アメリカのフェミニズム理論、セクシュアリティ研究者。1984年エール大学で哲学の博士号を取得した後、ヘーゲル哲学を論じた『欲望の主体』(1987)などを執筆し、1989年の『ジェンダー・トラブル』で、フーコーやデリダらの影響を受けたフェミニズム理論を展開した。同書は、自然な生物学的性差sexと思われているものは性差別的・異性愛中心主義的な社会規範によって構築された社会的性差genderであって、フェミニズムは、「女性」という主体、あるいはカテゴリーに安易にその政治や理論の根拠を求めてはならず、むしろ、セックス、ジェンダー、そしてセクシュアリティの分類や定義、組合せを支配する社会的規範を批判的に再考し、その新たな組合せの可能性を探るべきだと主張して、1990年代以降のフェミニズム理論・クイア理論に大きな影響を与えた。
バトラーによれば、自然な生物学的性差がジェンダーを根拠づけるのではなく、逆に、二次元論的なジェンダー規範がセックスを生み出し、あたかも自然で不変の性差という根拠に基づくかのようにふるまっているにすぎない。社会的・歴史的に構築された規範がそれ自身を繰り返し引用しつつ不変の本質として実体化するこの作用を、彼女はジョン・L・オースティンの社会言語論を援用して「パフォーマティビティ(行為遂行性)」とよぶ。たとえば「女性」というジェンダー化された主体は、所与のものではなくパフォーマティブに構築されたものであり、だからこそつねに新しい構築の可能性をもつのである。ジェンダーのパフォーマティビティというこの議論は、(1)生物学的な所与とみなされてきたセックスあるいは身体それ自体が、社会的に構築され実体化されたものであって、決定されたものではないと論じる点、そして、(2)フェミニズムの政治は、「女性」という自律的主体の解放を目ざすのではなく、主体そのものが既存の社会規範を経由して構築されているという認識に基づき、その規範を撹乱(かくらん)する方法を探すべきだとする点において、従来のジェンダーの政治理論から大きく一歩を踏み出すものであった。
次著『問題なのは肉体だ』(1993)において、バトラーは身体のパフォーマティブな構築というテーマを引き継いで、精神分析理論を参照しつつセックスとジェンダーのみならず人種や民族といった視点も取り入れて、物質性・身体性がいかに社会的・歴史的に構築されてきたのかについての考察を掘り下げ、さらに、『触発する言葉』(1997)では、「エージェンシー(行為体)」という概念を中心においた社会変革の理論を提示した。「エージェンシー」とは、既存の社会的、歴史的規範の引用によってパフォーマティブに構築される点で自律的主体とは異なるものの、引用によってその存在のあり方を決定されず、引用の反復を通じて規範をずらし変革する力をもつとされる。この概念によってバトラーは、ポスト構造主義的主体批判を継承しつつも、社会決定論的な閉鎖性に陥らない、ラディカルな文化政治理論を立ち上げることを目ざした。
[清水晶子]
『竹村和子訳『ジェンダートラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(1999・青土社)』▽『ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『アンティゴネーの主張――問い直される親族関係』(2002・青土社)』▽『竹村和子訳『触発する言葉――言語・権力・行為体』(2004・岩波書店)』▽『Bodies That Matter; On the Discursive Limits of “Sex”(1993, Routledge, New York)』
アメリカの教育家。ニュー・ジャージー州エリザベスに生まれる。コロンビア大学に学び、1884年博士号を取得、パリ、ベルリンに留学し、1885年にはコロンビア大学哲学助教授、1890年教授となり、1902年から1945年まで総長を務めた。彼は60年間コロンビア大学で教育を続けたが、その間、彼の指導のもとでコロンビア大学は驚異的成長を遂げ、超一流の大学となった。また、教員養成カレッジ(のちコロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ)を設立、『教育評論』Educational Reviewを創刊するなど、教育制度改革に尽力した。
一方、政治の分野でも活躍し、1888年から1936年まで、共和党全国大会に出席、代議員を務め、1908年にはタフトを支持し、大統領に当選させた。また、平和運動にも没頭し、とくに教育機関の世界的な結束を模索した。国際調停協会のアメリカ支部長となり、戦争の違法性を確定したケロッグ‐ブリアン条約の締結に協力するなど、国際理解による世界平和達成に努力した。さらに産業企業家のカーネギーを説得してカーネギー国際平和財団の設立に関与、1925年から1945年まで財団の理事長を務めた。これらの平和活動が評価され、1931年同じくアメリカの平和運動家アダムズとともにノーベル平和賞を受賞した。そのほか、15か国から勲章を、37大学から名誉学位を受けた。
