タリーカ(英語表記)ṭarīqa

改訂新版 世界大百科事典 「タリーカ」の意味・わかりやすい解説

タリーカ
ṭarīqa

イスラム世界において,スーフィーと呼ばれる神秘家たちのつくった教団。タリーカのアラビア語の元来の意味は〈道〉のことであった。神との合一を求めるスーフィーたちは神秘的修行を積まねばならず,そのような修行の道程が元来のタリーカの意味であった。この元来の意味がスーフィーたちのつくる教団の意味に転じていった。この後者の意味でのタリーカの成立期は12~13世紀のころと考えられており,アブド・アルカーディル・アルジーラーニーを創立者とするカーディリー教団を最初として,以後,多くのタリーカがイスラム世界の全域に広がっていった。このタリーカの成立に伴い,スーフィーたちの組織が強固で永続的性格のものに変質したことのほか,民衆を教団員として包摂し,民衆レベルでの〈イスラム化〉が達成されたことが注目される。

 タリーカの発祥地は12~13世紀のイラクであるが,少し遅れて,イスラム世界の辺境地帯で多くのタリーカが形成された。北アフリカでは,13世紀ころからシャージリーShādhilī教団などが活動を始め,中央アジアでも,13世紀ころからヤサウィー教団メウレウィー教団などが活動を開始した。インド方面でも,13世紀ころからスフラワルディー教団チシュティー教団などが活動を開始した。このことは,ベルベル,トルコ族などの非アラブの〈イスラム化〉がこのタリーカの活動に負うところが多いことを示している。イスラム世界の中心部のエジプトでも13世紀ころから15世紀ころにかけて,シャージリー教団アフマディー教団などが有力となった。都市をはじめ地方の町や村にも,スーフィーや教団の集団的修行のためのザーウィヤ,テッケハーンカーリバートなどと呼ばれる修道場がさかんにつくられた。15世紀ころから18世紀ころにかけてがタリーカの活動の最盛期であり,タリーカの創立者であるスーフィーの聖者に対する民衆の崇拝が一段と進み,タリーカと民衆宗教との結合が進んだ。19世紀には改革主義的なタリーカが生まれ,ヨーロッパ諸国の侵略にも対抗する姿勢を示した。リビアのサヌーシー派西アフリカティジャーニー教団,スーダンのマフディー派の乱などにその現れがみられる。

 このタリーカの内部構造は,シャイフとかピールpīrと呼ばれる師匠と,ムリードmurīdと呼ばれる弟子たちからなっていた。タリーカのシャイフと教団の創立者である聖者との間には,シルシラsilsilaと呼ばれる系図がつくられ,教団の長の職は多くは世襲の形をとった。民衆はムリードとなって教団員となり,ジクルなどの宗教行事に参加した。タリーカの活動が民衆の信仰を獲得するのには,聖者崇拝の信仰に負うところが多い。アブド・アルカーディル・アルジーラーニーや,アフマド・アルバダウィーのようなスーフィーは聖者として崇拝の対象となった。これらの聖者はバラカと呼ばれる特別の呪力をもっており,民衆のさまざまな呪術的願望をかなえてくれると信じられた。タリーカのシャイフもこのような聖者のバラカの継承者と信じられた。北アフリカではこのようなバラカをもつ聖者やその継承者がマラブー(マラブート)と呼ばれた。このような聖者崇拝には,シャリーフと呼ばれるムハンマドの子孫に対する崇拝が結びついているのが普通で,タリーカの聖者やシャイフはシャリーフであることが多い。

