( ③について ) 明治五年(一八七二)前後までは、「国憲」「国制」「朝綱」「根本律法」「律例」などと命名されていた。箕作麟祥が政府の命によりフランス法(ナポレオン法典)を翻訳し、明治六年に「憲法」を刊行したが、法典の名称として用いたのはこれが最初である。また箕作は、Constitution を、「仏蘭西法律書・刑法」の明治三年訳本で、「建国ノ法」「国法」としていたが、挙例の明治八年訳本で「憲法」とした。
一般には立憲的意味の近代憲法をさすが、そのほかにもさまざまな意味に用いられる。
まず国家の統治体制の基礎を定める法の全体、すなわち根本法(基礎法)をさす場合に用いられる。いかなる原始国家であっても、権力秩序のあるところには、治める者と治められる者との関係、支配の範囲、統治の仕方などについて、一定の取決めが存在するからであって、これを「固有の意味の憲法」という。この場合、憲法はかならずしも成文化されずに、事実上の支配関係に内在する慣習的な規範として成立していることが多い。
これに対し、近世になって、政治上の自由主義的要求に基づき、さまざまな専制主義、とくに君主の専制権力に対抗して、それに制約を加えるための、一定の政治原理を含む基礎法が確立されると、これを憲法とよぶようになった。この意味の憲法を「立憲的意味の憲法」という。固有の意味の憲法が憲法の本質的意義をさしているのに対して、これは歴史的意義をさしており、「近代的意味の憲法」ともいう。フランス人権宣言(1789)第16条でいう憲法はこの例である。
日本の憲法という場合に、それが固有の意味の憲法をさしているならば、建国とともに始まるいくつかの統治体制の組織法を意味するが、立憲的意味の憲法をさしているならば、それは大日本帝国憲法(明治憲法)によって初めて成立したということになる。通常、単に憲法というときは、立憲的意味の憲法をさしている。次に、憲法典という特別の法形式のものをさすときは「形式的意味の憲法」といい、これに対し、国家の組織・作用の基礎に関する法一般をさすときは「実質的意味の憲法」という。わが国の国会法などは国の基礎的組織にかかわる法であるから、実質的意味の憲法に含まれる。この種の使い分けの場合、憲法といえば一般に形式的意味の憲法(憲法典)をさしていると考えて誤りはない。
憲法という語は聖徳太子の十七条憲法に初めてみいだされるが、これは現在いうところの憲法とは異なり、官民に対する教訓的性格が強い。立憲的意味の憲法の概念が江戸末期から明治にかけて西洋から入ってきたときは、英語・フランス語のconstitutionやドイツ語のVerfassungの訳語として「国憲」の字をあてていたが、明治10年代になってから憲法というようになり、やがて確定的なものとなった。
[池田政章]
憲法は、法の形式、改正手続、制定の主体と方法、歴史的内容(社会体制)によって次のように分類される。
[池田政章]
成文憲法と不文憲法という区別は、法の形式による分類であるが、不文憲法の国として現存するのはイギリスだけである。それも人身保護法(1679)、王位継承法(1701)、議会法(1911)など、憲法的規律が断片的ながら成文化されているので、「イギリスに憲法はない」という言い方は、他の近代諸国家がもっているような成文憲法典をもたないという意味の強調にすぎない。つまり、成文憲法とくに憲法典を「形式的意味の憲法」といい、成文(法律・規則の形のもの)と不文(慣習法など)とを問わず、国家の基礎法の全体を「実質的意味の憲法」ということからすれば、イギリスにないのは形式的意味の憲法なのである。
近代国家では成文憲法が普通である。それは、固有の意味の憲法の場合でも、それが国の基本的な秩序であるということから、なんらかの方法によって確保されなければならないと考えられており、立憲的意味の憲法ではこの考え方はいっそう強く、その新しい政治的・社会的諸原理を固定させようとして、成文化することが行われたからである。すなわち、成文憲法は、旧体制を捨てて政治上・社会上の変革が行われたとき、その新しい制度を確立する要求にこたえるために発達したものであって、歴史上の事例もそれに対応して現れている。たとえば、最初の成文憲法である1776年のバージニア憲法(アメリカ合衆国)、1791年のフランス憲法などの出現を、その歴史的背景との関連でとらえれば明らかである。
[池田政章]
政治的・社会的諸原理を固定化しようという要請から、いったん成文憲法ができると、その憲法をなるべく変えられないようにしたいという要求を生み、その改正には厳格な要件と手続を設けようとする。この改正手続からみて、普通の立法手続では改正できない憲法を「硬性憲法」という。これに対して、それほど厳格な改正手続を経ないで改正できる憲法を「軟性憲法」というが、ニュージーランドの憲法のほか、1814年のフランス憲法や1848年のイタリア憲法など、わずかな例があるにすぎない。軟性憲法は改正しやすいので、安定性に欠けるように考えられやすいが、かならずしもそうとは限らない。硬性憲法の場合でも、スイス、ノルウェー、アメリカ合衆国の憲法の例にみられるように、何度も改正・修正が行われてきた事例もある。
硬性憲法の場合、民主的な憲法には、さらに積極的に主権者としての国民を参加させる意味で、国民の参与(改正発案や国民投票など)を要件とする傾向がある。硬性憲法は安易な政策的考慮で軽率に動かせない効果をもつが、その反面、改正手続をあまり厳格にしすぎると、将来の国民の意思に即応することができないなどの欠陥をもつことになって、かえって憲法無視や憲法破壊を招くことにもなりかねない。そうでない場合には、憲法の枠のなかで規定の解釈が変化していく「憲法の変遷」が生じることになる。アメリカ合衆国憲法が硬性の度が強いのにもかかわらず長い生命を保っているのは、裁判所による解釈を通して憲法の変遷が行われているからといえる。
[池田政章]
制定の主体が君主であり、君主主権の思想に基づいて上から与えられる憲法を欽定憲法という。これとは対照的に、国民が直接にまたは議会を通じて制定する憲法を民定憲法という。前者の例として、1814年のフランス憲法や大日本帝国憲法などがあげられ、後者の例として、アメリカ合衆国諸州の憲法や1791年・1946年・1958年のフランス憲法などをはじめ、多くの共和国憲法がこれに属する。
次に、君主主権と国民(人民)の合意または契約によって制定される憲法を協約憲法という。1830年のフランス憲法がその代表的な例である。また条約憲法とは、多数の国家が結合して連邦を形成するとき、その合意に基づいて制定される憲法をいう。アメリカ合衆国憲法や1871年のドイツ帝国憲法が典型的な例としてあげられる。なお、これらの制定主体や方法による区別は、それぞれの憲法についてその実質的な性格を示すものではないから、このような形式的な分類は、今日ではあまり重要な意味をもたなくなっている。
[池田政章]
前述の伝統的な分類にかわって現代においてはるかに重要な分類方法として、社会体制・経済体制の相違による分類、つまり資本主義憲法と社会主義憲法の区別がある。さらに資本主義憲法の場合、かつての経済的自由放任政策を基礎とした自由国家の体制と異なり、現代では経済への国家の介入を基礎とした社会国家の体制をとるものが多く、前者の自由国家の体制下の憲法を近代憲法もしくは市民憲法というのに対し、後者を現代憲法と称するようになっている。それでもなお社会主義憲法とは一線を画し、両者の間には、権力分立か権力集中かの違い、人権保障の仕方の相違などが際だっている。
[池田政章]
最近広く引用されている分類法として、カール・レーベンシュタインKarl Loewenstein(1891―1973)による「存在論的分類」がある。それによれば、現代の成文憲法は規範的憲法、名目的憲法、意味論的憲法の三つに分類される。規範的憲法とは、政治の規範として現実に機能しているものをいい、西欧諸国の多くの憲法がこれに属する。名目的憲法とは、憲法が現実に規範としての役割を果たしていない場合にそうよばれ、ラテンアメリカ諸国にその例が多い。意味論的憲法とは、権力を有する支配者のために、憲法によってその支配を外観的に定式化したにすぎないもので、アジア、アフリカ諸国の憲法が例にあげられている。以上の分類は、主観的な価値判断が介入する余地があるという欠点を含むが、憲法の社会的機能に着目したという点で注目すべきものと評価されている。
[池田政章]
憲法は国の根本法であるから、普通の法規とは違った独特の性格をもっている。法が政治的過程を経て生み出されてくる限り、法は政治の子であるということもできるが、憲法はとくに政治性の強い法である。なぜなら、憲法の制定や政変それ自体が政治にほかならないばかりか、平和な安定した秩序の枠のなかにおいても、政策の決定は憲法の枠のなかで政治的対立を統合してなされ、国民の生活と密接にかかわりあっているからである。このような憲法の政治性は、憲法が権力的な支配関係と密接な関係があることを意味してはいるが、他面、憲法は最高の法規として現実政治を規律していく力をもっている。すなわち、憲法は国家の重要な組織とその運用の仕方を規定し、国政がこの基本的なルールに基づいて行われるよう、一定の方向づけを与えている。その意味で憲法は、法としての規範性をその本質とする。このように、憲法は政治的なものであると同時に、規範的なものとして両者の総合のうえに存在するといえる。憲法の規範性の特質としては次の3点があげられる。
[池田政章]
実質的意味の憲法は、立法の手続や法律の内容を規律するから、すべての法規は直接または間接に憲法の授権に基づいて存在しているといえる。この授権と受権の関係を段階的に考察したのはハンス・ケルゼンHans Kelsen(1881―1973)で、「憲法―法律―命令」という法段階説を提唱した。
[池田政章]
