プロシア憲法闘争(読み)プロシアけんぽうとうそう(英語表記)Preussischer Verfassungskonflikt

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「プロシア憲法闘争」の意味・わかりやすい解説

プロシア憲法闘争
プロシアけんぽうとうそう
Preussischer Verfassungskonflikt

プロイセン憲法闘争とも呼ばれる。 1860年代に起ったプロシア政府と議会の間の闘争。 1861年1月プロシア王となったウィルヘルム1世が,陸相 A.ローンに議会に提出させたドイツ統一のための陸軍拡張案で多額の軍事費が計上されたため,同年 12月選挙で第1党に躍進したドイツ進歩党は,従来空文に等しかった予算審議権確立を目指して闘争を展開した。しかし,62年首相に任命されたビスマルクは議会を無視して既定計画を断行進歩党世論を背景にこれを激しく非難した。 66年のプロシア=オーストリア戦争の勝利により,人心は進歩党を離れ,ビスマルクもまた議会に事後承諾を求めた免責法案を提出し,憲法闘争は終ったが,この間に進歩党は分裂し,多数が国民自由党を組織してビスマルク支持派となった。プロシア王国になお存続する絶対主義的な体質と,ブルジョア階層の弱みを暴露した事件である。

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