修行や祈願のため,一定期間すべての,あるいは特定の食物を断つことで,重要な宗教行為として世界の諸宗教に広く見られる。すなわち,宗教的な断食は,栄養補給を停止することによって生命の有機的な生理機能をしだいに低下させ,こうして修行者の生命が物質化(死)しようとする直前に霊的啓示が下ることを期待する行為であるといえる。いわば断食とは,生命体のうえに生ずる物化と霊化の二律背反の局面を示す禁欲の一方法である。しかし一般的には,断食は,人生上の危機的諸段階(思春期,結婚,出産など),共同体的な禁忌(服喪,禁猟など),そして呪術的な祭りや贖罪行為,難行苦行,政治的抵抗(ハンガー・ストライキ)などの一環としても用いられる。また未開社会の加入儀礼では,志願者はヒステリー,エピレプシー,カタレプシーなどのトランスに入って,夢や幻覚をみて霊的啓示をうけるのであるが,そのさい彼らは,酒やタバコ,麻酔剤や薬草の服用とともに,断食やむち打ちなどの肉体嗜虐(しぎやく)を実行した。その意味で断食は,シャーマンやメディシンマン(呪医)になるための資格審査の一方法でもあった。
インドでは古くから,断食が政治的抵抗の手段や健康法,また修行の一環として行われてきた。ヒンドゥー教の聖人やヨーガ行者たちのあいだで,断食は日常的な身体訓練であると同時に神に仕える聖なる手段であった。近代のできごととしてはM.K.ガンディーの断食による政治的抵抗がよく知られている。またヒンドゥー教の影響をうけた密教では断食行が重視されたが,仏教の一般的な原則としては八種斎戒の一つとしての非時食を中心とする精進行(しようじんぎよう)が主流を占めた。同様に中国の仏教でも,不眠不臥をともなう激しい断食はむしろ例外で,修行僧は〈蔬食飲〉〈蔬素〉という表現にみられるように,主として精進を積むことが勧められた。《梁高僧伝》によると敦煌出身の単道開(ぜんどうかい)は,穀を断って栢(コノテガシワ)の実を食べ,栢の実がなければ松脂(まつやに)を服し,これが得られないときは細石子や生姜(しようが)や山椒(さんしよう)の類を食したという。
日本では,とくに平安朝以降,山間における非正統的な仏道修行者のあいだで,不眠不臥をともなう断食行がしだいに優勢になった。それは焼身や山林抖擻(とそう),参籠や籠山のような行とともに兼修され,山間における聖(ひじり)や法華行者,また真言行者や修験の徒によって行われた。〈五穀断ち〉〈十穀断ち〉というのがその一例である。日本の高僧伝や往生伝の類には断食に関する記述が多くみられ,断食行をはじめとする苦修練行によって超自然的な能力を身につけた修行僧が,特異な神秘体験をするいきさつが描かれている。このような苦修練行は,行の一般形態としてはアジア的な禁欲の一種であるが,神秘体験との連関でいえば,M.ウェーバーのいう宗教的人間の〈自己神化Selbstvergottung〉の過程を刺激し,またシャマニスティックな経験を活性化するための不可欠の手段であった。
キリスト教でも,旧約・新約聖書に宗教的断食の記事が多く見いだされるが,なかでも荒野におけるイエスの40日にわたる昼夜の断食は有名である。またアッシジのフランチェスコがアルベルナ山に入ってから断食と祈りの生活に没頭し,自分の手足とわき腹にキリストの聖痕を得たことはよく知られている。カトリックでは斎日Fastというのがあって,大斎とか小斎という。これはイエス・キリストの断食修行の苦難を追体験するためのものであって,聖金曜日とか降誕祭の前日などに行われる。しかし丸一日の断食ということはあっても,文字どおり水も食も断って,それを何日間も続けるということはしない。大斎とか小斎とかいうのもあくまでも食事の段階的な制限を意味しているのであって,仏教でいう断食のきびしい内容や考え方とは大きく異なっている。
→苦行 →穀断ち
執筆者:山折 哲雄
