ミドハト憲法(その他表記)Kānūn-&idotless; Esāsī

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ミドハト憲法」の解説

ミドハト憲法(ミドハトけんぽう)
Kānūn-&idotless; Esāsī

1876年12月,オスマン帝国で発布された憲法通称ミドハト・パシャによって起草されたことによる。オスマン帝国が近代的な法治国家であることを示すため,個人の自由,議会政治などの民主主義的内容を盛ったものであった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ミドハト憲法」の解説

ミドハト憲法
ミドハトけんぽう
Midhat

オスマン帝国最初の憲法
1876年宰相ミドハト=パシャによって作成,スルタンであるアブデュル=ハミト2世によって発布された。責任内閣制,二院制国会などを定めたが,翌年露土(ロシアトルコ戦争が起こると,その敗北責任を問われてミドハトは流罪とされ,これを口実に1878年,施行が停止された。

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世界大百科事典(旧版)内のミドハト憲法の言及

【アブデュルハミト[2世]】より

…在位1876‐1909年。即位当初,バルカン諸民族の保護を口実としたヨーロッパ諸列強の干渉をかわすために,改革派政治家ミドハト・パシャらの起草した憲法(ミドハト憲法)を発布(1876)し,議会を開設した(第1次立憲制)。1877‐78年露土戦争を機に憲法を停止し議会を閉鎖して専制政治を開始した。…

【オスマン帝国】より

…国家レベルにおけるこのような改革にもかかわらず,経済・財政面におけるヨーロッパ諸国への従属は,19世紀を通じて深まり,75年には外債利子の支払不能を宣言せざるを得なくなり,以後,帝国は経済的自主性を喪失した。こうした事態に対して,先にあげた新しいタイプのエリート層は〈新オスマン人〉を名のり,反専制・自由主義・立憲を標榜した運動を展開し,76年にミドハト憲法にもとづく第1次立憲制の樹立に成功したが,やがて,パン・イスラム主義の装いのもとに専制によるオスマン帝国体制を維持しようとしたアブデュルハミト2世(在位1876‐1909)の弾圧のもとに沈黙をよぎなくされた。しかし,アブデュルハミトが西欧列強と同じように,国内における地域,民族,宗教,宗派にもとづく対立を利用して被支配民族の自立要求を弾圧したことは,アルメニア問題など将来に大きな禍根を残した。…

【ミドハト・パシャ】より

…その後,スルタンに疎まれて不遇時代を送ったが,76年5月,軍隊の協力も得てスルタン,アブデュルアジーズの退位,ムラト5世の即位に成功した。その後さらに,アブデュルハミト2世を即位させて憲法の起草に努力し,76年12月には自ら大宰相となり,アジアで最初の憲法(ミドハト憲法)を発布した。しかし,1ヵ月半後にスルタンにより辞任させられ,国外に遠ざけられた。…

※「ミドハト憲法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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