アメリカ合衆国中西部,イリノイ州北東部の大都市。人口284万(全米3位,2005),大都市域人口841万(1992)。ミシガン湖南西岸に位置し,人口,経済,文化等の面において,ニューヨーク,ロサンゼルスと並び,アメリカを代表する都市である。大西洋岸にあって植民地時代以来の国際都市として栄えてきたニューヨークや,20世紀の自動車時代に発展した西海岸のロサンゼルスとは異なり,シカゴは内陸の国内交通のかなめ,とくに中西部の農産物集散地として発達し,19世紀アメリカの工業化,都市化に歩調をそろえて成長した。
シカゴの語源はインディアンの言葉checagouで〈ニンニク〉〈タマネギ〉,転じて〈強い〉という意味を持ったといわれる。シカゴ川の河岸をおおっていた野生のニンニクに由来するものであろう。河口の地点は早くからインディアンの交易地であり,1673年以降フランス人伝道師や探検家も訪れている。独立達成によりアメリカ領となり,インディアンとの〈グリーンビル条約〉(1795)により開拓の道が大きく開かれた。軍事的にも重要で1803年にはディアボーン砦が設けられたが,町としての始まりは33年に町制が敷かれたときからである。もっとも,当時の人口は350にすぎなかった。このころから中西部の開拓が本格化し,イリノイ以西への移住者が増大するにつれ,シカゴは西部への旅の中継点となった。そして,農業生産が発展すると今度は東部へ小麦を送り出す拠点になってゆく。とりわけ,48年にはイリノイ・ミシガン運河が開通し,次いでイリノイ・セントラル鉄道(1852)をはじめとする鉄道が建設され,東部工業地帯と西部農業地帯を結ぶ水陸交通の要衝としての重要性が高まった。48年には穀物を中心とする取引所(シカゴ商品取引所)も開設された。55年には,10本の鉄道幹線と11本の支線が集まる鉄道網の中心であり,日に96本の列車が発着した。かくして,詩人C.サンドバーグにより〈世界の豚屠殺者,機具製造者,小麦の積上げ手,鉄道の賭博師,全国の貨物取扱い人〉とのちにうたわれたシカゴの基礎は,19世紀中葉に築かれたのである。1850年には人口約3万,数年後には6万に達したといわれる。
シカゴは政党などの全国大会が開かれる都市としても有名である。リンカンを大統領候補に指名した1860年共和党全国大会も,ここで開催された。当時,合衆国の内陸都市としてシカゴと覇を競っていたセント・ルイスやシンシナティは,南部との結び付きがより強かったので,南北戦争中のシカゴは軍需を一手に引き受けることとなった。穀物・家畜取引は増大し,65年にはユニオン・ストック・ヤーズもつくられた。ここには牛2万頭,豚7万5000頭,羊2万頭の収容能力があった。商工業の発達も目ざましかった。すでに南北戦争以前から,中西部農村を市場とするマコーミック収穫機会社や,近くの鉱床を利用する製鉄工場が建設されており,70年の人口は30万に達していた。
71年,パトリック・オリアリーの牛小屋から起こった大火は,2億ドルの損害を与え10万人の家を奪った。再建にあたり市は中心街での木造建築を禁じ,煉瓦,石,鉄の使用を義務づけ,保険会社の政策もその傾向を助長した。シカゴは建築家にとって絶好の市場となり,のちに多数のスカイスクレーパー(摩天楼)を設計・建築したL.H.サリバンをはじめ多くの建築家をひきつけた。サリバンは73年,シカゴに移住してジェニーWilliam Le Baron Jenneyの弟子となったが,ジェニーは最初の鉄筋建築ホーム・インシュアランス・ビル(1885完成)を建て,シカゴに摩天楼の時代を開く(シカゴ派)。再建はすみやかに進み,73年の不況をくぐりぬけたシカゴは経済的にもいっそう発展した。
商工業の発展は,各地から労働者や外国移民をひきつけた。精肉業,製鉄工場,農機具製造会社,鉄道車両工場など,多数の労働者を雇う工場があり,近隣の鉱山,採石場,製材所,鉄道現場でも多くの不熟練工が働いていた。アイルランド移民はすでに1850年代から政治的勢力となっていたし,彼らよりも多いドイツ移民の中には急進主義者もまざっていた。シカゴは労働運動の中心地となり,77年の鉄道ストライキ,86年のヘイマーケット事件,94年のプルマン・ストライキ,同年および98年の炭鉱ストライキと,しばしば血なまぐさい事件をともなう大争議が生じた。貧しい移民や労働者を救うためにハル・ハウスを開いたジェーン・アダムズのような社会改革家もいたが,むしろ目だったのは移民たちの無知と結束の強さを利用して政治をあやつるボスや,一時の享楽を与える酒場や娼家であった。