[編集部 2018年10月19日]
イギリスの小説家、思想家。牧師の子として生まれ、ケンブリッジ大学卒業。ニュージーランドに移住し、牧羊で産をなして帰国し、以後、多才な文筆活動に入る。ダーウィンの進化論を批判し、また『オデュッセイア』の作者は女性と断じたりした。小説家としては、透徹した知性をもつ風刺家で、“Nowhere”ということばの逆つづりから「エレホン」という一種のユートピアをつくりあげ、その国の制度や風俗を描いて、イギリス社会を風刺した小説『エレホン』(1872)を書いた。代表作『万人の道』(1903)は没後出版の自伝的小説で、主人公アーネスト青年の曽祖父(そうそふ)の代から書き起こして、社会の因襲、家庭の偽善、両親の圧迫に反逆し、自由な自己を発見するまでの過程を語っている。ビクトリア朝の因襲と偽善を徹底的に批判するこの小説は、当時の若い世代に大きい影響を与えた。
[小松原茂雄 2015年7月21日]
『山本政喜訳『エレホン――山脈を越えて』(岩波文庫)』▽『今西基茂訳『万人の道』全2冊(岩波文庫)』
イギリスの神学者、道徳思想家。道徳感覚学派を代表する一人。シャフツベリ伯の影響を受けて、ホッブズの快楽主義を批判し、人間には「自愛」以外に「良心」としての道徳感覚とそれによる支配原理が存在すると主張し、後者に前者を統治・規制する優位を与える。また、彼の利己主義の批判は有名で、利己主義は欲求の対象とそこから得られる満足との混同に由来すると説く。さらに、彼はシャフツベリの影響を超えて、人間本性を含む世界全体を、自然と道徳の合一を可能にする目的論的体系・制度と考える。著作に『説教15集』(1726)、『自然宗教と啓示宗教の自然の構成および運行との類比』(1736)などがある。
[杖下隆英 2015年7月21日]
イギリスの社会運動家。農業改革や奴隷制反対で活動したジョン・グレイJohn Grey(1785―1868)の娘。教師と結婚したが、5歳の娘の死を契機に社会運動に向かって、困窮者、病気の売春婦救護のために働いた。売春婦の検診と治療のために1864年につくられた性病法(以後、数度にわたり改定)が、女性の人権を侵害するとして、性病法廃止運動に献身し、労働者階級の支持を得て1886年その廃止に成功。また、フランス、イタリア、スイスを訪れ、ベルギーでは少女売春の実態を明らかにし、白人売春婦貿易禁止に貢献した。
[白井尭子]
『藤目ゆき著『性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制』普及版(1997・不二出版)』▽『An Autobiographical Memoir(1913, J.W. Arrowsmith, Bristol)』
イギリスの彫刻家。バンティングフォードに生まれる。初め建築を学び、1936~50年にはコトレル・バトラーの名で建築家、工業技術者として活躍。第二次世界大戦中、鍛冶(かじ)職人として働いた経験を生かして、戦後、鋳鉄や針金を用いた特異な人体彫刻を制作し、47年にはヘンリー・ムーアの助手をつとめている。53年「無名政治囚」のモニュメントのための国際コンクールで大賞を受賞。その後しだいに写実性の強い女性像の制作に専念。彼の女性像のポーズはますますエロティックな度合いを増していったが、70年代にはそのブロンズ彫像に着色を施したりもしている。
[谷田博行]
イギリスの詩人。19世紀の同名の作家と区別して「ヒューディブラスのバトラー」とよばれる。反清教徒的風刺でチャールズ2世らを喜ばせたが、生涯痛風と貧困に悩まされた。清教徒で狂信的なルーク卿(きょう)をモデルとして擬英雄詩体を駆使した『ヒューディブラス』(1662~78)は、人間の偽善を痛烈に暴露し、「比喩(ひゆ)の鬼」らしい誇張と脱線の連続によってラブレー的戯画を完成した。『人さまざま』(1759刊)は、ギリシアの哲学者テオフラストスの『性格論』の伝統を引いている。
[樋渡雅弘]
