改訂新版 世界大百科事典 「ボヤーレ」の意味・わかりやすい解説
ボヤーレ
boyare
ロシアのピョートル1世以前(10~17世紀)の貴族身分で,公身分(クニャージ)につぐ最上位の社会階層。単数形ボヤーリンboyarin,英語ではボヤールboyar。語源については,(1)スラブ語の戦士boi,(2)スカンジナビア諸語の市民・廷臣boearmen,(3)トルコ語の貴人bajar,(4)ブルガール語の主人balerinなどに求める諸説があって定説をみないが,(1)(3)が有力。
キエフ時代(10~11世紀)には2種類のボヤーレ層が存在したといわれる。公の近くにあって政治・軍事全般の相談役や軍隊指揮者の役割を果たすなどいわゆる親兵druzhinaとして仕えたボヤーレと,地方都市に古くから定着している土豪的ボヤーレ層とである。両グループはしだいに合流して同質的な貴族層を形成する。封建的分裂時代(12~15世紀)には,公権力knyazheskaya vlast’の弱体化に伴ってボヤーレ層の政治的・経済的な力の相対的上昇と独立化の傾向が強まる。ボヤーレは今や各地に分立する諸公の家臣団の最上層を構成するが,自ら君主を選ぶことも可能だった。彼らは経済基盤である世襲領votchinaについては代々相伝の完全所有権を享有した。公とボヤーレ層との相対的力関係は各地に分立する諸公国ごとに多様であるが,ノブゴロドやガーリチ・ボルイニ公国ではボヤーレの政治勢力が決定的な比重を占めた。12~15世紀のノブゴロドには〈ボヤーレ共和政〉と呼ばれる国家体制すら生まれた。反対に北東ロシアでは公権力の力が相対的に強く,モスクワ公国ではすでに14世紀後半からボヤーレ層の勤務貴族化が始まる。
モスクワ時代(15~17世紀)には統一国家の形成と大公・ツァーリ権力の強化に伴って,ボヤーレ層の構成や政治的機能にもかなりの変化が起こる。15世紀以降,モスクワ大公は国家機構の重要な諸部門を管轄させている者たちに,特にボヤーリンの称号を与えて貴族会議boyarskaya dumaへの参加権を付与する。この地位を与えられた者の多くは,すでに14世紀からモスクワ大公に仕えた忠実な古い家系の貴族たちで,ロシア諸地方の併合過程で大公に勤務するようになった地方の公やボヤーレは,大公への忠誠が証明されるまでは排除されていた。こうしてボヤーレの語は社会的身分名称であるだけでなく,ツァーリに仕える勤務貴族の国家機構上の高位称号になった。ツァーリ権力はまた,軍事奉仕を条件に知行地pomest'eという非世襲領地を与えて広く中・下級の勤務貴族dvoryaneを育成し,集権化政策を支える階級的基盤にした。ツァーリ政府は有力なボヤーレが集権化政策に抵抗する場合には,勤務貴族層に依拠して彼らを抑圧した。ボヤーレ層の経済的・政治的特権は16~17世紀を通じてしだいに切り縮められ,世襲領と知行地の差異も消滅して土地所有の法的性格も同じものになる(この過程は1714年に完成)。その結果ボヤーレと勤務貴族の実質的な差も消失し,18世紀には一つの貴族階級に合流する。ピョートル大帝がボヤーレ称号を廃止して国家制度上のボヤーレは最終的に消滅するが,農民など一般民衆の言語にはその後も長く残り〈主人〉〈旦那〉の意に使われた。
執筆者:松木 栄三
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