改訂新版 世界大百科事典 「ムガル細密画」の意味・わかりやすい解説
ムガル細密画 (ムガルさいみつが)
ペルシアの細密画を祖として,インドのムガル帝国の宮廷で行われた細密画。主題は世俗的かつ現実的であり,描法は写実的で,同時期のラージプート絵画と著しい対照をみせている。その最初期は,ペルシアのサファビー朝のタブリーズ派の画家が招かれ,多数の挿絵入り写本がもたらされて,もっぱらペルシア細密画の技法を消化吸収した時代である。第3代皇帝アクバル(在位1556-1605)のときには,インド人の画家がしだいに指導的地位につき,インド的傾向が強まってムガル絵画独自の様式が明瞭になった。ポルトガルの大使やキリスト教宣教師団によってもたらされた西洋絵画の影響も見のがすことはできない。画風は平面的で装飾的なものから立体性を感じさせる写実的なものとなり,透視画法によって奥行きのある空間が描かれた。著名な画家としてダスワントDaswanthやバサーワンBasāwanらが知られている。アクバル帝の治世末期には自然主義的傾向が強まり,肖像画が発達した。
次のジャハーンギール帝(在位1605-27)は先帝にも増して絵を愛好し画家を保護して,ムガル絵画は最盛期を迎えた。ことに肖像画が流行し,単独の人物を描く場合もあるが群像的肖像画が好んで描かれた。それは現実のできごとを背景とする記録的な性格の強いものであった。肖像は常に側面向きに描かれ,面貌は特に精細に写されている。肖像画の一形式として愛人を抱擁する特異なものもある。またこの時代には風景画や花鳥画も盛んであった。ビシャン・ダースBiṣan-Dās,アブール・ハサンAbū'l Ḥasan,マンスールManṣūrらの画家がことに著名である。シャー・ジャハーン(在位1628-58)の治世には,皇帝が絵画よりも建築を愛好し,画家たちは地方に拡散した。表現は繊細さを増したが,活力を失い類型的なものが多くなった。アウラングゼーブ帝(在位1658-1707)は絵画を嫌い画家を宮廷から追放したため,ムガル絵画は急激に衰えてしまった。
→イスラム美術[絵画]
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報