改訂新版 世界大百科事典
「フルブライト交流計画」の意味・わかりやすい解説
フルブライト交流計画 (フルブライトこうりゅうけいかく)
Fulbright Program
第2次大戦終了後,アメリカが自国と諸外国との相互理解を深める目的で始めた大学院学生,専門家,教育者の交流計画。名称は,この計画のための法案(1946成立)を議会に提出したJ.W.フルブライト議員にちなむ。この計画により,アメリカで大学院教育をうけ,研究に従事し,あるいは講義を行った諸外国の学生,研究者,教授の数はおびただしい数に上り,また一方,多数のアメリカ人学生,研究者が他の国々で勉学,研究教育に従事する機会を得た。日米間では1952年から実施されている。フルブライト計画はアメリカが余剰軍需品,のちには余剰農産物を海外で売却して得た相手国の通貨を基金として運用されてきたが,近年はこの計画のための費用を分担する国が増えており,日本も79年以降費用の半額を負担している。この計画によってアメリカに赴いた日本人奨学生の数は4601人(1952-83),また日本を訪れたアメリカ人奨学生は1199人に達している。なお,フルブライト交流計画に先だち,アメリカの日本占領政策の一環として,ガリオア資金(ガリオア・エロア資金)によるアメリカへの留学制度(1949-52,計1097人)があった。
執筆者:有賀 貞
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「フルブライト交流計画」の意味・わかりやすい解説
フルブライト交流計画【フルブライトこうりゅうけいかく】
第2次大戦後,米国が余剰物資を外国で払い下げた代金をおもな基金として,当該国と米国の間で留学生受入れや教授交換等を行うという文化交流計画。上院議員J.W.フルブライトがこの計画のための法案を提出し,1946年制定された(のちフルブライト=ヘイズ法)。国務省の所管。これにより多数の外国人学生・研究者がアメリカで教育を受けたり研究・教育活動を展開し,また多くのアメリカの学生・研究者が諸外国におもむいた。その総数はのべ20万人にのぼり,日米間では1952年から始まり,1995年までに合計約8300名が渡米または来日した。両国代表からなる日米教育委員会が人材を選考する。なお,これ以前にガリオア資金によるアメリカへの留学制度(1949年―1952年,計1097人)があった。
→関連項目小田実|フルブライト|留学
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世界大百科事典(旧版)内のフルブライト交流計画の言及
【留学】より
…明治年間の官私費留学生は約2万4700人にのぼるとみられ,また1875‐1940年の間の文部省の官費留学生・在外研究員は全体で約3200人を数える。 第2次大戦後は,アメリカのガリオア資金(1949‐52),[フルブライト交流計画](1953以降)による留学(両方で1983年までに約6900人)のほか,フランス(1950),イギリス(1951),西ドイツ(1952)ほかの外国の政府・機関の奨学金による留学から始まり,日本の国費留学は,1950年に再開された文部省在外研究員制度のほか,学生を対象とするものとしては,アジア諸国等派遣留学生制度(1968),学生国際交流制度(1972),教員養成大学・学部学生海外派遣制度(1973)等があり,他方,初等中等学校教員等の海外研修制度(1959)もある。また,地方公共団体や大学等の諸学校による派遣,内外の財団等による留学,自費留学,など多様な経路による留学が盛んであり,今日,年間の海外への留学者(研修,技術修得者も含む)は約18万人(1996)にのぼり,その大部分は私費である。…
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