イスラムのイバーダート(神への奉仕,儀礼)の一つで,五柱の第4にあげられる信者の義務。アラビア語でサウムṣawmという。ムハンマドはメディナへのヒジュラの直後,ユダヤ教徒の制度にならってアーシューラーを断食の日と定めたが,バドルの戦の後,ラマダーンRamaḍān月(9月,ペルシア語ではラマザーンRamaẓān,トルコ語ではラマザンRamazan)を断食の月とした。イスラム教徒はこの1ヵ月間,日の出から日没までいっさいの飲食を禁ぜられ,つばを飲み込むこと,喫煙,性交,意図的射精も許されない。ただし子ども,病人,身体虚弱者,妊婦,授乳中の婦人,旅人,戦場にある兵士などは除外されるが,最初の3者のほかは,原則として後日に埋合せをしなければならない。義務としてラマダーン月の断食のほかに,自発的断食ṣawm al-taṭawwu`が推奨され,とくにアーシューラー,巡礼月(12月)9日,シャッワール月(10月)の2日から7日に至る6日間の断食は最も功徳があるとされる。イスラム教徒の用いるヒジュラ暦は太陰暦で,太陽暦とは一致しないため,ラマダーン月が夏季になることもあり(たとえばヒジュラ暦1400年では,西暦1980年7月14日から8月12日まで),水一滴も飲めない30日間の断食は非常な苦しみであるが,それはイスラム教徒の各個人に課せられた義務(ファルド・アイン)なので,ともに苦しみに耐える信者の連帯意識の高揚に役立つ。ラマダーン月27日の夜はライラ・アルカドルlayla al qadr(力の夜)と呼ばれ,ムハンマドにコーランの下った日とされる。
執筆者:嶋田 襄平
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一定期間いっさいの、あるいは特定の種類の飲食物を断つことを意味し、世界の諸宗教に広くみられる宗教行為である。この意味では、「断ち物」といわれるものや、未開宗教に多くみられる一時的食物禁忌も断食のなかに含まれてしまうが、トーテミズム、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教などにみられる恒常的な食物禁忌は除外される。
断食が行われる時期はさまざまであり、またその動機もけっして一様ではない。諸学者によってこれまで多くの説明がなされてきたが、いずれも定説とはなっていない。いまかりにこれを分類してみると、第一に、妊娠、出産、初経(初潮)、成年式、死など人間の一生のサイクルとして現れる危機的状況に際して、当事者ないしは配偶者や家族の者が、断食をはじめとする一定の儀礼を行う場合が多い。また、戦争や干魃(かんばつ)などの共同体的危機に際しても、断食が行われることは、ユダヤ教やイスラム教にみられるとおりである。
第二に、呪術(じゅじゅつ)的行為や祈願に際して、その効果を高めたり、自己の誠意を示すためにしばしば断食が行われる。たとえば、イスラム教では、断食中の祈願はかならず聞き入れられるといわれる。
第三に、断食は、祭り、加入式、聖餐(せいさん)などの宗教儀礼の準備、浄(きよ)めとして、潔斎、物忌みの一部として行われる場合が多い。たとえば、ヒンドゥー教や神道(しんとう)の祭り、カトリックのミサ、洗礼などの諸典礼の前などがそうである。
第四に、断食は贖罪(しょくざい)、懺悔(ざんげ)の行為として行われる。ユダヤ教では、バビロンの捕囚によって神殿で犠牲(いけにえ)を献(ささ)げることができなくなると、贖罪のために祈りと断食がこれにかわるようになった。なかでも贖罪節の断食がよく知られる。イスラム教では、ラマダーン月が断食月と定められているが、それ以外にも喜捨(きしゃ)とともに贖罪のために断食が勧められている。
第五に、断食は修行の一形態として行われる。これは、食を断つことによって人間の欲望を制御し、精神の集中を助けることによって、高い宗教的境地に到達しようとして行われるものである。仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教、中国の道教、日本の修験道(しゅげんどう)など、とくに東洋の宗教に広くみられる。