 タリーカの社会的役割としては,民衆にとっての身近な社会集団との結びつきが強かったため,正統的イスラムのシャリーア(イスラム法)による一般的・抽象的な社会統合を補完しえたことが注目される。具体的にいえば,都市における街区(ハーラ),ギルド,軍団,血縁集団などとのタリーカの結びつきがみられるということである。18世紀のカイロではフサイニーヤ地区とバイユーミーBayyūmī教団やハルワティーKhalwatī教団が結びついていた。ギルドとタリーカとの結びつきの例としては,18世紀のカイロの肉屋のギルドとバイユーミー教団との結合が知られているし,エジプトの踊り子たちは聖者アフマド・アルバダウィーを守護聖者としていた。オスマン帝国イエニチェリ軍団はベクターシュ教団との結びつきが強かったことはよく知られている。血縁集団との結びつきはアフリカでは広くみられる現象である。ソマリアのイスハーク族とダルード族は,アラブの出自の聖者を守護聖者としていた。19世紀のスーダンでもタリーカの活動と血縁集団との結びつきは広くみられる。政治的役割としては,スンナ派イスラムに対し妥協的で宮廷やスンナ派ウラマーとの結びつきの強い穏健な教団と,民衆との結びつきが強く,ときには政治的に急進的な活動に走る教団と二つのタイプがある。前者の例としては,カーディリー教団がよく知られているが,インドのスフラワルディー教団やオスマン帝国のメウレウィー教団もこのタイプに属する。後者の例としては,18世紀のエジプトのバイユーミー教団,インドのチシュティー教団,19世紀のリビアのサヌーシー派,西アフリカのティジャーニー教団などがこのタイプに属する。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「タリーカ」の解説

タリーカ
ṭarīqa

アラビア語で「道」を意味し,ふつうはスーフィー教団をさす言葉。ジュナイドやハッラージュという神秘主義者が活躍した9~10世紀頃までは精神的修行の道という意味であったが,師が弟子とともに修道場で共同生活を始めるとともに,修行の方法が定式化し,11~12世紀頃になると教団組織を意味するようになった。同時に教祖は聖者として崇拝され,その墓廟は巡礼地となりイスラームにおける聖者信仰も盛んになった。初期のタリーカとしては,カーディリー教団,リファーイー教団,スフラワルディー教団などが有名。

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世界大百科事典(旧版)内のタリーカの言及

【イスラム】より

…ただ単に商人だけではない。教会の組織をもたないイスラムであるが,12世紀には神秘主義教団(タリーカ)が相次いで設立され,13~14世紀には,ハーンカー,ザーウィヤなどと呼ばれた修道場のネットワークが,イスラム世界のいたる所に張り巡らされた。異教徒の教化に最も熱心であったのは,このような神秘主義教団の教団員であり,彼らは殉教を願って異教徒の地に赴き,唯一の神への信仰を情熱をもって説き聞かせた。…

【カフカス】より

…伝道が禁止されているにもかかわらず,宗教活動は徐々に盛んになってきている。北カフカスではタリーカと呼ばれるイスラム教団の活動が活発化している。グルジアやアルメニアのキリスト教会でも老人のみならず若い,特に女性の参拝が顕著である。…

【ギルド】より

…ギルドが都市の政治と関係する例は中国でも珍しくないが,権力に対抗して新しい時代をひらくような方向はみられなかった。【梅原 郁】
【イスラム社会のギルド】
 前近代のイスラム都市において商人・手工業者は,タリーカ,ターイファṭā’fa,ヒルファḥirfa,サンアṣan‘a,シンフṣinf,アスナーフaṣnāfなどと呼ばれる同職組合をつくっていた。しかし,これらの組織は中世ヨーロッパにみられる自治権をもった典型的なギルドとまったく同じものではなく,政府によって統制された組織であった。…

【スーダン】より

… フンジ,ダルフールの王国時代は,スーダンにイスラムが広く浸透する時期である(特に18世紀)。原始宗教を信ずる多くの住民のイスラムへの改宗には,イスラム神秘主義教団(タリーカ)の役割が大きかった。教団の布教活動は,民衆の呪術的願望をかなえてくれると信じられた聖者を通じて民衆の信仰を獲得し,民衆を教団員として包摂し,血縁集団との結びつきも広くみられた。…

【フトゥッワ】より

…その野心的な試みはモンゴル軍のバグダード侵入によって無に帰したものの,ナーシルの理想は小アジアのアヒー(兄弟団)に受け継がれ,13~14世紀へかけて特定の守護聖者をまつる宗教的職業ギルドが多数形成された。一方,このころになるとタリーカ(神秘主義教団)の結成も盛んになり,スーフィーたちは,任俠を貴ぶアイヤールとは異なって,フトゥッワの精神を忍耐と寛容であると解釈し,その実践に努めた。手工業者の職業ギルドとタリーカとの具体的関係は不明であるが,フトゥッワを媒介として両者が緊密な関係にあったことはまちがいないであろう。…

※「タリーカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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