ヨーロッパサッカー(読み)よーろっぱさっかー

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヨーロッパサッカー」の意味・わかりやすい解説

ヨーロッパサッカー
よーろっぱさっかー

世界のサッカーはヨーロッパと南米を中心に動いている。1990年代に入ってアフリカ勢の台頭が著しいが、ヨーロッパ、南米の地位を脅かすに至っていない。ひと口にヨーロッパサッカーといっても、それぞれの国に、その歴史、国民性に根ざしたまったくタイプの違うサッカーが展開されている。

[西部謙司]

イタリア

ワールドカップ優勝3回のヨーロッパを代表する強豪国である。まずは、ワールドカップの成績をたどることとする。自国開催の第2回大会(1934)は、ムッソリーニの政治的な宣伝に利用された。アルゼンチン代表だったモンティLuisito Monti(1901―1983)、オルシRaimundo Orsi(1901―1986)、グアイタEnrique Guaita(1910―1959)の3人を帰化させて強化を図り、決勝でチェコスロバキアを破って優勝した。1938年のフランス大会は、キャプテンのジュゼッペ・メアッツァGiuseppe Meazza(1910―1979)らの活躍で連覇に成功した。第二次世界大戦後は、1970年メキシコ大会で決勝まで進んだが、ペレを擁するブラジルの前に1対4で完敗した。左利きのストライカー、ルイジ・リーバLuigi Riva(1944―2024)の活躍が光った。四度目のファイナル進出は1982年スペイン大会であった。二次リーグで最強といわれたブラジルを倒し、準決勝でポーランドも降して決勝進出、決勝では西ドイツを3対1で降した。大会開始まで、国内リーグの八百長事件に巻き込まれてプレーしていなかったパオロ・ロッシPaolo Rossi(1956―2020)が得点を量産、得点王にも輝いた。1990年は自国開催で優勝の期待がかかったが、マラドーナの率いるアルゼンチンにペナルティー・キック(PK)戦で敗れて3位。続く1994年アメリカ大会も決勝でブラジルと対戦してPK戦で敗退した。さらに1998年フランス大会の準々決勝でもフランスにPK戦負けと、3大会連続でPK戦負けという不運が続いた。地中海の青を採用したユニホームの色から代表チームは「アズーリ(イタリア語で「青」の意)」とよばれ、堅固な守備からのカウンターアタックを持ち味としている。

 国内一部リーグ、セリエAに所属する有力チームはヨーロッパのカップ大会でも数々の栄冠を勝ち取っている。世界中のスター選手が在籍することから世界最高峰のリーグともいわれている。ユベントスACミラン、インテルなどが有名。

[西部謙司]

イングランド

1863年、世界最初のサッカー協会The Football Associationを設立してルールを統一、近代サッカーはここから始まった。1817年に開始されたFAカップは世界最古のサッカーの大会である。19世紀から20世紀初頭まで世界のサッカーをリードし、世界各国に同じルールのサッカーを伝えたことから「サッカーの母国」ともよばれる。1930年にワールドカップが始まったが、イングランドは参加せず、初参加は1950年のブラジル大会であった。このときはアメリカに0対1で敗れ、それ以降も好成績は残せなかった。スタンレー・マシューズStanley Matthews(1915―2000)、トム・フィニーTom Finney(1922―2014)、ビリー・ライトBilly Wright(1924―1994)など名手も生んだが、第二次世界大戦の影響で若手が育たなかった。その後は、1966年に自国で開催したイングランド大会で、ボビー・チャールトンらの活躍で初優勝を成し遂げた。それ以後は、1990年イタリア大会で4位となっているが、国際舞台での大きな活躍はない。1996年はヨーロッパ選手権を開催してビッグタイトル獲得を目ざしたが、準決勝でドイツにPK戦で敗れた。国内リーグはプレミアリーグとよばれ、マンチェスター・ユナイテッドをはじめ、アーセナルリバプールなど、歴史と実績を兼ね備えた多くのクラブが所属する。

[西部謙司]

スペイン

国内最高峰リーグのリーガ・エスパニョーラは、イタリアのセリエA、イングランドのプレミアリーグとともに、世界でもっともハイレベルかつ注目を集めている。レアル・マドリードFCバルセロナは世界でも有数のビッグクラブである。レアル・マドリードは8回ヨーロッパチャンピオンに輝き、バルセロナもヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ優勝こそ1回だが、UEFAカップ、カップウィナーズ・カップと、ヨーロッパの有名なカップ戦すべてに優勝している。最近は、バレンシアが2000、2001年と連続でUEFAチャンピオンズ・リーグ(かつてのヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ)で準優勝するなど、クラブレベルではサッカー大国となっている。しかし、代表チームの成績はいまひとつである。タイトルは1964年のヨーロッパ選手権だけで、自国開催の1982年ワールドカップでさえ、二次リーグ進出までであった。内戦を経験したスペインでは、国家よりも地域、民族的なつながりが強く、代表チームに対する国民の関心の低さが不振の原因ではないかといわれる。古くは名ゴールキーパー(GK)のサモラRicardo Zamora(1901―1978)、1960年にヨーロッパ最優秀選手賞をとったルイス・スアレスLuis Suárez(1935―2023)を生み、現在もラウル、グァルディオラJosep Guardiola(1971― )などの名選手を輩出している。

