(1)日清戦争後に立憲改進党ほか諸派が自由党に対抗して結成した政党。1896年3月,改進党,立憲革新党,財政革新会,中国進歩党などが合同し,進歩主義に立つことを宣言,責任内閣の完成,国権拡張,財政整理を政綱に掲げた。9月事実上の党首大隈重信が第2次松方正義内閣に外相として入閣,進歩党も与党となって第10議会では金本位制確立のための貨幣法案や戦後経営関連諸法案を成立させた。議会後,大隈は農商務相を兼任し,党幹部が農商務次官・局長,県知事などに就任,97年8月新設の勅任参事官にも多数任命されたため官僚勢力との利害が対立することになった。政府が次年度予算案に地租増徴案をとりあげたことに反発して10月末に政府との提携を断絶,11月には在官党員がいっせいに辞任した。第11議会には内閣不信任案を支持して衆議院は解散されたが松方内閣も辞職を余儀なくされた。翌98年1月成立した第3次伊藤博文内閣との提携条件が不調に終わり,第12議会では野党として自由党とともに地租増徴案を否決し,再び衆議院は解散,その間に両党は接近し6月22日合同して憲政党を結成した。
執筆者:宇野 俊一(2)大日本政治会に結集し,翼賛体制を担っていた議員たちの主力が,第2次大戦直後の社会状況における保守安定勢力の形成を意図して1945年11月16日に結党した政党。正式名は日本進歩党。所属議員は274名。幹事長鶴見祐輔,政務調査会長太田正孝,総務委員斎藤隆夫ほか,という構成であった。党の名称が民本党と仮称されたように,国体の護持,立憲君主制を唱え,〈国民の総意を基調とする民本政治〉(宣言)を指導理念とするその政治的立場は,当時の民主化状況に対応するものとはならなかった。公職追放で議員の95%弱である260名を失い,46年4月の総選挙では当選94名で社会党とほぼ同数であり第二党の地位しか得られず,保守主流の役を自由党に譲る結果となった。党首には初め宇垣一成を擁立する動きがあったが,45年12月18日町田忠治を総裁に決定,町田が追放されて以降は斎藤,犬養健らで運営,46年4月に入ってようやく首相を辞任した幣原喜重郎を総裁として迎え入れた。幣原内閣の与党であった進歩党は国民の批判を浴びて苦境に立っていたが,第1次吉田茂内閣の成立で救われ,再び与党として閣僚を送った。しかし,進歩党の旧憲法体制的体質を払拭する動きが党内に強まり,1946年12月新綱領の発表,47年3月最高幹部会における新党結成方針の決定等を経て,同月末日,それまでの経過を〈一切清算〉(解党宣言)して,新しく民主党を発足させる。
執筆者:高橋 彦博
1948年の大統領選挙に際して結成されたアメリカの政党。革新党とも訳される。1946年にトルーマン政権の商務長官の座を去ったH.A.ウォーレスが組織した〈アメリカの進歩的市民(PCA)〉を軸に,ニューディール左派,CIOの一部,全米有色人種向上協会(NAACP),全国農民連盟などの勢力を糾合。48年7月の党大会でみずからF.D.ローズベルトの掲げた理念の真の継承者たることを主張し,基幹産業の漸進的公有化,タフト=ハートリー法の撤廃,人種差別の廃止,対ソ平和外交の確立などを骨子とする綱領を採択,ウォーレスを大統領候補に指名した。トルーマン政権に不満を抱くリベラル派の結集をめざしたが,同年のチェコスロバキア政変やベルリン封鎖がソ連の侵略的傾向のあらわれと受けとられたことや,進歩党が共産主義者の影響下にあると非難されたことなどから,一般投票の2.4%,116万票を得たにとどまった。50年には朝鮮戦争への介入に反対して支持者を急速に失った。
執筆者:中里 明彦
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明治時代中期の政党。日清(にっしん)戦争後の第9議会の開会を目前に、第二次伊藤博文(ひろぶみ)内閣が自由党と公然と提携したことに刺激を受け、1896年(明治29)3月1日、立憲改進党を中心に立憲革新党、財政革新会、中国進歩党、大手倶楽部(くらぶ)、越佐会、同志会の諸派と一部の独立議員が合同して結成した。所属議員は99名を数え、進歩主義にたつことを宣言し、その政綱に責任内閣の完成、国権拡張、財政整理などを掲げ、大隈重信(おおくましげのぶ)を事実上の党首とした。大隈は、同年9月成立の第二次松方正義(まさよし)内閣に言論・集会・出版の自由、民間の人材登用など進歩党の要求する諸政策実現を条件に外相として入閣、進歩党も11月の臨時大会で松方内閣支持を表明、政府与党となった。続く第10議会では、海軍拡張費を含む軍拡予算案、貨幣法案など戦後経営のための重要諸法案を成立させた。議会閉会後の1897年3月大隈が農商務相を兼任し、4月党幹部が農商務次官や局長、県知事などに就任し、さらに8月、新設された勅任参事官にも登用されるに及んで、官僚勢力との対立が表面化した。政府が次年度予算編成の方針として地租増徴案を採用しようとしたため、進歩党はこれを容認できず、11月松方内閣との提携を断絶し、在官の党員も一斉に辞任した。第11議会では、自由党の提出した政府不信任案に同調して衆議院は解散となり、内閣を総辞職に追い込んだ。1898年1月、第三次伊藤内閣との提携交渉が不調となり、第12議会には野党として自由党と提携、政府提出の地租増徴案を否決した。このためふたたび衆議院は解散となったが、この間に進歩・自由両党は接近し、6月21日解党して翌22日に憲政党を結成した。
[宇野俊一]
