改訂新版 世界大百科事典 「ミハエルケルラリオス」の意味・わかりやすい解説
ミハエル・ケルラリオス
Michaēl Kēroullarios
生没年:1000ころ-58
ビザンティン時代のコンスタンティノープル総主教。若い貴族としてミハエル4世(在位1034-41)に対する革命の陰謀に参加,修道院に追放されるが,その仲間で後に皇帝となったコンスタンティノス9世(在位1042-55)によりコンスタンティノープル総主教に任ぜられる(1043)。当時皇帝は,南イタリアで勢力を伸ばすノルマン人に対抗するためローマ教皇との同盟を企てたが,ミハエルはそれが,コンスタンティノープル主教座に属する南イタリア地方の教会管轄権のローマ教皇による侵害に連なることを恐れた。彼は先手を打ち,これらの教会で行われているラテン教会のビザンティン教会とは異なった諸慣行を攻撃した。すなわち酵母(たね)をいれぬパンの典礼,断食週間の土曜日の断食の問題であり,そして後に聖霊の発出問題(フィリオクエ)がこれに加わった。彼は,ローマ教皇レオ9世から派遣されてきた枢機卿フンベルトゥスとハギア・ソフィア教会で論争の末,破門状を投げあって東西教会分裂(シスマ)を引き起こした(1054)。1057年皇帝ミハエル6世に対してイサキオス1世コムネノスを皇帝に推戴する革命の黒幕となるが,翌年同帝と対立して失脚。彼は,もともと神学者でも教会史家でもなかったが,宣伝文書《ラテン人を相手にしての完全武装》の作者としてビザンティン人の国民感情をあおり,また,1054年の事件の前史を《覚書Semeiōma》として残した。
執筆者:渡辺 金一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報