北京において清国と列国との間に結ばれた条約・協定の通称。第1次アヘン戦争以後,列国は清国朝廷の所在地北京で条約を結ぶことを強く要求し,他方清朝はそれを極力回避しようとした。しかし,第2次アヘン戦争の結果,1860年(咸豊10)の北京条約において,イギリス,フランス,ロシアはこの目的を達した。まず,清国欽差大臣奕訢(えききん)とイギリス全権エルギンJ.B.Elginとが全9条からなる中英北京条約に調印した。内容は,1858年の天津条約が有効であることを確認したほか,(1)賠償金増額,(2)天津開港,(3)中国人労働者の海外渡航,(4)九竜半島市街地部分の割譲,を定めた。次いで,奕訢とフランス全権グロBaron Grosとが調印した中仏北京条約は,イギリスと同様に(1)~(3)を定めたほか,中国側が没収したカトリック教会の財産の返還を認めさせた。さらに,奕訢とロシア駐華公使イグナティエフN.P.Ignat'evとの間で中露北京条約全15条が調印された。内容は,(1)璦琿(あいぐん)条約で中立地帯とされたウスリー(烏蘇里)江東岸の割譲,(2)クーロン(庫倫),張家口における貿易の許可,(3)カシュガル(喀什噶爾)を交易地として開放すること,などが約され,翌年ウラジオストクが建設された。表のごとく,これ以降,北京において頻繁に条約が結ばれたが,1896年(光緒22)の中日通商行船条約や1901年の義和団事変に関する最終議定書のごとく,北京において調印された条約でも北京条約と称されないものもある。
執筆者:浜下 武志
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中国、北京で清(しん)国が諸外国と結んだ十数種の条約の通称。ただし、北京で結ばれた条約すべてを含むものではない(義和団事件後の辛丑(しんちゅう)議定書はその一例)。もっとも有名なものは、1860年10月イギリス、フランスと、11月にロシアと個別に結んだ三つの条約である。清英、清仏間の条約は57年来のアロー戦争(第二次アヘン戦争)を終わらせたもので、58年の天津(てんしん)条約を確認したほか、〔1〕天津条約に規定された賠償の増額(各800万両(テール)へ)、〔2〕天津の開港、〔3〕中国人労働者の募集と渡航の承認、〔4〕イギリスの九竜司地方(九竜半島南端の市街地部分)の割譲、〔5〕没収したカトリック教会財産のフランスへの返還を承認した。ロシアとの北京条約は、ロシアが清と英仏との講和を斡旋(あっせん)したことから、ロシアの要求を受け入れて結ばれたもので、58年のアイグン(愛琿)条約で、国境確定まで両国で共有することとされていたウスリー川以東の沿海地方をロシア領とすること、クーロン、カシュガル、張家口を貿易地として認めることなどからなる。
北京での条約調印は、従来、清朝が固く拒否し、イギリス、フランスがその実現に固執して北京の軍事占領に至ったもので、この実現自体、清朝の国際的地位の質的変化の象徴であった。事実、清朝ではこの条約締結を機に、保守排外派が宮廷政変によって後退し、条約締結にあたった恭親王奕訢(えききん)らが中心となって、外交の専門機関(総理各国事務衙門(がもん))を設立して、対外和親政策に転換し、イギリス、フランス両国は清朝を支持して、その太平天国鎮圧を積極的に援助するようになった。
[小島晋治]
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アロー戦争の結果,1860年に北京で締結された清国とイギリス,フランス,ロシアとの間の条約で,58年に締結された天津条約の追加条約である。交戦国であったイギリス,フランスはこの条約によって,外交使節の北京常駐権,天津の開港,賠償金の増額を承認させたほか,イギリスは九竜半島の一部を領有し,フランスは清初に没収された旧天主堂の土地・建物の返還を約束させた。ロシアは交戦国ではなかったが,ウスリー川東岸地方を割譲させた。
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…当時北京郊外の円明園にいた咸豊帝は熱河に逃れ,10月に連合軍は円明園に侵入し,破壊と略奪をほしいままにした。10月20日,欽差大臣恭親王はイギリス,フランスの最後通牒を受諾し,中英・中仏北京条約が結ばれた。北京条約は,58年の天津条約に基づいていたが,それに加え,賠償金をイギリス,フランスそれぞれ800万両(テール)に増額し,天津の開港,中国人の海外渡航許可,九竜地区をイギリスに割譲することなどが定められた。…
…行政区画別ではなく,軍管区(軍区)別に国境線を区分し東方から西方へと併記すると,中国の瀋陽軍区(司令部所在地は瀋陽)が旧ソ連の極東(ハバロフスク)とザバイカル(チタ)の2軍管区に,モンゴルを介して,中国の北京(北京),蘭州(蘭州),新疆(ウルムチ)の3軍区が旧ソ連のザバイカル,シベリア(ノボシビリスク)の2軍管区に,そして中国の新疆軍区が旧ソ連の中央アジア(アルマ・アタ,現アルマトゥイ)とシベリアの2軍管区に,それぞれ接していた。この長大な国境線は,帝政ロシアが清朝と締結した一連の条約,すなわち1858年(咸豊8)の璦琿(あいぐん)条約,60年の北京条約,81年(光緒7)の改訂条約,その他さまざまの名を冠した十数の国境測量,調査議定書を含む清露条約体系で決められたものである。そして中ソ国境線の特質は,これらの条約がツァーリ・ロシアによるロシアの東漸,中国侵略を物語る記録である,ということにある。…
※「北京条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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