第六に、医学的理由による断食はすでに古くから行われていたといわれるが、そのほかに今日の世俗社会では、断食はハンガー・ストライキなどにみられ政治的倫理的要求の貫徹や抗議の手段として行われている。
[中村廣治郎]
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シャハーダ,礼拝,ザカート,巡礼と並ぶイスラーム教徒の五行の一つで,ラマダーンの間,日の出から日没までいっさいの飲食と性行為を断つこと。疾病や旅行など,特段の事情により猶予が認められる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…イスラムの祭礼のひとつであるが,スンナ派とシーア派とで非常に異なっている。預言者ムハンマドはヒジュラの後,ヒジュラ暦1月(ムハッラム月)の第10日目を断食潔斎の日と定めたとされ,この日をアーシューラーと呼ぶ。これはユダヤ教のヨーム・キップール(贖罪の日)の断食を模倣したものであった。…
…イバーダートは文字どおりには神への奉仕であり,宗教学でいう儀礼に相当する。後に五柱(ごちゆう)として定型化されたところから信仰告白(シャハーダshahāda)を除いた,礼拝,喜捨(ザカート),断食,巡礼のほか,コーランではジハードがとくに強調されている。ムアーマラートは文字どおりには行動の規範,なかでも信者同士の人間関係であり,これには姦淫をしないこと,孤児の財産をむさぼらないこと,契約を守ること,秤をごまかさないことといった倫理的なおきてのほか,婚姻,離婚,遺産相続,ハッド(犯罪)に関する規定から利子の禁止,孤児の扶養と後見,賭け矢や豚肉を食べることの禁止,日常の礼儀作法の心得までを含む。…
…一般に禁欲は,肉的な原理を否定して霊的な原理を追求する心身二元論的な生き方とされているが,究極的には身体における死と再生の体験を実現するための,心身の統合論的な生き方を含んでいる。禁欲の手段は多種多様であるが,そのうちもっとも重要視されたのが断食と性的隔離である。ヨーロッパ中世の修道院規則や中国・日本に発達した僧堂規定の記述から知られるように,食事などを組織的に制限することによって,エロス的感性を抑制しつつ昇華させる方法が,慎重かつ詳細に定められている。…
…食生活についてはジャイナ教の生物の分類学上,できる限り下等なものを摂取すべきであるが,土を掘り返して殺生を犯す危険性のある球根類,また採取にあたって殺生を伴う危険性の高いはちみつなども厳格なジャイナ教徒は口にしない。しかしアヒンサーを守るための最良の方法は断食であり,もっとも理想的な死はサッレーカナーsallekhanāすなわち断食を続行して死にいたることである。マハービーラも断食の末に死んだとされ,古来幾多のジャイナ教徒がこの断食死の方法を選んだ。…
…仏教で,身を捨てて他の生物を救い,仏に供養する布施行の一つ。捨身の方法は焚身,入水(経典に証例なく,日本にとくに多い),投身,断食,頸縊,自害などがあった。薬王菩薩の焼身(《法華経》),薩埵(さつた)太子の捨身飼虎(《金光明経》),雪山(せつせん)童子の捨身羅刹(らせつ)(北本《涅槃経》)は著名。…
…【高橋 明】
[イスラム]
イスラム教徒は,神への信仰を日常の行動のなかで具体的に表現することが求められ,イスラムはその意味で生活規範であり,イスラム教徒の行事は深くこれと結びついている。なかでも信徒の義務として五柱に挙げられている礼拝,断食,巡礼は,最も重要な行事であり,これらの行事を通じてイスラム共同体(ウンマ)の存在が確認される。たとえば,礼拝は各自1日5回これを行うことが定められているほか,毎週金曜日の正午には,町や村の中心となるモスク(ジャーミー)に集まり,イマームの指導のもとに集団礼拝を行う(この日はイスラム教徒の休日にあたる)。…
※「断食」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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