改訂新版 世界大百科事典 「バンテン農民反乱」の意味・わかりやすい解説
バンテン農民反乱 (バンテンのうみんはんらん)
1888年7月9日,インドネシアのジャワ島西端バンテンBanten地方の第2の行政中心地チレゴンで,副理事官書記(ヨーロッパ人)の家を住民の一隊が襲撃したことに端を発し,武装した農民が各地でオランダ人やインドネシア人の官吏を殺害し,租税などに関する公文書を焼き,囚人を解放する行動を続けた事件。植民地政府の対抗措置のために,目ざすバンテンの中心地セランを攻撃するまでにいたらず,7月30日には完全に鎮圧されてしまう短命のものであった。この一連の反乱行動は,16世紀以来のバンテン王国の伝統社会がオランダ支配の強化によって崩壊していく中で,税や労役の重い負担を負わせられ生活の困苦を強いられた大多数の農民の経済的不満と,イスラム教徒としての異教徒(カーフィル)支配への宗教的反感とが結合して,ことにハジ(メッカ巡礼者)を頂点とする師弟関係およびタレカット(タリーカ)と称する神秘性をもつ兄弟関係よりなる,イスラム集団の組織力に依拠する形で噴出したもので,20世紀の民族独立運動へ連続していくものを確かに内包していたといえよう。
執筆者:森 弘之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報