イギリスの小説家。ケンブリッジ大学に学んだがキリスト教に疑問をもち,予定されていた聖職に就くことを拒否して,ニュージーランドに移住,牧羊業者になるなど,若いころから既存の権威に反逆する気質を示した。1864年帰国後は,人文科学,社会科学,自然科学のあらゆる分野に広い関心を示し,それぞれの問題について素人の遊びではない専門的業績を発表している。例えば,C.ダーウィンの進化論とは違う彼独自の進化説を発表し,ラマルクにくみしてダーウィンに反論する著作《古い進化,新しい進化》(1870)などを世に問うた。絵画,音楽にも造詣が深く,オラトリオを作曲したこともある。またホメロス作として現在知られている《オデュッセイア》の作者は女性であったという説を発表(1897)して,世間を驚かせた。しかし,彼の本領は文学,とくに小説の創作であって,72年に《エレホンErewhon》を発表した。表題はnowhere(どこにもない)のつづりをほぼ逆にしたもので,ユートピア(ギリシア語に由来する語〈どこにもない場所〉の意)を舞台にした風刺小説である。1901年にその続編を発表。死後発表された小説《万人の道》(1903)は,精神的自叙伝であり,イギリス文学では珍しい教養小説でもある。ビクトリア朝の宗教・道徳の偽善,父権の横暴,家庭生活の荒廃などを果敢に暴露攻撃したもので,現代なお注目に値する。
執筆者:小池 滋
イギリスの風刺詩人。後世の《エレホン》の著者で同姓同名の作家バトラーと区別するために,〈《ヒューディブラス》のバトラー〉と呼ぶのがふつう。農民層の出身であったが,のちにピューリタンの保安官サミュエル・リュークに仕えた。王政復古後,このリュークをモデルにした痛烈な風刺詩《ヒューディブラス》全3部(1662,63,78)を世に問い,それまでピューリタンに痛めつけられていた王党派のかっさいをあびた。主人公のヒューディブラス卿はピューリタン陣営の長老派教会,彼の従者ラルフォーは同じく独立派を表し,この2人がドン・キホーテおよびサンチョ・パンサそっくりの旅を続ける間に,ピューリタンの偽善や独善が暴露されるしくみ。国王チャールズ2世は年金を与えて,作者の労に報いた。ほかに当時のローヤル・ソサエティ(王立協会)を風刺した《月世界の象》では,月世界の象と思ったものが実は望遠鏡の中のネズミだったというおちで,時代の科学的風潮を風刺。
執筆者:川崎 寿彦
イギリスの社会改革者。農業改良や奴隷貿易廃止運動に貢献したジョン・グレーの娘。英国国教会の牧師ジョージ・バトラーと結婚。女性の道徳的向上に強い関心をもち,最初は女子の高等教育要求の運動にも参与するが,しだいに売春婦の救済に専念するようになる。警察の監視下で売春婦に定期検診を義務づけることによって事実上公娼制度を法的に承認した〈性病法Contagious Diseases Act〉(1864,66,69)の廃止を訴え,女性の全国的組織を先導。ナイチンゲールやH.マーティノー,またV.ユゴーら外国人の支持をも得て,同法は1886年に撤廃された。その後も引き続き売春の全面的禁止を訴え続け,この運動をヨーロッパ諸国にまで拡大させた。
執筆者:河村 貞枝
英国国教会の聖職者,ダラム主教,哲学者。長老派教会員の家庭に生まれたが国教会に改宗し,ブリストル主教(1738)を経て,1750年ダラム主教就任。《宗教の類比》(1736)で自然宗教と啓示宗教の〈類比〉を論証して,啓示宗教としてのキリスト教の伝統的な正統教義を弁証した。倫理学者としては道徳生活は人間本性にかなった生き方であるとし,ホッブズ以来の利己主義的な功利主義を批判するなど,後世の思想家に影響を及ぼした。
執筆者:八代 崇
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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1902~82
イギリスの政治家。チャーチルの戦時内閣で教育相を務め,1944年に中等教育の義務化を定めた教育法の制定にあたる。戦後の保守党内閣においても蔵相,内相,外相を歴任し,リベラル派の代表であったが,首相になる機会を逸した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…前者(前3世紀~前1世紀)はギリシア美術からの影響がきわめて強い。後者(1世紀~3世紀)ではギリシア的特色が後退し,それに代わってアケメネス朝,パルティアなどのイラン系民族や土着民族(例,エリュマイスElymais王国,隊商都市ハトラ)の趣向ないし美意識が顕著となっている。狭義のパルティア美術はこの後期のものを指すが,その本質は〈グレコ・イラン的〉,〈グレコ・オリエンタル〉などと規定されている。…
…1864年には軍事基地に公娼がおかれ,69年に売春婦あるいはそれと推定された女性に検診を義務づける〈性病法Contagious Diseases Act〉が制定された。J.E.バトラーは,この法律は人権の侵害であるとして反対運動に立ち上がり,その撤廃に成功し,さらに国の内外に売春の禁止を訴えた。またM.C.C.ストープスは,産児制限の技術を開発し,それを普及し,女性労働者の地位向上を図った。…
※「バトラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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