シカゴは工業都市であると同時に,モンゴメリー・ワードやシアーズ・ローバックが本拠をかまえる流通業の中心であり,マーシャル・フィールド百貨店の存在が示すごとく一大消費都市である。19世紀後半以降の経済の発展はプレーリー・アベニューや〈ゴールド・コースト〉に大邸宅を構える富豪を生んだ。上流階級の富はステート・ストリートの優雅な商店,グラント・パークなどの広々した公園,バッキンガム噴水やシカゴ自然博物館,そして美術館やコンサート・ホールを生み出した。しかし,その反面,ウェスト・サイドなどのスラム街に住む下層階級も増加した。93年の世界博覧会を機として生じた都市美化運動や,その後の市政改革運動にもかかわらず,都市の成長は住む場所としての質を低下させた。第1次大戦と移民の激減から生じた労働力不足は,南部からの大量の黒人流入をもたらし,家屋の不足からスラム街が広がり,白人との緊張が高まった。そして1919年夏にはサウス・サイドでシカゴ史上最大の人種暴動が起こったのである。さらに20年代のアル・カポネや聖バレンタイン・デーの虐殺に代表されるギャングの横行は,腐敗と無法の町としてのシカゴを印象づけた。30年,シカゴの人口は330万を超え,アメリカ第2位に達したが,中産階級はエバンストンやウィルメット等の郊外住宅地に脱出し,都心部には一部の金持階級と労働者,移民そして新たに流入してきた黒人が残った。かつてはすべてが混在していたこの都市において,ループを中心とする商業地区,カリュメット地域中心の工業地域,レーク・ショア・ドライブのごとき高級アパート地域という機能分化が生じ,同時に人種,階級により居住区域が分かれていった。1920年代はまた〈社会的実験室としての都市〉を対象とした社会学のシカゴ学派(R.E. パーク,E.W. バージェスら)の研究がすすんだ時代でもあった。
シカゴを代表する文化は,シカゴ美術館に収められたフランス印象派の絵画や,シカゴ交響楽団の演奏するヨーロッパの名曲ではなく,むしろ下層階級のものといってよい。F.ノリス,T.ドライサー,U.B.シンクレア,C.サンドバーグ,R.ライトらの文学は,シカゴが具現する大都市の矛盾,スラム街の労働者の生活と切り離すことはできないし,ルイ・アームストロングやベニー・グッドマンのジャズは安酒場から生まれた。もっとも,資本家の財力と労働者の腕の力が結びついた高層建築こそ,シカゴの象徴といえるかもしれない。1920年代にはトリビューン・タワーやリグリー・ビル,第2次大戦後にはマリーナ・シティ,ジョン・ハンコック・センター,シアーズ・タワーなどが建てられた。前記のサリバンやF.L.ライトをはじめとする建築家の活躍も忘れてはならない。
シカゴは〈最も典型的なアメリカ的都市〉(ジョン・ガンサー)と呼ばれるが,外国移民やその二世,三世が多い。ポーランド語,イディッシュ語,ドイツ語,スウェーデン語,ギリシア語などの新聞が発行され,イタリア人街,リトル・メキシコ,チャイナ・タウンが形成されている。そうした中で,アイルランド系政治家を中心とする民主党の勢力は強く,とりわけ,第2次大戦後,55年から76年まで20年以上にわたって続いたデーリーRichard Daley(1902-76)市長の時代は記憶さるべきであろう。彼は諸民族や諸階層の利害を巧みに調整し,銀行家,不動産業者,労働組合役員,連邦政府の役人など,さまざまな有力者の支持を受けた。もちろん,68年の黒人暴動や民主党全国大会でのデモ隊と警官隊との衝突などの事件もあったが,この時期のシカゴ市政はニューヨークやボストンなどに比較すれば,都市行政の面でも財政面でも一応の成功をおさめた。飛行機やトラックの発達がもたらした鉄道の没落もシカゴを脅かさず,市の北西部にあるオヘア空港は今日世界一の繁忙さを誇り,セント・ローレンス水路はシカゴと外洋を結びつけている。シカゴ穀物市場は全国の相場を決定し,諸工業や金融業も全国的に重要な地位を占めている。シカゴの語源となった〈強さ〉という表現は現代においてもふさわしい。
執筆者:岡田 泰男