アメリカのソウル・ミュージック・シンガー。黒人音楽におけるソウル・ミュージックの時代を代表するボーカリストの一人。後年は麻薬による情緒不安定な生活を送り、人生の幕を父親から放たれた銃弾によって閉じた。本名マービン・ペンツ・ゲイ・ジュニアMarvin Pentz Gay Jr.。首都ワシントン市の黒人街に生まれる。父親はきわめて厳格な牧師として知られ、幼いころのゲイは毎日彼に殴られていたという。
当時全盛だった地元のドゥーワップ・コーラスのグループ、レインボーズに15歳で加わり、プロ・シンガーへの道を進みはじめる。このグループにはドン・コベイDon Covay(1938― )など、後にソウル・ミュージック・シンガーとして名をなした人たちも在籍しており、彼らはグループの名前をマーキーズと変えてシングル盤を出したこともあった。地元のグループからの脱却は、彼がドゥーワップの大物ハーベイ・フークァHarvey Fuqua(1929―2010)に認められ、フークァが率いる名門ドゥーワップ・グループ、ムーングローズに参加したことがきっかけだった。これによりゲイはフークァとともにデトロイトに拠点を移し、まだスタートしたばかりのモータウン・レコードに籍を置くことになったが、当時のゲイの仕事はドラマーだった。
1960年代のアメリカのポップ・チャートは、ビートルズに代表されるイギリス勢に圧倒されていた。それに対し、一つの大きな勢力としてアメリカ側から彼らに対抗できたのが黒人であるベリー・ゴーディ・ジュニアBerry Gordy Jr.(1929― )が設立したモータウン・レコードだった。モータウンにはシュープリームスやフォー・トップス、テンプテーションズなど若い才能が集まり、次々とヒットを飛ばしていった。ゲイはそのなかにあって「スタボーン・カインド・オブ・フェロウ」(1962)、「プライド・アンド・ジョイ」(1963)、「ハウ・スウィート・イット・イズ」(1965)などの曲により、すっきりとした好青年のイメージで若い白人層にも好感をもたれるような位置を占めた。脳腫瘍(しゅよう)で夭逝(ようせい)したタミー・テレルTammi Terrell(1945―1970)との名デュエット「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」(1967)や、大ヒット曲「悲しいうわさ」(1968)なども含め、当時のゲイは、都会的な洗練を基礎としたシンガーとして確かな地盤を固めるまでになっていた。
このようなモータウンのスターらしいイメージをがらりと変えたのが、1971年に発売された傑作アルバム『ホワッツ・ゴーイン・オン』だった。このアルバムは自作自演で制作責任者(プロデューサー)も本人のうえ、黒人シンガーであれば和(なご)やかな微笑をたたえているのが一般的であった当時、雨に濡れて物思いにふけっているゲイの姿がジャケットに写っていた。そして内容はスラム街に暮らす人々の苦悩や、ベトナム戦争の悲劇などがテーマだった。「黒人は他人のいいなりになって、与えられるものだけを歌えばいい」「黒人はかくあるべし」という差別や抑圧に対して、高名な黒人ポップ・シンガーが「ノー」という姿勢をみせたことは各方面に大きな反響をよんだ。ゲイはこの一作から、単なるヒット・メーカーとは異なる次元に立つ歌手としてみなされるようになったのである。またほぼ同時期に、同じモータウンのスティービー・ワンダーも、ゲイと同様にミュージシャン主導のアルバム作りを始めており、この2人の活動が、その後の黒人音楽の方向性に大きな道筋をつけた。
その後のゲイはエロティックなダンス・ミュージック・アルバム『レッツ・ゲット・イット・オン』(1973)や『ヒア・マイ・ディア』(1978)などの話題作を作っていく。後者では、自身の離婚問題が語られており、このような「私小説」的なアプローチもソウル・ミュージックでは珍しいことだった。
アーティストとしては神格化されるほどの存在になりつつあったゲイだが、晩年の私生活は、離婚訴訟や多額の税金未払いなどさまざまな問題を抱えており、それらも原因となって麻薬に溺れていった。1981年、ヨーロッパで隠遁生活を始める。帰国後、事実上のラスト・アルバム『ミッドナイト・ラヴ』が米コロンビアの移籍第1弾として発売されたのは、1982年の秋のことだった。その2年後、ゲイは帰らぬ人となる。父との口論の発端も麻薬だった。