立憲的意味の憲法は権力分立と権利保障とを主柱とするから、それは国家権力を制限することに本質的なねらいを置くといえる。近代の立憲主義は、国家が国民生活に介入することを排除するという自由国家=消極国家の思想のうえにたっていたが、とりわけ第二次世界大戦後になると、社会福祉の実現のために、国家は経済に介入して国民生活にタッチするようになり、ここに社会国家=積極国家の体制が出現した。そこでは行政権が拡大強化され、制限規範としての憲法の機能は著しい変容を迫られることになった。
[池田政章]
形式的意味の憲法は通常、憲法典として特別の法形式を有し、硬性憲法主義に立脚する。そのため、普通の法律に比べて、より強い形式的効力をもつ。こうして憲法は必然的に最高法規としての性格をもつことになった。日本国憲法はその第10章を「最高法規」の章にあてて、それがもっとも強い形式的効力を有し、それに違反する法令は効力を有しないことを定めている。この憲法の最高法規性を実効的に確保する制度が違憲立法審査制度である。
[池田政章]
憲法とくに近代的憲法は、国政にどのような方向づけを与えているかが問題となる。憲法にかかわる重要な諸原則には次のようなものがあげられる。
まず、国民の政治参加の原則もしくは国民主権がある。すべての国民が直接に政治に参加するのが理想ではあっても、それが不可能であるため、多くの国では国民の間接的政治参加、すなわち間接民主政が行われている。
次に、権力分立(三権分立)の原則がある。その具体的な形態はさまざまではあるが、なんらかの形でこの原則をもっているところに、近代的な意味における憲法の存在理由がある。そして、国家権力の発動の限界を定めたものとして、自由の原則がある。いいかえれば、基本的人権保障の原則である。この原則の重要性は、すでにフランスの人権宣言(1789)第16条が、権力分立の原則と並んで、憲法の二大構成要素としていることによっても理解される。最後に、法の支配もしくは法治主義の原則がある。行政に対する法律の優位の思想がそれである。この原則は憲法の最高法規性を根拠として、裁判所の違憲立法審査の制度を生んだ。
これらの諸原則は、歴史的条件の変化に伴って変容していることも忘れてはならない。たとえば、間接民主政がともすれば国民の意思と乖離(かいり)しがちであるために、さまざまな直接民主政的諸制度を導入して国民主権の実質化が図られたり、権力分立制は行政権の拡大強化のために三権の間のバランスが崩れつつあると警告され、その回復のための諸方策が模索されたりしているなどである。事実、自由の原則は、国民生活への国家の介入が広範にわたったため管理国家化が危惧(きぐ)されるといった状況にある。
他方、まったく異なった原則を有する憲法の出現にも留意する必要がある。ソビエト憲法(1918)をはじめとする社会主義憲法の出現がそれである。これらの憲法は、従来の市民社会秩序とは異なった社会的条件を前提としているから、近代的意味の憲法とは異なった範疇(はんちゅう)に属するものとしての理解が必要となろう。
[池田政章]
国の基本法である憲法は永続的であることを期待されて制定されたものであり、その変更はけっして望ましいことではないが、社会事情の大きな変化や制度上の不都合が生じた場合に、憲法に変動が生ずることがある。カール・シュミットによれば、憲法の変動には、憲法廃棄、憲法排除、憲法破毀(はき)、憲法停止、憲法改正の5種類がある。憲法廃棄とは革命の際にみられる現象で、憲法をつくる権力の除去を伴う変動をさし、憲法排除はクーデターにみられる現象で、憲法をつくる力はそのままに憲法を排除すること、憲法破毀とは若干の憲法規定が侵犯されること、憲法停止は戒厳などの国家緊急時にみられる現象で、若干の憲法規定の一時的な効力停止をさす。ほかにイェリネックが提唱した憲法変遷も同様に論議の対象となっている。
[池田政章]
憲法改正とは、憲法が定めた手続に基づいて、憲法の条項に対し修正・削除・追加し、あるいはもとの憲法典を増補する合法的な変更のことである。世界各国の憲法改正の方法は大別すると次の三つ、すなわち議会の特別多数決によるもの、国民投票による承認を要するもの、連邦に特有の州の同意を改正要件とするもの、がある。日本国憲法は、国会の特別多数決による発議と国民投票による承認という二つの要件を必要としており、厳格な要件が加重された非常に改正しにくい憲法ということができる。諸外国に比べて、わが国が憲法改正に未経験な理由の一つがここにある。
憲法は、規定の仕方が一般的、抽象的であり、普通の社会変動には十分耐えられるようつくられているとはいえ、現実の要求に応じて修正を必要とすることがある。そのときに憲法改正が問題となる。しかし、憲法改正は憲法自らが認めたものであるから、その憲法自身の本質を変えるような改正をなしえないことは当然のことで、国によっては、そのことを憲法に明記しているものもある。それを改正の限界といい、限界がどこまでかについては、憲法の基本原理がそれであるとされる。つまり、基本原理が変えられれば、その憲法が否定されたと同じ結果になると考えられるから、基本原理を変えることは許されないとみるのが正しい。たとえば日本国憲法についていえば、その基本原理である国民主権主義、永久平和主義、および基本的人権尊重主義の本質を失わせるような改正はできないといえる。また憲法改正手続の改正もできないとする説が有力である。
[池田政章]
憲法変遷とは、解釈によって憲法条項の意味内容を変えることをいう。憲法の条項はそのままだが、意味内容が変わることによって憲法改正と同じような結果が得られる。憲法変遷が行われるのは、たとえば議会、政府、裁判所などの国家機関の解釈によって生じ、または憲法の規定とは異なることが実際に行われ、いずれの場合についてもそれに反対する主張がないままに承認されているという場合においてである。わが国で憲法変遷が論ぜられている問題に、憲法第9条の変遷論がある。戦力の不保持の規定(9条2項)にもかかわらず自衛隊が存在するのは、当該条項について変遷が行われたからであるとする説であるが、いまだ少数者の主張にすぎない。
[池田政章]
最高法規である憲法の条項が侵犯されたり、その意味内容が変更されたりすることは、なによりも大きな法的不安定をもたらす。このようなことは事前に防止し、また事後に匡正(きょうせい)されなければならない。この措置を憲法の保障という。憲法の予防的保障制度には、最高法規性の宣言、憲法擁護義務の宣言、権力分立制の採用、硬性憲法の採用などがあり、匡正的保障は、司法裁判所によるもの、憲法裁判所によるもの、憲法院などの国家機関によるものの三つのタイプ(型)に分類される。司法裁判所によるものは具体的な法律上の争訟において行われ、違憲立法審査制度といわれる。アメリカの最高裁判所の判例で確立したもので、アメリカ型などといわれる。わが国はこれに属する。憲法裁判所によるものは、具体的に法律上の争訟がなくても抽象的に法令の合憲性が審査される。現在のドイツ憲法やイタリア憲法などに設けられており、ドイツ型といわれる。このほか裁判所以外の政治機関が法令の合憲性審査を行う国があり、その一例がフランスの憲法院である。
[池田政章]
一般に、憲法という場合、市民革命以降に登場した近代国家の憲法をさしている。この憲法は、国民主権、経済的自由を含む基本的人権、権力分立制を成文形式で表しているところに特徴がある(イギリスは憲法典を有しないが、慣習として確立してきたイギリスの政治組織および権利保障の現実の状況を体系化し、イギリス憲法とよんでいる)。
ところで、近代憲法の出発点とされる1789年のフランス人権宣言は、第3条で「あらゆる主権の淵源(えんげん)は、本質的に国民にある」として、国民主権主義を宣言し、第16条で「権利の保障が確保されず、権力分立が規定されていないすべての社会は、憲法をもたない」と宣言している。これらは、市民的自由の保障、アンシャン・レジーム(旧制度)的権力集中制の排除、制限付きではあるが市民による政治的参加の保障が、市民社会の成立、展開により不可欠なものとされたからにほかならない。
しかし、かかる近代憲法は、資本主義経済の構造的変化、とりわけ20世紀における独占資本主義への展開によって、根本的修正を余儀なくされた。第一に、財産権(所有権、契約の自由、営業の自由)を基底とする近代的人権(人身の自由、精神的自由、政治的自由など)は、一定の修正を被ると同時に、近代的人権にみられなかった労働権を基軸にする生存権、教育権、社会保障権などが登場し、拡大した。第二に、統治機構については、議会制を弱体化し、執行権力の拡大、強化が進行した。とくに、行政権の強化、機構の拡大(官僚制、警察)はそれを示している。また、司法権は、近代立憲主義の憲法原理からくる個人の救済であったが、今日では憲法裁判所あるいは最高裁判所の違憲法令(立法)審査権を認め、行政権の濫用を阻止し、人権の保障を守る憲法の番人としての役割を果たしている。
しかし、このような近代憲法の潮流に対し、近代憲法の背景となる私的利潤を追求する資本主義的生産様式では労働者階級の人間としての解放はありえないとして人間的解放を求めた要求が、ロシア革命となり、1917年ソビエト・ロシアが成立し、そのもとで1924年にソ連憲法を成立させた。
また、第二次世界大戦後になると、アジア、アフリカ、ラテンアメリカ諸国においても、植民地支配から脱し、独立主権国家として近代憲法を制定するに至っている。以下、前記のような系譜を社会構成体に基づいて整理すると次のようになる。
〔1〕資本主義体制下のおもな国の憲法
(1)西欧資本主義型憲法――イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、韓国の憲法など
(2)アジア、アフリカ、ラテンアメリカ型憲法――インドネシア、フィリピンなどアジア諸国、アフリカ諸国、ラテンアメリカ諸国の憲法など
