情を生かした曲をつくった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…土壌が自然体の一つで,気候,植物,動物,母材岩石,地形,時間などさまざまな因子(土壌生成因子という)の相互作用のもとで,それに適応した土壌が生成し,時間とともに変化発展することを明らかにした。彼の弟子グリンカK.D.GlinkaやシビルツェフN.M.Sibirtsevらとともに,各種の土壌型が地球上に帯状に分布するという土壌成帯説を唱え,土壌学の研究に新しい視点をとり入れた。【茅野 充男】。…
…当時のロシアでは,皇室の支持を受けてA.ルビンシテインが指導する〈ロシア音楽協会〉や音楽院が,職業的音楽家を養成して音楽の技術的水準を高め,西欧の古典音楽をロシアに定着させることを目ざしていた。国民楽派のメンバーは,このようなアカデミックな立場と対立し,〈無料音楽学校〉を開設して,音楽芸術の民衆化を図り,その演奏会では,自分たちの信奉する西欧の現代作曲家(ベートーベン,シューマン,ベルリオーズ,リストら)とロシアの先輩作曲家(グリンカ,ダルゴムイシスキーら)の作品や自作を宣伝した。 彼らの創作原理は民衆,それもロシアの民衆のなかに音楽の原点を求めたことに要約される。…
…18世紀も最後の四半世紀に入ると,パシケビチVasilii Alekseevich Pashkevich(1742ころ‐97),フォミンEvstignei Ipatovich Fomin(1761‐1800),ボルトニャンスキー,ハンドシキンIvan Evstaf’evich Khandoshkin(1747ころ‐1804),ベレゾフスキーMaksim Sozontovich Berezovskii(1745‐77)といったロシア人作曲家も輩出し,ロシア語のオペラ,室内楽,宗教音楽に優れた作品を残した。
[グリンカの登場]
19世紀に入ると,貴族の家庭で子女に対する音楽教育が一般的となり,貴族階級のなかからも優れた音楽家が生まれてきた。アリャビエフ,ワルラーモフ,グリリョフLev Stepanovich Gurilyov(1770‐1844)はロシア・ロマンスと呼ばれる都会的な民謡調の歌曲を作曲した。…
※「グリンカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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