プロイセンおよびドイツ第二帝政の政党。1861年6月、軍事予算をめぐるプロイセン議会の自由主義者、ブルジョア民主主義者と政府との対立をきっかけに結成され、プロイセン指導のドイツ統一、穏健な議会主義の達成などを掲げて、「鉄血政策」を唱え国王大権や軍部の特権を擁護するビスマルクと対立、憲法闘争を引き起こした。1866年のプロイセン・フランス戦争の際、ビスマルクを支持するグループが離脱して国民自由党を創設したが、進歩党は中・小経営者、教養ブルジョア層を主要支持基盤としつつ、左派自由主義の立場を維持、リヒターらの指導の下に第二帝政下でも政府の批判勢力であり続けた。党の思想的原則をめぐる対立や左右の中間にある政治的位置から、離合集散が激しく、1884年には国民自由党の分離派と合同して自由思想党と改称し、93年には軍事予算をめぐって2派に分裂、1910年ようやく全ドイツの左派自由主義の統一体として進歩人民党が成立した。第一次世界大戦後ほぼドイツ民主党へと移行した。
[木村靖二]
アメリカの政党。20世紀に入ってアメリカには、この名を冠した政党が三度、既成二大政党内の批判勢力によって結成された。いずれも大統領選挙に敗れて短期間に消滅したが、進歩的な政綱を掲げ、多数政党の政策変更に一定の役割を果たした。1912年に共和党から分離、結成された最初の進歩党(革新党)は、同年、T・ルーズベルトを大統領候補にたて、関税改革、独占のより厳格な規制、上院議員の直接選挙などを主張した(1916解消)。また、ラフォレット共和党上院議員を大統領候補に、24年に結成された進歩党(正式には革新的政治行動委員会)は、鉄道の国有化、労働組合の団結権・団体交渉権の公認などを政綱とした(1925解消)。さらに、第二次世界大戦後の47年、民主党内の進歩派が分離して結成された第三の進歩党は、48年大統領候補にウォーレスをたて、トルーマン政権の冷戦外交、国内治安対策を批判し、対ソ穏健外交、社会福祉、公民権の拡充を主張した(1952解消)。
[紀平英作]
「革新党[アメリカ合衆国]」のページをご覧ください。
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明治中期の政党。1896年(明治29)3月,立憲改進党を軸に,立憲革新党・大手倶楽部など対外硬運動に参加した勢力が結集して成立。発足当時99人の衆議院議員が参加し,すでに第2次伊藤内閣と提携していた自由党と議席数で並んだ。同年9月に成立した第2次松方内閣と提携し,事実上の党首大隈重信(外相)と高橋健三(内閣書記官長)・神鞭知常(こうむちともつね)(法制局長官)の3人が入閣し,のちには局長・知事ポストに多くの党員が就任した。提携により松方内閣は第10議会を無事乗り切り,新聞紙条例の一部緩和などが実施された。第11議会前に松方内閣が地租増徴の方針を決定したため提携は破綻し,98年6月には自由党と合同して憲政党を結成した。
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…初代農林部長官,国会副議長を歴任したが,李承晩の独裁に反対して52,56年と大統領選に出馬したが,落選。55‐56年にかけて,反独裁・民主守護,祖国の平和統一を綱領とする進歩党を組織し,56年11月正式に結党した。58年,進歩党の発展を恐れた李承晩政権により,北朝鮮のスパイにでっちあげられ(進歩党事件),59年死刑を執行された。…
…ポルトガルはイギリスに対して自国の農産物の輸出と引換えに工業製品の輸入を認め,17世紀後半以来続いた対英従属を決定的なものとした。
[刷新]
1851年サルダニャ内閣の成立で長期にわたる混乱に終止符が打たれ,憲章党は刷新党に,九月党も穏健化して進歩党と改名して,イギリス流の二大政党政治が19世紀後半全体を通じて続くことになる。〈刷新〉の旗印の下に〈物質面の改善〉を目ざした近代化が推進され,遅まきながらポルトガルにも産業革命の波が押し寄せ,鉄道の開設,道路網の整備など,公共事業が進められた。…
…88年外務大臣となり条約改正にあたったが国権論者に反対され,翌年排外主義者による爆弾事件で右脚を失い,辞職した。96年進歩党を結成して党首となり,第2次松方正義内閣の外務大臣となったが,98年6月に板垣退助と憲政党を結成して日本最初の政党内閣(隈板内閣)を組織した。しかしこの内閣は,薩長藩閥ならびに官僚グループの抵抗と党内の自由,進歩両派の対立から,みるべき政策を展開することなく10月に瓦解した。…
…しかもこれら対外硬派連合の議席は自由党を上まわり,政府と結んだ自由党と対外硬派と結んだ改進党は,第5議会以後激しく対立する。日清戦争後,95年11月の自由党と政府との公然たる提携宣言を経て,第9議会中の96年3月,改進党は他の小会派と合同して新たに進歩党を結成した。進歩党はまもなく松隈内閣を成立させるが,後に憲政本党にいたっても,基本的には改進党以来の民党的色彩を残存させることになる。…
…06年9月,予備立憲の詔勅が出されると,それに呼応して政聞社を設立して憲政運動をはじめ,本国における張謇(ちようけん)らの国会開会の請願運動を支持した。しかし,11年10月,武昌で革命が起こり,共和政体が成立したため,12年11月,彼は14年ぶりに帰国し,進歩党を創設して袁世凱(えんせいがい)を擁護し,熊希齢内閣の司法総長となった。1915年,袁世凱が帝制復活をもくろむと,それに反対して共和制擁護の立場をとり,かつての学生蔡鍔(さいがく)のひきいる護国軍を支持して反袁闘争に参加した。…
※「進歩党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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