〔2〕社会主義体制下のおもな国の憲法
中華人民共和国、ベトナム、キューバの憲法など
〔3〕体制移行諸国の資本主義型憲法
ソ連解体後のロシアをはじめとする15の独立諸国家の憲法、ポーランド、ブルガリア、チェコ、スロバキア、ルーマニアの憲法など
[吉田善明]
イギリスは、他の諸外国のように統一的な成文憲法典をもたない。したがって、イギリスの場合、憲法と称される憲法原理を明確にしておかなければならない。伝統的に確立してきたイギリス憲法の特徴として、議会主権、法の支配、そして憲法慣習を挙げることができる。この憲法の21世紀の展開として整理すると、
(1)国家構造の改革と地方分権
(2)人権法の制定
(3)貴族院改革と最高裁判所の創設
があげられる。
(1)国家構造の改革と地方分権 1997年に成立したブレア労働党内閣では、1998年にスコットランドとウェールズの分権議会を設置する法律を制定。これによって、イギリス国会に留保された事項以外の第1次立法権をスコットランドとウェールズが有することになり、分権議会が制定した法律は、国会制定法に優位することになった。なお、分権議会とイギリス国会で権限をめぐり争いが生じた場合は、裁判所によって判断される。
(2)人権法の制定 イギリスが1950年に批准したヨーロッパ人権条約により、国民の権利が侵害された場合はヨーロッパ人権裁判所に、イギリス政府を相手取って訴訟を起こすことができるようになり、人権保障の重要性が自覚されてきた。1980年代に「新権利章典」制定論議がおこり、それによって人権保障の国内法化への動きが高まった。それが1998年の人権法の制定へとつながった。人権法の内容は22条に及び、とりわけ注目すべき点は、裁判所は第1次立法条項が、ヨーロッパ人権条約上の権利と適合するかどうかを訴訟において決定する権利があり、それが不適合であると確証するならば、不適法宣言を行うことができる(4条1項・2項)。この宣言の対象が、国会制定法である場合は、当該法律の効力を排除することはないが、「やむを得ざる」理由がある場合には、大臣に命令によって当該法律を修正させる権限がある。
(3)貴族院改革と最高裁判所の創設 1999年の貴族院法の改正によって世襲貴族の議席が剥奪(はくだつ)された。その結果、貴族院は暫定的に残った92人の世襲貴族、26人の聖職貴族、そのほかはすべて首相が指名する議員によって構成された。2003年には、廃止された大法官府、スコットランド省、ウェールズ省を引き継ぐ憲法問題省(司法省に変更)の設置、2005年には、貴族院の司法機能の廃止、三権のすべてに関与した大法官裁判官、貴族院議長の兼務を廃止、裁判官任命方式の改革がなされ、2009年には最高裁判所が設置された。
また、庶民院と内閣の関係も、庶民院に対する内閣、とりわけ首相の地位の優位性と権限強化が図られ今日に至っている。
[吉田善明]
アメリカでは、1776年の独立宣言をもとに、1787年にアメリカ合衆国憲法を制定した。その特徴は第一に、人民(people)主権を前提に、人民から委託された「政府」という形態をつくり政治が行われている。第二に、政治権力を連邦と州に分轄した連邦主義を採用している。第三に、大統領制(厳格な権力分立制)を採用している。この大統領制の議会に対する関係は、1930年代に弱い大統領制から強力な大統領制へ変わっている。第四に、議会は上院、下院の二院制を採用している。第五に、「法の支配」という思想が、「司法権の優位」judicial supremacyという形式で確立している。すなわち、司法権による違憲立法審査権の確立である。
基本的人権の保障は権利章典と修正第14条などからなり、その保障は、「アメリカの自由の歴史は、少なからず手続の歴史である」といわれているように、手続的保障がもっとも重視されている。すなわち、第一に、権利章典として追加された修正第1条から第10条までの規定のうち、半分以上が公正を確保するための手続上の規定である。第二に、権利章典は、連邦と州の間で別個に定められ、両者は無関係であったが、修正第14条が制定されてから、この条項を通して、州が人権を十分に保障しない場合は、連邦最高裁判所は、不十分な人権規定等に対して違憲の判決をするようになった。
また、権利保障の実体面についても厚い保護を図っている。しかし、その内容は第一次世界大戦前と後では大きな変化が指摘される。とくに、裁判所は、財産権の保障を重視する観点から、表現の自由の保障に力点を置いた判決を出し、弱者の保護が図られるようになっている。平等についても、人種問題でみられた「分離すれども平等」separate but equalの原則が破棄され、真の平等への保障が判決によって示されている。また、近年最高裁判所において重要な争点になっているものに、(1)人工妊娠中絶、安楽死、同性愛などプライバシー権にかかわる問題、(2)性差別撤廃のための積極的な措置の実施や、大学入学者選択において人種を考慮する特別措置(黒人やヒスパニック系などマイノリティーを優遇する)の是非、(3)公立学校における宗教的表現と国教樹立の禁止、宗教系を含む私立学校の授業料の公的支援について、さらには、(4)2001年に起こったアメリカ同時多発テロ後、国家安全保障のために政府が行う情報収集と個人のプライバシーに関する適正保障問題などがある。
[吉田善明]
第四共和政下のフランスでは、帝国主義的な植民地政策に反対するアルジェリアの反乱が悪化し、それに対応する政府と議会の機能の停滞と麻痺(まひ)が生じたことから、国民はドゴール将軍にすべてをかけた形で、ドゴールの政界復帰を促し、その復帰(1958)が第五共和政憲法の制定となった。
現行の第五共和政憲法は、政治形態としていえば、大統領制と議院内閣制の混合型として位置づけられる。すなわち、第四共和政の政治機構が国民議会を中心に動くとすれば、第五共和政は大統領を中心にして動く政治機構であるといえる。とりわけ、第五共和政は国会の活動期間が限定されているうえ、国会の地位、権限は著しく弱く、それにかわって大統領の地位、権限が強められた。たとえば、国会で制定する法律の専属的所管事項は極端に限定され、大部分は大統領令の所管として政府に属することになり、しかもまた、国会は政府の責任を追及する有効な手段をもたないのである。そのほか、憲法院も特徴的である(憲法56条)。憲法制定当初の憲法院の目的は国会の権限を抑制し、また、権限を逸脱することのないように監視することで政治機関としての性格が強いことが指摘されていた。ところが、1970年代以降になると憲法院が人権保障の観点から法律の審査を行ったことで国民の支持を得ることになり、憲法を改正して各議院の議員60名の署名による憲法院への提訴権を認めた(憲法61条2項)。これによって少数派議員による憲法院への提訴が可能となり、政治勢力の均衡に役立つと同時に人権保障にとっても重要な意味をもつ機関になった。
人権保障については現行憲法の前文で、1789年の人権宣言、1946年憲法前文により確認され、かつ補完された人の諸権利と国民主権原理に対する忠誠、および2004年の環境憲章により規定された権利と義務に対する国民の忠誠を宣言している。しかしそれだけでは十分とはいえず、現行憲法の法的効力が問われた。憲法院は、これにこたえるかのように前文で言及された人権文書等を根拠にして法律の審査を始めたことから、今日では憲法的効力をもつ規定と解されることになった。また、2005年の憲法改正で前文に導入された環境憲章も同じように憲法的効力をもつ、と解されている。
[吉田善明]
1949年に分裂し、対立関係にあった東西ドイツは、1990年に統一を実現し、1994年に統一ドイツの憲法として「改正基本法」が発効した。東西ドイツの統一の方法は1949年に成立した「ドイツ連邦共和国基本法」(西ドイツ基本法)第23条後段の規定を根拠に東ドイツが西ドイツに加入する形式で行われた。
基本法の第一の特徴は憲法に民主的・社会的秩序を明記しているところにある。すなわち、憲法では国家権力は国民から発する(20条1項・2項1段)とし、その権力は「立法、執行および裁判の個別的機関を通して」(20条2項後段)行使される、としている。その権力を行使する代表を選ぶための手段として、選挙制、限定的であるが国民表決、国民請願、政党および団体等を保障した。とくに、民主的意思形成にとって不可欠とされる政党の憲法的保障が注目される。
第二の特徴は、憲法には社会国家(すべての国民に人間らしい生活を保障することを主要な任務とする国家)条項(20条1項)をおき、そのことを前提にして、自由権、平等権、所有権の保障、婚姻、家族および学校に関することや、その他強制的な国籍剥奪(はくだつ)の禁止、庇護(ひご)権の保障などを定めている。平等権、自由権の詳細な保障規定を置いていることはいうまでもないが、わけても所有権が社会的国家の原理に即した形で定められていることである。「土地、天然資源および生産手段は、社会化の目的のために、補償の方法および程度を規律する法律により、公有または他の公共経済の形態に移すことができる」(15条1項)としている。
