日本大百科全書(ニッポニカ) 「メイフィールド」の意味・わかりやすい解説
メイフィールド
めいふぃーるど
Curtis Mayfield
(1942―1999)
アメリカのソウル・ミュージック・シンガー、ソング・ライター、プロデューサー。そのいずれにも独自の音楽性を発揮したミュージシャン。シカゴ出身。
10歳になる前からアルファ・トーンズというグループを結成して活動するような早熟な少年だった。1957年、メイフィールドは教会の合唱団の仲間だったジェリー・バトラーJerry Butler(1939― )に誘われて、コーラス・グループ、インプレッションズを結成する。当初の彼はギタリストで、歌手としてはあまり認められていなかった。58年、グループは記念碑的なデビュー曲「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」を録音、これがポップ・チャート11位にまで達する大ヒットとなった。リード・ボーカルのバトラーはこれを機にグループを抜け、インプレッションズはメイフィールドが曲を書き、リード・ボーカルを取り、ギターも弾くという彼中心のグループに変わった。
インプレッションズはその後、「ジプシー・ウーマン」「イッツ・オール・ライト」「キープ・オン・プッシング」「ピープル・ゲット・レディ」などの名作をつぎつぎとヒット・チャートに送りこんでいった。メイフィールドが書く曲のほとんどは、キリスト教に根ざした黒人解放のためのものであり、同時にこぶしを振り上げるよりも穏やかな声で語り、心に染み入るような手法を彼は選んだ。なかでも65年の「ピープル・ゲット・レディ」は、公民権運動が盛んだった60年代当時だけでなく、その後も教会や人権のための集会の場などではスタンダード・ナンバーとして幅広く歌われている。
また、メイフィールドは音楽産業にも関心をもちながら活動した。自作の「フォー・ユアー・プレシャス・ラブ」の成功を無駄にせず、60年代の初めにはその収入で著作物管理会社を設立し、68年にはシカゴでレーベル、カートムをスタートさせた。その後、ジーン・チャンドラーGene Chandler(1937― )やメイジャー・ランスMajor Lance(1941―94)らを人気シンガーに育て、デトロイトにモータウン・レコード、メンフィスにはスタックス、シカゴにはメイフィールドを中心とするアーティストや音楽があるといわれるほどに、黒人音楽の豊かなバリエーションをつくり上げた。
70年、メイフィールドはインプレッションズを離れ、本格的にソロの道へ進む。72年には、黒人映画として大ヒットした『スーパーフライ』(1972、ゴードン・パークス・ジュニアGordon Parks Jr.(1934―79)監督)のサウンドトラックを担当した。ダイナミックなファンク・サウンドにのせた彼の悲しげなファルセット(裏声)は、麻薬や貧困、暴力にあふれた黒人街の現実を見事に歌い上げ、マービン・ゲイやスティービー・ワンダー、スライ&ザ・ファミリー・ストーンといった革新者たちと並ぶ、70年代ソウル・ミュージックの一翼を担う強烈な個性が完成した。その後、アルバム志向を強め73年の『バック・トゥ・ザ・ワールド』、75年の『ゼアズ・ノー・プレイス・ライク・アメリカ・トゥデイ』といった名作を生み出していく。
80年代も安定した活動を続けていたメイフィールドだったが、90年、ブルックリンの劇場に出演中の事故で首から下が不随となり、闘病生活を続ける。しかし96年に『ニュー・ワールド・オーダー』を発表。闘病中にもかかわらず、そのクオリティの高さが大きな話題となり、一時は忘れられたような存在だったメイフィールドの歴史的評価がこのアルバムで定まった。
[藤田 正]