改訂新版 世界大百科事典 「ムジャーヒディーン運動」の意味・わかりやすい解説
ムジャーヒディーン運動 (ムジャーヒディーンうんどう)
19世紀初め,現在のパキスタンの北西辺境州を中心に起こった,イギリス支配に対する〈ジハード(聖戦)に参加する者たち(ムジャーヒディーンMujāhidīn)〉の運動。その中心はサイイド・アフマド・バレールビーで,異教徒イギリス人の支配する植民地インドを,ムスリムの手で解放することを目ざした。1826年,指導者とともにムジャーヒディーンの500人はパンジャーブ北方の北西辺境地方に根拠地をつくり,まずシク王国に対してジハードを宣言した。イギリス支配打倒の前にシクからのパンジャーブ解放を第一の目標に定めたのである。一時期山岳部族民の協力のもとに,北西辺境地方最大の勢力を築き上げたものの,部族民との連合がうまくいかず,根拠地も不安定となった。31年5月,ランジート・シングのシク軍と戦って敗れ,指導者サイイド・アフマド・バレールビーほか約600人のムジャーヒディーンが戦死した。その後も60年代まで運動は続きイギリス支配に抵抗した。イギリス側では,この運動の参加者を〈ワッハーブの徒(ワッハーブ派)〉と呼んだ。
執筆者:小名 康之 なお,ムジャーヒディーンという語は現代のイスラム世界でも生きており,たとえば1970年代末のソ連軍のアフガニスタン侵攻に際して,これに対抗するアフガニスタンの武装ゲリラ組織がこの名で呼ばれた(アフガニスタンの項目を参照)。89年のソ連軍撤退後のアフガニスタン内戦においても,イスラム国家樹立をめざすジハードの担い手(アラブ諸国からも多数参加)は同様に呼ばれている。
執筆者:編集部
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