第三に、政治機構であるが、憲法はワイマール憲法の崩壊の教訓を取り入れた政治機構を定める。すなわち、ワイマール憲法では連邦議会と大統領に強い政治的権限を認めていたが、現行基本法は大統領の権限を形式的、儀礼的なものとし、大統領、内閣のいずれもが連邦議会に直結した制度を採用した。具体的には、(1)大統領は、連邦議会議員および各州議会から選出された同数の議員で組織された連邦会議によって5年の任期で選挙される(54条1項・2項)。その大統領の権限は、国家元首が普通もっている権限(たとえば、法律の公布、連邦官吏の任免など)のほか、連邦首相の推薦権、緊急立法の宣言権、連邦議会の解散権など、連邦議会に対するある程度の牽制(けんせい)的権限が認められているにすぎない。(2)大統領にかわって強い権限が認められたのが政府(内閣)である。政府の中心である首相は、大統領の提案に基づいて連邦議会によって討論によらないで選ばれる(63条1項)。そして選ばれた首相に対し、連邦議会は首相の不信任案を通してコントロールすることができるが、この不信任案の可決は通常の議事と違い厳しい条件が付せられている。また、首相は「政府の方針」を決定し責任を負う(65条)。各大臣はこの政府の方針の範囲内において独立にかつ自己責任において担当事務を指揮する(65条)。そのほか、政府は、法律案、予算法案の提案、さらには緊急を要する法律案について連邦参議院の同意を得て、大統領に立法の緊急状態の宣言を出させる権限が認められている(81条)。このように政府の安定性を意図した強い権限が保障されている。
第四に、連邦憲法裁判所が設置(1951年カールスルーエに設置)されたことである。連邦憲法裁判所は、他のすべての憲法諸機関(連邦議会、連邦参議院、連邦政府)から自立し、かつ独立した連邦の裁判所である。その裁判所の裁判官は、連邦議会および連邦参議院によってそれぞれ半数ずつ選ばれる(94条)。連邦憲法裁判所の権限としては確定的に定められているわけではないが、(1)連邦とラント(州)およびラント相互間の権利・義務に関する憲法上の争訟、(2)抽象的な規範の審査、および具体的規範の審査、(3)憲法訴願、(4)政党に対する違憲審査などを行使することができる。憲法裁判所に係属した案件のほとんどが憲法訴願であり、市民の基本権侵害に対する最後の番人としてその役割を果たしている。
さらに、ドイツ基本法はワイマール憲法でみられない憲法秩序(「たたかう民主主義」)についての規定を保障していることも特徴である。たとえば、憲法の内容には、「自由な民主的基本秩序」(18条・21条2項)、あるいは「憲法秩序もしくは諸国民間の協調の思想に反する団体」(9条2項)の行為は許されないとしている。このことはワイマール民主主義の厳しい反省に根ざした憲法秩序の保障であると解されているが、ワイマール民主制の寛容民主主義と異なり、まったく逆の相いれない民主主義に対する規制は、場合によっては反体制主義を抑制する道具となり、民主主義そのものを否定することになる恐れがある。
1994年の改正では環境保護(20a条)、男女同権(3条2項)、障害者保護(3条3項)が明文化され、また、亡命者や避難民の庇護権の保障規定(16a条)が改正された。1998年には、住居の不可侵にかかわる第13条の条項が大きく変更され(4項から6項までの追加)、裁判官の命令に基づいて、重大な犯罪の被疑者が滞在している疑いのある住居を監視する制度の導入が明文化された。
また、ヨーロッパ連合(EU)の基本的な取り決めであるマーストリヒト条約への対応条項が設けられ、その関連で、2006年の改正では連邦と州の立法権に関する規定が加わった(23条)。ただし、ドイツ国防軍のPKO任務などによる海外出動に関しては、改正はなされず、憲法裁判所の基本法解釈によって実施している。
[吉田善明]
現在の1987年憲法は第9次憲法改正により1987年10月に成立した。憲法の構成内容をみると、前文、総綱、国民の権利及び義務、国会、政府、法院、憲法裁判所、選挙管理、地方自治、経済、憲法の改正および付則6か条で構成されている。おもな特徴を述べると、まず第一に前文で、韓国国民は、「祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚し」て、「自由民主的基本秩序をよりいっそう、確固たるもの」にするためあらゆる領域において努力をし、「内では国民生活の均等な向上を期し、外では恒久な世界平和と人類の共栄に貢献する」と誓っている。
第二に、この前文をうけて総綱に国民主権を掲げ、国民の権利の強化、拡大を明記している。とりわけ、軍事政権時代に人民の人身の自由が厳しく制限されていたことから、刑事手続におけるデュー・プロセス(適法な手続)をより詳細にしている。また新しい権利といわれる、私生活の秘密および自由(17条)、環境権(35条2項)、消費者の権利(124条)および保健に関する権利(36条3項)などを明記している。
第三に、政治機構では大統領制と議院内閣制を併存させた形態を採用している。国会は一院制であり、法律案の提出、予算案の審議・議決、条約の同意権、国政調査権のほかに国政監督権をもつ。これらは国会の権限強化と解される。大統領は、元首として国を代表し、国民の直接選挙で選ばれる。大統領の権限は強く、外交権、国軍の統帥権、緊急処分、戒厳令等に及んでいる。行政府を担当する国務総理は、国会の同意を得て大統領が任命、国務委員は、国務総理の提議により大統領が任命する(86条・87条)。大統領、国務総理および国務委員で国務会議を構成する。国務会議は政府の権限に属する重要な政策を審議し(88条)、国政の基本計画および政府の一般政策、対外政策、憲法改正、条約案、予算案など重要事項を審議して執行する期間である(86条・89条)。
第四に憲法裁判所の設置である。それは、1987年憲法改正で注目された点の一つであった。設置の理由は、大統領と国会に対する司法統制にあると同時に公権力による国民の人権侵害を救済することにあった。これは憲法訴願に関する審理制度の確立と解されている(111条)。
そして第五に憲法の改正は、国会の在籍議員の過半数または大統領の発議により提案する(128条)。提案された改正案は公告され、在籍議員の3分の2以上の賛成を得ることが必要であり、その議決された改正案の成立は、さらに国会議員選挙権者の過半数の投票および投票者の過半数の賛成を得なければならない(128条・130条)。
[吉田善明]
社会主義型憲法の制定は、1917年のロシア革命によってソビエト・ロシアが成立したことに始まる。社会主義諸国の憲法は、一般に次のような共通点をもっている。第一に、権力は勤労者(または人民)に属すると定め、第二に、その勤労者のもつ権力は、人間による人間のいっさいの搾取の廃絶、社会諸階級の分裂の完全な除去、搾取者の仮借なき抑圧の排除、社会主義的な社会組織の確立を基本的課題としつつ、所有関係=社会関係の変革の諸施策(土地私有の廃止とその社会化、生産手段の国有化、全般的労働の義務制)を確認している。こうした経済的・社会的構造の憲法体制をつくりあげたのは、ロシア革命の後に制定されたロシア社会主義憲法であり、1924年のソ連憲法である。以後社会主義型憲法として発展を遂げるが、1991年にソ連が解体、15の独立国家に分解して体制を転換し、それぞれの国に対応する憲法を成立させた。一方で中華人民共和国は社会主義体制のもとで新しい展開を始めている。ここでは中華人民共和国の、わけても1982年憲法を中心に紹介したい。
[吉田善明]
1982年12月4日に制定された中華人民共和国憲法は社会主義型憲法の類型に入る。この憲法は、2010年時点で四度の部分改正が行われている。その内容は「前文」「総綱(1章)」「市民の基本的権利および義務(2章)」「国家機構(3章)」「国旗、国歌、国章、首都(4章)」からなる。
まず、前文において「中華人民共和国の成立後、わが国の社会は新民主主義から社会主義への移行を逐次実現した。生産手段、私有制の社会主義的改造は達成され、人が人を搾取する制度は消滅し、社会主義制度が確立した」と述べたあと、国家は「全国民の各民族人民が共同でつくりあげてきた各民族国家であることを確認」し、全力をあげて各民族の共同の繁栄と独立自主の対外政策を堅持していくことを明らかにしている。なお、台湾については「中華人民共和国の神聖な領土の一部である。祖国統一の大業を成し遂げることは台湾の同胞を含む中国人民の神聖な責務である」としている。
本文「総綱」では、まず中国が「労農同盟を基礎とした人民民主主義独裁の社会主義国家である」(1条1項)ことを述べ、この制度を破壊することは許されない(1条2項)、いっさいの権利は人民に属する(2条1項)、としている。社会主義経済制度の基礎について、中国は生産手段の社会主義的公有制、すなわち、全人民的所有制および勤労大衆による集団所有制を宣言する(6条1項)。その後、改革開放と市場経済化に関する改正が行われ、その過程において土地使用権の譲渡(10条)、個人経済、私営企業の保護(11条2項)が加わった。1989年には、計画経済と市場調整を結びつける社会主義体制を提案、それに続いて、1993年には鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)が主張した、「資本主義にも計画があり、社会主義にも市場がある。市場経済は、資本主義と社会主義を区別する唯一の基準ではない」という理論認識が受け入れられ、憲法第15条1項に「国は、社会主義的市場経済を実行する」とする規定が置かれた。また、1999年の改正では、「国は、社会主義の初期段階において、公有制を主体とし、多様な所有制経済をともに発展させる基本的経済制度を堅持し、労働に応じる分配を主体として、多様な分配方式を併存させた分配の仕組みを堅持する」(6条2項)といった規定を追加している。さらに2004年の改正では、いっさいの合法的勤労・非勤労収入の保護、社会主義事業に対する貢献度重視の観点から、「国は、法律の規定に基づき、市民の私有財産および相続権を保護する」「国は、公共的利益の必要性のために、法律の規定に基づき、市民の私有財産に対して収用ないし徴用をなし、あわせて保障することができる」(13条2項・3項)という内容が加わった。これについては、私有財産がこの体制の基本となり一般化されればそれは社会主義体制ではない、といった批判が多い。また、中国の武装力については「武装力は人民に属する。その任務は国防を強固なものにし、侵略に抵抗し、人民の平和な労働を防衛し、国家の建設事業に参加し、人民の奉仕に務めることである」(29条1項)としている。