[藤田 正]
イギリスの風刺的劇作家、詩人。代表作『乞食(こじき)オペラ』(1728)は、盗賊の悪行や監獄の腐敗に事寄せて、ロバート・ウォルポールに象徴される当時の政治を批判した音楽劇で、イタリア風オペラと異なり、原則として既存の俗謡のメロディを用いてバラッド・オペラという新形式を創造した。続編『ポリー』(1729)のほか、ポープらとの共作喜劇『結婚後三時間』(1717)や風刺詩などがある。
[喜志哲雄]
アメリカの経済史家。ミシガン大学卒業後12年にわたってヨーロッパに留学、ベルリン大学でG・シュモラーの強い影響を受け、経済史の研究に入った。留学後半の5年間ほどロンドンにおいてイギリス農業史を研究し、1902年帰国、翌年学会誌『Quarterly Journal of Economics』に論文「16世紀イングランドにおけるエンクロージャー」Inclosures in England in the Sixteenth Centuryを発表した。帰国後ハーバード大学で教鞭(きょうべん)をとり、06年経済史教授となる。17年以降官界、ジャーナリズムで活躍したが、27年ハーバード大学に戻って経済史の研究に専念した。著書は残さなかったが、門下に多くの俊英の研究者を輩出し、また農業史学会会長、経済史学会会長などを歴任した。
[根本久雄]
イギリスの劇作家,詩人。ポープ,スウィフト,コングリーブなどのグループに入って影響を受け,世相の観察に基づく風刺詩やパロディを発表した。しかし彼の代表作は戯曲《乞食オペラ》(1728初演)である。これは原則として既存のバラッドの曲に新たに詞をつけたものを,散文の台詞の間に散りばめた音楽劇で,イギリス最初の〈バラッド・オペラ〉である。ロンドンの盗賊や娼婦の世界をかりて行った政治風刺の辛辣さと親しみやすいメロディのせいで大いに人気を得,イタリア・オペラに対して土着的題材を扱う英語の音楽劇を確立させた。その続編《ポリー》(1729)は,当時の首相R.ウォルポールの忌諱にふれて上演を禁止された。他の戯曲にはポープ,J.アーバスノットとの共作による風刺劇《結婚後3時間》(1717初演)などがある。ゲイはモンマス公爵夫人やクラレンドン伯爵の秘書,貴族の食客,官吏などをして生計をたてていたことがある。
執筆者:喜志 哲雄
アメリカの経済史家。ミシガン大学卒業後,ヨーロッパに留学,G.vonシュモラーに学んでベルリン大学で博士号を得る。1902年,アメリカ人としては初めてハーバード大学で経済史の講座を担当,後に同大学ビジネス・スクール初代校長。19年《ニューヨーク・イブニング・ポスト》紙社長,翌年編集長となる。連邦政府の公職にもしばしば就任した。著作は少ないが多くの学者を育て,学界の大御所であった。
執筆者:岡田 泰男
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… 〈同性愛homosexualität(ドイツ語),homosexuality(英語)〉は,1869年ウィーンで活躍した作家(ハンガリー人)ケルトベニーKaroly(Karl) Maria Kertbeny(1824‐82)が発案した造語(ギリシア語で〈同一〉を意味するhomoとラテン語で〈性愛〉を意味する語を組み合わせたもの)で,ドイツにおける男性同性愛者解放運動を支持するかたちで生まれた。しかしその後,この語を差別的医学用語とみる誤解が流布したが,当初の目的に反して,同性愛という語が差別的用法を伴ったことも事実で,そのため男性同性愛者を〈ゲイgay〉,女性同性愛者を〈レズビアンlesbian〉と呼ぶことが西洋では現在一般化している。 歴史的にみると,西洋において同性愛者の人権が認知されはじめた18世紀後半と,それ以前とでは同性愛のイメージは異なる。…
…イギリスの劇作家J.ゲイの劇。1728年初演。…
…18世紀のイギリスで流行した音楽劇の一種。J.ゲイの《乞食オペラ》(1728初演)によって確立。バラッドとは,当時は巷間で歌われる歌謡のことであったが,ゲイの作品は原則としてそれら既存の歌のメロディに新たに詞をつけ,せりふでつないだものである。…
※「ゲイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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