日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
スライ&ザ・ファミリー・ストーン
すらいあんどざふぁみりーすとーん
Sly & The Family Stone
アメリカのファンク、ソウル・ミュージック・グループ。サンフランシスコで1967年に結成された。ジミ・ヘンドリックスJimi Hendrix(1942―70)やビートルズなどと同じように、変革の60年代ポップ・ミュージックにあって、黒人音楽(ソウル・ミュージック)や白人音楽(ロック)の枠を取り払い新時代のサウンドを築いた。
スライ・ストーンSly Stone(1944― 、本名シルベスター・スチュアートSylvester Stewart)を中心として、シンシア・ロビンソンCynthia Robinson(1946― 、トランペット)、ジェリー・マルティーニJerry Martini(1943― 、サックス)、ロージー・ストーンRosie Stone(1945― 、ピアノ)、ラリー・グラハムLarry Graham(1946― 、ベース)、グレッグ・エリコGreg Errico(1946― 、ドラム)の6人によって結成された。それ以前のスライは、サンフランシスコでラジオDJをし、その関係で地元のボー・ブランメルズなどのロック・バンドやボビー・フリーマンBobby Freeman(1940― )ら黒人シンガーのレコーディング・プロデュサーもしていた。
60年代後半のサンフランシスコは若者たちの文化運動「フラワー・ムーブメント」(長期化するベトナム戦争を背景に、花を象徴として「愛と平和」を訴えた)が最高潮に達していた。スライ・ストーンはその渦中にあって、黒人らしいビート感覚をベースにしながらも、一つの固定観念に縛られることのない自由で解放された音楽を築き上げようとした。ちなみに彼のステージ・ネームであるストーンは、麻薬による恍惚状態を指す隠語であり、バンド名のファミリーとは人種や性別で分け隔てをしない仲間たちという意味が込められている。このようなところにもアメリカの西海岸に花開いた若者文化の影響を見て取ることができる。
スライたちが全米で注目を浴びたのは、エピック・レコードと契約した翌年の68年に発売された「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」や「エブリデイ・ピープル」からだった。そして69年のアルバム『スタンド!』で、彼らの人気は決定的なものとなる。このアルバムのエネルギッシュなタイトル・ソングをはじめとして、ウッドストックのロック・フェスティバル(1969)に参加したときのドキュメント・フィルムを通して世界のロック・ファンを魅了した「アイ・ウォント・トゥ・テイク・ユー・ハイヤー」などのファンク・ミュージック、そして「ドント・コール・ミー・ニガー、ホワイティ」(題名にある「ニガー」とは黒人を、「ホワイティ」とは白人を侮蔑する言葉)という人種問題を正面からついたメッセージ・ソングと、当時の彼らにはまさに鮮烈という言葉がふさわしかった。
スライ&ザ・ファミリー・ストーンのこのような音楽性は、ロックやソウル・ミュージックに影響を与えただけではなかった。すでにジャズ・ミュージシャンとして確かな地位にあったマイルス・デービスにも衝撃とともに受け入れられ、彼の旧来のジャズからの訣別を決定づけたのもスライだった。その結果はマイルスの『ビッチェズ・ブリュー』(1969)ほかエレクトリック・ジャズ、ファンクの名作に結実していく。
しかしスライには麻薬というやっかいな問題があった。彼の中毒症状は日を追って悪化し、バンドの維持やレコード制作にも支障をきたすようになった。そんな中で完成したのが『暴動』(1971)である。はつらつとしたそれまでのサウンドから、内省的な方向へ急傾斜したこのアルバムは、歌詞やメロディの多様さだけでなく、リズム・ボックスを象徴的に使うなど次代の音楽に先駆けるアイディアがふんだんに盛り込まれた作品でもあった。続く『フレッシュ』(1973)も、アメリカ黒人のファンクとはアフリカのポリリズム(複合リズム)の変型であることを、見事なリズム・アレンジで証明した作品だった。
70年代、ファンクを基礎としたこういったリズムの改革はベース・ギターにもおよび、特に「チョッパー・ベース」と呼ばれる打楽器的にベースを演奏する奏法が世界的な流行にもなった。この奏法を生み出したのがグラハムで、彼は『暴動』のあとに独立し、スター・プレイヤー、シンガーとして活躍する。
グラハムの成功に反して、スライの音楽的エネルギーは『フレッシュ』以後、急激に落ち込んでゆき、しだいに伝説の人物として語られることが多くなっていった。ジョージ・クリントンら彼の才能を惜しむ人たちは、何度かスポットライトを当てようと試みたが、スライはコカイン所持で逮捕されるなど、さらに破滅の道を歩んでいった。
[藤田 正]