市民の権利については、第33条から第56条までの24か条の規定を置くが、1978年憲法ではその権利条項を国家機構に関する条項のあとに配列していた。しかし、この1982年憲法では構成が変わっている。また、権利の内容としては、法律の前の平等、自由権、市民の社会的経済的権利、市民の文化的権利、女性、児童、婚姻、家庭に対する配慮および保護、市民の義務について定める。とくに義務規定では、市民の自由権を保障しながら国家、社会、集団の利益の優先(51条)、国家統一および全国各民族団結の義務(52条)、秩序遵守の義務(53条)、祖国安全、祖国防衛の義務(54条・55条)、そして納税の義務(56条)など、多くの義務が明文化されている。天安門事件(1989)以降の中国の人権をめぐる状況については、実際上、主権の人権に対する優位、個人的人権の軽視等、十分な保障がなされていないと国際社会からの批判が多い。
国家機構については、省、自治区、直轄市および軍隊の選出する代表によって構成される全国人民代表大会、その代表大会の常設機関である常務委員会(立法機関)、最高の国家権力機関の執行機関である国務院、中央軍事委員会、国家の裁判機関である人民法院および国家の法律監督機関である人民検察院が設置され、それぞれの任務が分担されている(第3章1節~7節)。なお、1975年および1978年憲法で設けられていなかった国家主席・副主席が現憲法において復活した(79条1項)。
[吉田善明]
社会主義時代の憲法体制は、その基本原理である人民主権、国家的(全人的)所有、計画経済、ソビエト制に基づく権力集中と諸民族の自決権を基礎とする連邦制を採用していた。しかし実際にはソビエト共産党の一党支配がなされ、権威主義的な体制を生み、それがさまざまな体制内矛盾を生み出し、長期にわたる経済不況と相まって社会体制を揺るがすことになった。ソ連の最高指導者ゴルバチョフはペレストロイカを掲げて体制の再建を図ったが失敗に終わり、1991年にソ連は解体した。
ソ連の構成共和国の一つであったロシアでは、すでに1990年の夏より、他の構成共和国と同様にソ連からの独立へと方向を転換し、「主権宣言」を行うなどして新しいロシアに対応した新憲法草案の作成準備を始めていたが、大統領エリツィンを中心とする急進改革派とその路線と対抗する議会の多数派勢力の間の権力争いで、憲法の改正作業はいっこうに進まなかった。結局は議会の解散、エリツィンによる非常事態措置によって旧体制に終止符が打たれた。エリツィンは、1993年12月に国民投票を実施し自ら主導した憲法草案を採択にもち込み、新ロシア連邦憲法(1993年憲法)が制定された。
1993年憲法は、前文と2編からなる。第1編は9章137条で構成され、第2編は雑則、経過措置について述べている。第1編第1章では、憲法体制の原則について述べ、ロシアを共和制の統治形態をとる民主的な連邦制の法治国家である(1条)と定める。人権については、「その権利および自由は、最高の価値である」とし、「その承認、遵守および擁護は国家の義務である」(2条)と規定、人々の生活と経済的自由、所有権形態の平等についての承認と保護を定めている。とくに脱社会主義、市場経済の自由化といった体制転換を課題とした憲法であることを明確にしている(8条・9条)。その他憲法改正について定め、憲法体制の原則に違反することはできないとしている(16条)。第2章においては、「人と市民の権利および自由」として第17条から第64条にわたり詳細な規定を置いている。そして人権を保障し、侵害の救済機関として憲法裁判所を置いた。しかし、ロシアの人権状況は深刻である。
統治構造として、大統領、連邦議会、連邦政府を置き、第80条から第117条にわたって定めている。
大統領は国家の元首である(80条)。国民の直接選挙で選ばれ、任期は4年、2期までである。一定の制約があるものの強大な権限を保持している(83条~90条)。
連邦議会は、ロシア連邦の代表機関にして立法機関であり、連邦会議(上院)と国家会議(下院)の二院制である。連邦会議は、ロシア連邦の各構成主体の国家権力の代表機関および執行機関からそれぞれ1名ずつの2人の代表によって構成され、他方の国家会議は、450人の議員によって構成され、4年の任期で選挙される(95条・96条)。国家会議は、首相の任命への同意、政府の信任・不信任、中央銀行総裁の任免、大統領弾劾決議などの権限を有する(103条)。連邦会議は、連邦構成主体間の境界変更、戒厳令および非常事態宣言の承認、国外での軍事行動の承認、憲法裁判所、最高裁判所、最高仲裁裁判所裁判官の任命、検事総長の任免、国家会議の弾劾決議を受けての大統領の解任などの権限(102条)を有する。
首相は、国家会議の同意を得て大統領が任命する。首相の権限は限定されており、大統領の直接的関与の下に執行権を行使する。予算編成、財政・信用、通貨政策の実施、学術、文化、国防・安全保障、社会秩序の維持などを行う(114条)。
憲法裁判所は19人の裁判官によって構成される。憲法適合性審査の対象として、(1)連邦法律、大統領、連邦議会および政府の法令、(2)構成主体の憲法、憲章、法令、(3)ロシア連邦と構成主体間の条約、(4)発効前の条約など、があげられている。憲法裁判所によって違憲とされた法令、またはその個々の規定は効力を有しない(125条)。
[吉田善明]
第二次世界大戦後の東欧は、社会主義型憲法のうちでも人民民主主義型憲法、あるいは社会主義の完成に至らない過渡期の憲法として性格づけられていた。しかし、ソ連解体後、東欧諸国(ブルガリア、ルーマニア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ポーランド)は、資本主義体制へと転換した。これらの国の憲法のうち、ポーランド憲法を中心にその特徴を解説する。
ポーランド憲法は、第二次世界大戦後、社会主義を志向する国家の憲法として制定された。1952年には、1936年のソ連憲法をモデルとするなどしたが、1976年には、統一労働者の指導的役割を憲法に明記するなど、よりソ連憲法に類似していった。しかし、1980年から1981年の独立労働組合「連帯」による反体制運動の衝撃のもとでソ連からの脱却、1989年には政権側と野党側の円卓会議によって、1921年憲法以来廃止されていた大統領職と上院が復活した。これは、ソ連型社会主義体制からの離脱であり、それを受けて憲法改正が行われた。そしてさらに1997年に至り、主要政党間の妥協で新憲法が制定され、国民投票によって承認された。新憲法では社会的公正の原則を実現する民主的法治国家である、と国の形態について規定し、経済体制は、経済活動の自由と私的所有ならびにこれらを推進する諸政党との連帯、対話および協力に立脚した社会的市場経済である、としている。
国家組織は、元首である大統領は国民の直接選挙によって選ばれ、首相、閣僚会議のメンバーを任命する。裁判は通常裁判所と行政裁判所の2系列と憲法法廷および国事法廷で行われる。裁判所や裁判官の独立を守る機関として、全国裁判評議会が設置され、そのほかに最高監察院、オンブズマン、全国ラジオ・テレビ評議会など独立した諸機関が存在する。
市民には、個人的、政治的、経済的、社会的、文化的自由と権利が明文化されている。とくに、ポーランド国民の大半が信仰しているカトリックの教会との関係については、国との政教条約によることが定められている。また、2004年に加盟したヨーロッパ連合(EU)との関係については、憲法法廷はEU加盟条約を合憲と判示している。
[吉田善明]
『佐藤功著『比較政治制度』(1968・東京大学出版会)』▽『清水望編『比較憲法講義』(1972・青林書院新社)』▽『樋口陽一著『比較憲法』改訂版(1984・青林書院新社)』▽『吉田善明著『現代比較憲法論』(1985・敬文堂)』▽『樋口陽一著『比較憲法』全訂第3版(1992・青林書店)』▽『阿部照哉編『比較憲法入門』(1994・有斐閣)』▽『吉田善明著『現代比較憲法論』改訂版(1996・敬文堂)』▽『辻村みよ子著『比較憲法』(2003・岩波書店)』▽『杉原泰雄編『体系憲法事典』新版(2008・青林書院)』▽『阿部照哉・畑博行編『世界の憲法集』第4版(2009・有信堂高文社)』▽『初宿正典・辻村みよ子編『新解説 世界憲法集』第2版(2010・三省堂)』▽『小林直樹著『憲法を読む』(岩波新書)』▽『高橋和之編『世界憲法集』新版(岩波文庫)』
英語およびフランス語のconstitution(ドイツ語ではVerfassung)に対応する訳語である。constitutionは,もともと,基本的な統治制度の総体,または,基本的な統治制度の構造と作用について定めた法規範の総体(後述の,実質的意味の憲法)をさす用語であり,近代になって,そのうち一定の形式的標識を満たす法規範(形式的意味の憲法),特定の実質内容をそなえる法規範(近代的または立憲的意味の憲法)をとくにさす用法が行われるようになった。幕末から明治初期にかけて,constitutionの訳語としてはじめは〈国憲〉が有力であり,1876年の元老院に対して憲法起案を命じた勅命でも,〈……国憲ヲ定メントス〉とあったが,1880年代になって〈憲法〉が定着していった。聖徳太子の〈十七条憲法〉は,倫理的ないし宗教的規範,行政機構の内部規律などの要素が大きく,constitutionの訳語としての憲法とは,系譜を異にする。
constitutionの訳語としての憲法という語は,今日,統治制度そのものではなく,それに関する法規範をさすものとして使われるのが普通であり,そのような意味での〈憲法〉の用語法として,実質的意味の憲法,形式的意味の憲法,近代的または立憲的意味の憲法という3種に,区別される。この三つの語法は,講学上の分類として,憲法に関する概説の冒頭で無味乾燥に説明されるのが常であるが,それらには,実は重要な歴史的意味がある。
実質的意味の憲法,すなわち,基本的な統治制度の構造と作用について定めた法規範は,どのような社会についても,問題となりうる。今日,憲法を有する社会の単位として実際上問題となるのは,国家であるが,成文であれ不文であれ,また,内容がどのようなものかは別として,この意味での憲法をもたない国家はない。実質的意味の憲法は,法学的定式でいえば,〈最高機関に関する規範〉すなわち〈組織規範〉と,〈人民の国家権力に対する関係に関する規範〉(H. ケルゼン)とから成るが,何がそれに該当するかは,必ずしも論理的にだけ決まるのではなく,歴史的な事情によって違ってくる。〈出血前に麻痺せしめずに動物を殺すことは,一切の屠殺方法および一切の種類の家畜について,例外なくこれを禁ずる〉(スイス連邦憲法25条の2)という規定は,形式的意味の憲法でありながら,実質的憲法でない例として,多くの人によってあげられる。この規定を,単純な動物愛護規定として受けとるならば,そのとおりである。しかし,それが人民発案に基づいて1893年に採択され憲法典に組み入れられた経過を重くみるならば,この規定によって禁じようとしたのはユダヤ教徒の慣行なのであり,特定の宗教的慣行の禁止が問題となる以上,実質的意味の憲法に深くかかわることがらだ,ということになる。今日の日本社会で実質的意味の憲法としての性格をまったく持たないような規定が,他の時期の他の社会では切実にそうした性格をになう,ということがありうるのである。
なんらかの形式的標識を備えているかどうかを基準として論ぜられるのが,形式的意味の憲法の存否という問題である。その標識としては,(1)成文の形をとっているかどうか,(2)まとまった法典の形式を備えているかどうか,(3)普通の法律よりも厳格な改正手続に従う(硬性憲法)か否か(軟性憲法),したがって,普通の法律より上位の効力をもつかどうか(最高法規性の有無),が問題とされる。イギリスは,(2)(3)の意味での形式的憲法を持たない例として有名であるが,(1)についていえば,マグナ・カルタ(1215)以来,実質的意味の憲法を定める成文法が少なからずあることに,注意しなければならない。イギリスでも,17世紀ピューリタン革命の過程で,(2)(3)の意味での憲法をつくる構想があり(1653年の〈政体書〉や,1647-49年に平等派により提起された三つの〈人民協定〉),自国では展開しなかった,成文・成典の硬性憲法というあり方は,アメリカ革命,フランス革命の諸憲法によって引き継がれることとなった。市民革命期の思想が,形式的意味の憲法を重視したことには,きわめて大きな実質的・歴史的意義があった。フランスについて見ると,14世紀以来,王位継承と課税権に関連する不文の王国基本法(lois du royaume,lois fondamentales,lois constitutionnellesと呼ばれた)とその他の王法(lois du roi)を区別し,前者は国王によっても改変できないと考えられていたが,それは,(3)のかぎりでの標識はすでに意識されていた,ということを意味する。それに対し,18世紀になって,チュルゴや〈フィロゾーフ〉たち(18世紀フランスの啓蒙思想家たち)がそれぞれの立場から,〈フランス王国には憲法がない〉というときには,(1)ないし(2)の標識を重視した。〈フィロゾーフ〉たちはさらに,内容上の問題として,憲法が自由の保障をもりこんだものであるべきことを主張するが,これは,つぎにとりあげる近代的・立憲的意味の憲法の問題となる。このように,内容上の自由主義と密接に結びついてであるが,成文ないし成典化という形式的ものさしの重視ということは,それによって権力を制限するという,きわめて実質的な目的を追求するためだったのである。さらに,憲法の成文化ということは,そもそも,人間意思を超えた〈事物の必然〉としてでなく,人間意思の所産としての憲法をつくるという考え方への転換を意味した,という点でも,きわめて歴史的な意義を持つものだった。大革命前夜に,旧体制の特権層の側では,国王の意思をもってしても動かすことのできぬ王国基本法の存在を援用して,憲法がすでにあるといおうとしたのに対し,シエイエスは,フランスは憲法をもっておらず,これから作らなければならない,と説き,憲法制定権力を持つ国民の意思による憲法の定立を主張した。彼にあっては,憲法制定権力は国民だけが持ちうるのであり,したがって,作られるものは必然的に民定憲法なのであるが,君主の憲法制定権力を前提として作られる欽定憲法という考え方自体,成文憲法原理と密接に対応しているのであって,それ以前には,憲法は,作られるものでなく在るものだったのである(欽定憲法,民定憲法および君民協約憲法という区別は,それぞれ,憲法制定の権威の所在が,君主の意思,国民の意思および両者の合意におかれることを示すものである)。今日の問題としていえば,成文かつ成典の硬性憲法という形式的標識から見た〈憲法〉の範囲を確定するという仕事は,そのような憲法の最高法規性を裁判的方法によって確保しようとする違憲審査制と結びついて,権力への制限という憲法の作用をどれだけ強く,または弱くするかという,実質的意義に満ちているのである。
実質的意味の憲法のうち,内容上の一定の特質に着目し,近代立憲主義の原理のうえに立脚しているものをとくにさして,立憲的または近代的意味の憲法という(〈立憲主義〉の項参照)。1789年フランス人権宣言16条は,〈権利の保障が確保されず,権力の分立が定められていないすべての社会は,憲法を有しない〉と述べ,立憲的または近代的意味の憲法が,権利保障(〈基本的人権〉の項参照)を目的とし,その不可欠の手段として権力分立を要求する,という立場の,古典的定式化を行っている(ただし,身分的自由の確認や身分制議会という形での〈権利保障〉や〈権力分立〉は,中世ヨーロッパ社会にも存在していたのであり,近代立憲主義は,身分から解放された個人を前提とした権利保障と,そのための権力分立を掲げたところに,その歴史的特性がある。このことについては,イギリスとフランスの近代立憲主義の外観上の相違の問題として後述する)。このような意味の憲法は,17世紀市民革命以後のイギリスでいちはやく形成され,1776年のアメリカ独立宣言や88年の合衆国憲法,そして89年のフランス人権宣言によって媒介され,19世紀には,多くの国々に広まってゆき,あるいは少なくとも,それぞれの国々の政治過程に,影響をあたえるようになってゆく。近代憲法原理は,日本国憲法前文によって〈人類普遍の原理〉と呼ばれており,個人の尊厳という基本価値を前提とするかぎり,そのようなものとして,擁護されるべきものであることは疑いない。ただし,それは,価値的に擁護されるべきだということであって,必ずしも,現に〈人類普遍〉にゆきわたっている,ということではない。実際に,権利保障と権力分立を中軸とする基本法によって,ともかくもその国の政治や社会が動いているといえるのは,つまるところ西欧文化圏であり,西ヨーロッパ,文化的にはその延長ともいうべき北アメリカとオーストラリア,ニュージーランドのほかは,日本が例外的な存在なのである。実際,〈人類普遍の原理〉は,実は,西洋近代という,空間的にも時間的にも限定された特定の歴史社会の産物なのである。しかも,19世紀から20世紀にかけて近代立憲主義を展開させていった二つのモデルともいうべきイギリスとフランスは,どちらも,巨大な植民帝国であり,〈植民地は,国際法上は国内で(だから,外からの干渉を許さない),国法上は外国だ(だから,国内の立憲的ルールは適用されない)〉といわれたとおり,そこでは,権利保障も,権力分立も,存在していなかった。近代的・立憲的意味の憲法原理の価値は,〈人類普遍〉というに値するが,実はそのような影の部分をもかかえていたのである。
近代的・立憲的意味の憲法原理は,西洋近代社会の産物だという意味で,超歴史的な存在ではなく,一つの歴史的存在である。それはまた,西洋社会そのものの歴史的展開に対応して発展・変容を示してきたという意味でも,歴史的存在である。近代憲法史をふり返ってみると,おおまかにいうならば,次の三つの歴史的段階を区別することができる。
(1)第1は,近代市民革命の時期であり,独立生産者層を主体とする下からの革命の基本線が敷かれたところでは,自由主義的立憲主義への方向が(イギリス,フランス),先行する資本主義からの外圧のもとで上からの改革の路線が優越したところでは,不徹底な自由主義,人によっては外見的立憲主義と呼ぶところのもの(たとえばプロイセン)が,あらわれる。(2)第2は,近代憲法の確立期であり,産業革命を経て,国家による干渉を原則的に排除しようとする消極国家のあり方が定着するのに対応して,国家からの自由(自由権)と統治構造における議会中心主義が確立する。1830年代以降のイギリスと第三共和制期フランスでは,議会が立法権をにぎり,議会優位型の議院内閣制によって行政にも支配的影響を及ぼすという意味で,議会制が確立しただけでなく,人権保障が,もっぱら議会の立法をとおして行われることまでを含めて,議会中心主義が徹底した。イギリスには硬性憲法はないし,フランスの1875年憲法も,権利条項をまったく含んでいなかったからである。(3)第3は,そのようなあり方が現代的変容を見せてくる時期であり,両大戦間期を過渡期として,第2次大戦後,その傾向がはっきりしてくる。国家からの自由だけでなく,いわゆる社会権が登場し,自由権や平等についても,国家からだけでなく社会的権力からの保障が問題となり(人権の私人間効力),統治構造の面では,一方で行政権の優越により,他方で裁判機関による憲法保障制度,すなわち違憲審査制(〈違憲立法審査制度〉の項参照)により,議会中心主義が動揺してくる(立法国家から行政国家,裁判国家への転換)。違憲審査制は,19世紀には,アメリカ合衆国以外には,見るべき実例がなかったが,第2次大戦以後一般化しつつあり,単に立法をはじめとする国家の行為を対象とするだけでなく,国民私人による基本権濫用への制裁や,政党に対する違憲審査までが制度化される例もある(ドイツの憲法忠誠制度)。国家主権の制限や国際機構への主権移譲の可能性,戦争放棄などについて定める国際主義的な憲法規定がおかれ,また,従来はもっぱら国内法の問題だった人権保障の領域で,その国際的保障(国際人権規約や,ヨーロッパ人権条約など)が追求されるようになったことも,現代的特徴といえよう。
市民革命は,土地制度史的にいえば領主制の廃棄,国政史的にいえば身分制原理に基づく社会編成の廃案であり,そのようなものとして,近代社会の始期を画するのであるが,その際,その課題が〈下からの革命〉によってどれだけ徹底的に追求されたかによって,その後の憲法史の展開が大きく左右される。17世紀イギリス革命(その総括たる1689年の権利章典),18世紀フランス革命(その端緒を飾った1789年の人権宣言)は,これら両国の自由主義的立憲主義の道をきりひらくものであった。他方,19世紀半ばのドイツでは,1848年三月革命が挫折するなかで,フランクフルト憲法制定議会による自由主義的方向でのドイツ統一は流産し,〈上からの近代化〉を推し進めるプロイセンを中心として,ドイツ型立憲君主主義,論者によっては外見的立憲主義と呼ぶような憲法のあり方が成立する(1871年のドイツ帝国憲法)。ドイツよりさらに遅れて,国際的外圧のもとで近代化への対応を迫られることとなった日本は,幕末の開国(1858)から明治維新を経て1889年の大日本帝国憲法の欽定に至るまでのほぼ30年間,これら二つの方向の選択をめぐってゆれ動いた。1876年の元老院への勅命は,〈朕爰ニ我カ建国ノ体ニ基キ広ク海外各国ノ成法ヲ斟酌シ以テ国憲ヲ定メントス〉と述べ,日本の独自性と,普遍的な立憲主義との共通性という,その後の日本の憲法史を貫く二つの矛盾した要素を同時にあげていた。元老院にとっては,〈今魯国ヲ除クノ外君主若クハ民主ノ国ニシテ開明旺盛ヲ以テ聞ユル者ハ皆立憲ノ政ヲ用ユ〉(1878年の復命書)というように,近代化=富国強兵のためにも立憲主義が不可欠だと考えられたのであるが,その〈国憲〉案は,〈海外〉に傾きすぎていると目されて,たなあげとなった。そして,結局は,1880年代初期を頂点とする自由民権運動による下からの憲法制定要求に対応しながらも,それをおさえこむかたちで,〈建国ノ体〉をあくまで根本におき,〈海外〉のなかでも,思想上も政治上もそれまで支配的な影響力を及ぼしていたイギリスとフランスをしりぞけ,ドイツを範型として,帝国憲法が欽定憲法として発布された。
自由主義的立憲主義として基本的に共通性をもつイギリスとフランスのあいだには,他面で,大きな違いもある。イギリスについては,1215年のマグナ・カルタまでさかのぼって憲法が論ぜられるのが常であるし,議会制についても,1965年に議会七百年祭が行われたように,中世身分制議会の伝統がひきあいに出されることが多い。1689年の権利章典も,〈聖俗の貴族および庶民〉の〈古来の自由と権利〉といういい方にあらわれているように,中世以来の身分的自由との連続性を,援用している。マグナ・カルタや身分制議会に象徴される中世立憲主義は,国王に権力が未だ集中していなかった当時の権力状況を大前提として,身分的特権の網の目のうえに組み立てられた,権力主体間の相互制限の原理であった。それに対し,近代立憲主義は,身分制的社会編成から解放された諸個人が,権力をいまや集中することとなった国家の権力を,にもかかわらず制限しようとすることにほかならない。したがって,もともとは封建貴族の身分的特権を国王に確認させた文書であるマグナ・カルタは,E.クックによる〈再解釈〉を経ることをとおしてはじめて,近代的自由を基礎づけるものとなったのであるし,議会制にしても,貴族および庶民の代表としての二院制の形を引き継ぎながらも,その議員はもはや身分の代表でなく,E.バークが自分の選挙区の選挙民に述べたように,〈イギリス王国の議会の議員〉つまり国民代表であることが,強調されなければならなかったのである。このようにイギリス憲法史は,中世の立憲主義から近代立憲主義への連続性の外観を保っているが,これら両者の歴史的性格は明確に違っているのであり,17世紀市民革命が,その境い目を画しているのである。
フランスは,それと対照的であり,身分制三部会が大革命に先だつ175年間開かれたことがなかったほど,中世立憲主義の伝統が,イギリスに比べて認められていたし,他方で,この国の人々にとっては,1世紀以上前からイギリスで形成されてきた近代立憲主義の運用と思想をモデルとして,近代憲法のあり方を論理的・体系的に定式化することが,より容易であった。こうして,フランス革命は,古来の〈身分的〉自由ではなく,人一般に固有のものとしての〈人権〉の宣言を生み出し,また,〈身分〉制議会の伝統をひく三部会にかえ,〈国民が一つなら院も一つでしかありえぬ〉(シエイエス)として,一院制の〈国民〉議会をつくりあげたのである。また,社会の編成原理に関しても,身分制秩序の否定と個人の解放を,国家と諸個人の間に介在する〈中間団体〉をいっさい否定するという,ラディカルで包括的な定式のもとで貫徹した。
なお,フランスだけでなく,より直接にはアメリカへの影響を含めて,イギリスの憲法的経験が普遍的な伝播(でんぱ)力をもつようになったことについては,J.ロックの思想の役割がとりわけ大きかった。その《統治二論》(1689)は,名誉革命の成果を維持し正当化することをみずから標榜して書かれたものであるが,古色蒼然とした中世的立憲主義を援用しながらいわば経験的に形成されていった近代憲法のあり方を,首尾一貫した論理的体系として再構成してみせた。身分的自由から出発するのでなく,人一般に固有な権利(自分自身にプロパーなもの,という意味で,生命,自由,所有を包括するものとしてのproperty)を出発点におき,それを保全する目的で諸個人によってとりむすばれた契約(〈社会契約説〉の項参照),というものを考えることによって政治社会=国家の存立を説明するこの思想は,〈個人〉こそが社会の成立ちの根拠であり目的だと考える近代立憲主義を,最もよく代表していた。
ロックにとって,国家は,上述した意味でのpropertyの保全を目的とし,そのための機構として,権力分立制を備えるべきものであった。1789年フランス人権宣言16条が,権利保障と権力分立とを,〈憲法〉の不可欠の要素としてあげたのも,それに対応している。そして,近代憲法確立期の第1の特徴は,権利保障の方式にしても,権力分立の構造にしても,議会中心主義で貫かれていた,ということである。イギリスだけでなく第三共和政期のフランスでも,権利保障について定めた硬性憲法が存在せず,その課題は立法をとおして追求された,ということは前にふれた。イギリスでは,〈議会における国王King in Parliamentの主権〉という定式のもとで,国王,ついで上院が実権を行使しなくなり,下院を担い手とする〈議会主権〉が実現し,議会(実質的には下院)は,立法権を独占すると同時に,議院内閣制によって行政にも支配的な影響力を及ぼすようになる。1832年の第1次改正以後,数次にわたる選挙法改正によって,男子普通選挙に近い状態が実現し,下院の解散が選挙民による争点の裁決という意味をもつようになってくると,〈法的主権〉は議会にあるが〈政治的主権〉は選挙民自身にある,といわれる状態が生ずる(ダイシー)。
フランスでは,1880代以降,議会中心共和制が確立するが,ここでは,解散権の行使がタブー視されるようになったため,国民の意思は,定期の選挙で選ばれた議会をとおしてだけ表明されることとなり,選挙民に対する関係でも,議会は,実質上,優位に立つようになった。
アメリカ合衆国では,硬性憲法としてつくられた1788年憲法は,制定直後〈修正条項〉のかたちで権利条項が追加され,1803年以降,司法裁判所による法令違憲審査が行われるようになった点で,イギリス,フランスと対照的である。議会の立法に対する違憲審査制は,この時期としては例外的であり,合衆国United States憲法がそれぞれの州Stateの合意の産物であったから,州および連邦の立法に対する優越が強調されなければならなかった。しかし,この時期には違憲審査制の役割はまだそれほど決定的ではなく,〈議会による統治〉(W.ウィルソン)といういい方があてはまることは,確かであった。
近代憲法確立期に追求された権利は,何よりも,国家からの自由であった。他国にさきがけて産業革命を遂行し,自律的な資本主義経済活動の場をいちはやく成立させたイギリスでは,アダム・スミスのえがくような消極国家のあり方が,実質的な裏づけを得て,経済活動の自由を支えた。他方で,思想の自由競争への信念のうえに,精神活動における〈国家からの自由〉が基礎づけられる。ジョン・スチュアート・ミルの《自由論》(1859)がその典型であり,国民の意思に基づく権力に対してもなぜ自由が主張されなければならないのか,〈多数者の専制〉に対する異端の自由がなぜ必要なのかを,〈人類は不可謬でない〉ことに基づいて,論じたのであった。このように,経済生活・精神生活両方にわたって,国家の不干渉原則がこの時期の基本特徴であるが,この時期に先だって,自由な競争が機能すべき土俵を創出するために,国家による介入が行われていた。市民革命期に,同業組合による独占をうちこわす営業の自由が追求されたが,これは,反独占型の実質的自由であり,いったんそれが貫かれはじめて,国家からの自由という形式的枠組みのもとで,自由競争が行われることが可能となったのである。また,とりわけフランス革命期に著しかった反結社主義は,身分制的拘束を徹底的に排除することによって,自由な諸個人によりとりむすばれる結社の自由が成立するための前提を創出しようとするものだった。また,近代憲法確立期の国家が消極国家だといっても,自由競争の土俵の破壊を防ぎ(軍隊と警察),その土俵の保守管理(経済や教育の場での,一定の政策遂行)を行うかぎりでは,その役割は重要であった。それに,膨大な植民地を獲得・維持するという点でも,国家権力は決定的な役割を演じていた。
第1次大戦とロシア革命を大きな境い目として,かつての消極国家は,積極国家へと変容していく。現代型憲法の原型は,ドイツのワイマール憲法(1919)である。それは,ドイツとしてはじめて,国家からの自由と議会制を正面から承認すると同時に,〈人たるに値する生存〉を確保するために果たすべき国家の積極的役割をうたい,社会権の理念を掲げることによって,比較憲法史上重要な画期をしるした。それは,19世紀以来,さまざまなかたちでの社会主義の思想と運動が掲げてきた理念が,憲法のなかに結実したことを意味したが,同時に,ロシア革命の強烈な衝撃下にあったヨーロッパで,社会主義革命への道を,資本主義の枠のなかでの社会化へと転轍(てんてつ)させる,という意味をもつものでもあった。その後,1929年の世界恐慌後の社会的緊張が高まるなかで,国家からの自由と議会制とを全面的に否定するナチズム独裁が支配することとなった。それに対し,アメリカ合衆国ではニューディール政策のなかで,精神的自由を維持しつつ,経済的領域についての国家の介入を積極化し,そのために,議会の本質的役割を維持しながらも行政権の強化安定を確保するゆき方が追求された。
第2次大戦後の立憲主義は,ニューディール型の対応を基本線として再建されることとなる。フランス(1946公布),イタリア(1947公布),西ドイツ(1949公布,現ドイツ)の憲法は,いずれも,自由権を軸とする近代憲法原理を引き継いだうえで,社会権的人権をうたい,また,議会制原理を再確認した。イギリスは,憲法典を持たないから,その面での変化はないが,福祉国家理念による国政運営についてのモデルとなった。違憲審査制の設置(フランスだけは,ややおくれて,1958年憲法になってから),国際主義的・平和主義的規定の導入という点を含めて,日本国憲法(1946公布)も,多くの特徴を共有する。日本国憲法は,日本の歴史上はじめて,個人の尊厳(13条)という大前提のうえに,近代憲法原理を〈人類普遍〉(前文)のものとして受容し,また,人権の面で社会権(25条等),統治機構の面で違憲審査制(81条)をとりいれ,国際協調主義(98条2項)と平和主義(9条)の点では,戦力不保持の原則まで含めてそれを徹底させているのである。
1980年代の状況を見ると,人権の面では,古典的な自由権,ワイマール憲法以来の系譜をもつ社会権のほかに,プライバシーの権利,情報へのアクセス権,環境権,平和的生存権などの新しい権利類型が,実務上のとりいれられ方はさまざまであるが,論ぜられるようになり,また,企業や労働組合など巨大組織の支配力が強まるなかで,私的権力に対する関係での自由と平等の問題が,強く意識され,裁判上も多くの事例の素材となってきている。統治機構の面では,憲法規定そのものがそうなっているか,運用上そうなっているかは別として,議会の機能の相対的低下が見られ,行政府の首長が議会をとびこして選挙民と直接結びつき選挙民の意思によって正当化される(フランスは大統領直接公選制,アメリカは間接公選制であり,イギリスの場合は,下院選挙のかたちをとって事実上の首相公選が機能する,という違いはあるが)ことによって,行政権の強化が担保される。ただし,その反面,行政権は,一方では専門官僚制によって,他方では圧力団体の諸要求によって制約をうけ,政治的主導権を必ずしも発揮できない,という事情も見られる。議会が行政権に対する関係でかつての優位を失うとき,行政権にとっての正当化原理は,選挙民による行政府首長への信任,究極的にいえば,主権者意思というシンボルである。それに対し,違憲審査制による議会へのコントロールの場合は,憲法の優位というシンボルのもとで,〈これが憲法の意味だ〉と認定する裁判所の役割が強化される。違憲審査制は,法律に対し違憲判断を下して政治部門を抑制するときだけでなく,合憲判断を下すときも,政治部門の活動に対し憲法の名による正当化をあたえるというしかたで,重要な役割を演ずるのである。違憲審査制の運用にあたっては,選挙民の意思に基づく政治部門に対し,選挙民に責任を負わない裁判所がどこまでコントロールを及ぼすのが適切なのか,基本的な立場の争いがある。また,とくにドイツにおけるように,〈憲法の敵には憲法上の保障をあたえるな〉という,〈憲法忠誠〉〈たたかう民主制〉の考え方と結びつくときには,より根本的な難問がある。ドイツでは,国民私人にも〈憲法忠誠〉義務を課し,立法その他の国家の行為への違憲審査だけでなく,私人が基本権を濫用したときの基本権喪失の手続(基本法18条),政党に対する違憲審査(21条2項)を定めている。これは,ワイマール憲法がみずからの敵にも寛容であったために,〈トロイの木馬〉となったナチズムが,内側からそれを破壊するのを許してしまった,という総括に基づいて選択された,一つの決断であった。しかしそこには,裁判所による〈憲法の敵〉の認定には,恣意に流れる危険はないのか,より本質的な問題として,〈憲法の敵〉に自由をあたえないことによってまもられる憲法という考え方は,つまるところ国家によって公認されたかぎりでの思想の自由に帰着し,異端の自由こそを本領とした近代憲法原理と両立できるのか,という問題が横たわっている。
上に概観した現代憲法は,近代立憲主義の究極のねらいであった個人の尊厳を,より実質的に確保することを標榜してきた。たとえば,生存権は,国家からの自由だけによっては確保できない人間らしい生活を,実質的に裏づけることをねらいとする。しかしその反面,生存権を実現するために積極的な役割を託された国家は,やがて個人の精神生活にも介入し,思想の自由競争を抑圧するものとなる可能性があり,その可能性は,国家の許容した枠内での自由という考え方と結びつくとき,現実のものとなりやすい。このように,憲法における〈近代〉をより豊かに展開させるべき〈現代〉と,〈近代〉を否定する要素を含む〈現代〉との緊張関係が,今日の憲法状況の基本にある。
近代的・立憲的意味の憲法が,国家からの自由と議会を中心とした権力分立とを軸とするのに対し,社会主義憲法は,権力への参加と民主集中原理を掲げ,また,特定政党の指導的役割を公然と承認するなど,さまざまの点で,大きな違いがある。根本的にいうならば,前者が,少なくともその本来の姿では,権力への不信と猜疑を基調とするのに対し,後者は,権力への信頼を前提としている。社会主義憲法は,西側諸国の自由が〈形式的〉なものにすぎないと批判し,たとえば表現の自由について,表現手段の利用可能性までを保障する(1977年のソ連憲法50条2項)が,その保障は,〈人民の利益に従い,社会主義体制を強固にし,発達させる目的で〉のものとされていた(同条1項)。ドイツ流の〈憲法忠誠〉制度も,憲法の敵には自由を保障しないという点で,これと共通するところがあるが,そこではなお,国家からの自由という古典的・形式的自由観が,対抗的要因として憲法自体のなかに内在せしめられているから,両者の違いはなお大きい。しかし,思想としてのマルクス主義は,もともと,ヨーロッパ精神世界の子であり,疎外からの個人の解放を志向するという点に関するかぎり,近代的・立憲的意味の憲法の基本前提と共通する要素を含んでいる。
それに対し,第三世界の憲法は,多くの場合,そのような共通性がより少ない。第2次大戦直後に独立を達成した諸国の多くが,当初は,旧宗主国にならった憲法を制定したが,やがて,多かれ少なかれ一党的・独裁的な体制に移行した。それは,自由主義と議会制を支えるに足るだけ経済が発展・成熟していなかったということによって説明されるが,同時に,個人を基礎とする社会観と異なる文化的風土によるものでもあった。西洋近代社会を本籍地とする近代的・立憲的意味の憲法が,かつてみずからが植民地支配を及ぼしてきた第三世界を含めてどれだけ広がってゆくかによって,それが文字どおりあらゆる意味で〈人類普遍の原理〉となりうるかどうかが,問われている。非ヨーロッパ文化圏のなかで〈人類普遍の原理〉を定着させつつある戦後日本の憲法体験は,その意味でも,重要な意味をもっている。
→日本国憲法
執筆者:樋口 陽一
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…立法行為をはじめとする国家の諸機関の行為について,それが憲法に適合するか否かを審査し,違憲の場合にはその行為を無効と宣言する権限を裁判所に与える制度。司法審査制とか法令審査制ともいう。…
…大日本帝国憲法制定以前に,民間で起草された憲法。官吏が個人的な立場で試草した憲法案もこれに含めることができる。…
…70年翻訳御用掛に制度取調兼勤となり,以後その後半生をフランス民法典をはじめ西洋法律書の翻訳に従い,ボアソナードらとともに旧民法その他の起草に参画するなど,明治政府の法典編纂事業を根底から支えつづけた。民権・動産・不動産・未必条件・治罪法・憲法などの訳語を考案し,フランス法理論の基礎をなす自由・人権思想を理解し,〈国政転変ノ論〉の訳稿で人民の抵抗権・革命権を認めるなど,法学官僚としても異色の存在であった。この間,明六社に参加して啓蒙活動を行い,東京学士会院会員,元老院議官,司法次官,貴族院議員などを歴任した。…
※「憲法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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