[西部謙司]

ドイツ

第二次世界大戦後、東西に分かれたドイツであるが、ブラジルと並ぶ強豪国に成長したのが西ドイツであった。戦後初出場となった1954年ワールドカップ・スイス大会で優勝。決勝で対戦したハンガリーは「マジック・マジャール」とよばれた優勝候補最右翼で、グループリーグでは3対8と完敗していた。しかし、決勝では主将フリッツ・バルターFritz Walter(1920―2002)をはじめ、ストライカーのヘルムート・ラーンHelmut Rahn(1929―2003)などが活躍、3対2と逆転勝利を収めた。1964年に国内リーグのプロ化に踏み切り、ブンデスリーガを発足させた。それを機に、フランツ・ベッケンバウアー、ゲルト・ミュラーGerd Müller(1945―2021)らの世代が台頭し、ワールドカップでは1966年イングランド大会で準優勝、1970年メキシコ大会3位、1974年に自国開催した西ドイツ大会ではオランダを降して優勝。1990年イタリア大会では、1974年大会でキャプテンであったベッケンバウアーが監督としてチームを率いて通算3回目の優勝を成し遂げた。ヨーロッパ選手権でも1972、1980年に優勝。クラブレベルでもバイエルン・ミュンヘンが四度のヨーロッパチャンピオンになるなど、輝かしい実績をあげている。1990年に東西ドイツが統一されてからは、1996年のヨーロッパ選手権を制した。若手の伸び悩み、代表チームの不振が取りざたされているものの、2006年はワールドカップの開催国でもあり、復活を期している。

[西部謙司]

フランス

ワールドカップの創設に尽力したジュール・リメJules Rimet(1873―1956)、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップの開始に奔走したガブリエル・アノGabriel Hanot(1889―1968)はともにフランス人である。国際サッカー連盟(FIFA)の創立を訴えたのもフランスであり、近代サッカーの組織づくりにおいて大きな役割を果たしている。しかし、国際舞台でのビッグタイトル獲得は1984年に自国で開催したヨーロッパ選手権優勝が初めてであった。クラブレベルでも、1993年にオリンピック・マルセイユがヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ優勝を果たすが、クラブの会長ベルナール・タピBernard Tapie(1943―2021)による国内リーグでの八百長試合が発覚し、タイトルを剥奪(はくだつ)された。1970年代から本格化したユース育成機関の整備によって、才能ある選手を生み出すようになり、それが1998年自国開催のワールドカップでの優勝、続く2000年ヨーロッパ選手権優勝に結びついた。さまざまな人種、民族が同居するフランスらしく、1958年スウェーデン大会3位の原動力だったレイモン・コパRaymond Kopa(1931―2017)はポーランド系、1980年代のスーパースター、ミッシェル・プラティニはイタリア系、ジネディーヌ・ジダンはアルジェリア移民の子である。

[西部謙司]

オランダ

1960~1970年代にアヤックス、フェイエノールトの国内二大クラブが、相次いでヨーロッパのカップ戦で活躍、このクラブチームの台頭に引っ張られる形で、オランダ代表も世界の強豪国の仲間入りをした。ワールドカップには、1934、1938年と参加していたが、第二次世界大戦後は1974年西ドイツ大会が初出場であった。主将ヨハン・クライフに率いられ、「トータルフットボール」とよばれた革命的な戦略で大会を席巻した。決勝で地元の西ドイツに1対2と逆転負けを喫したが、世界に与えた影響は大きかった。1978年アルゼンチン大会も決勝へ進んだが、やはり開催国のアルゼンチンに1対3で敗れた。その後、しばらく低迷期があったが、1988年ヨーロッパ選手権でルート・フリットRuud Gulit(1962― )(グーリット)、フランク・ライカールトFrank Rijkaard(1962― )、マルコ・ファンバステンMarco Van Basten(1964― )らの新しい世代が現れ、初のメジャータイトルを獲得した。その後もつねに好選手を輩出しているが、ワールドカップでは1998年大会も4位にとどまっている。優勝が期待されたベルギーと共同開催の2000年ヨーロッパ選手権も準決勝でイタリアに敗退、2002年ワールドカップも予選大会で敗退した。しかし、正確なパスワークを身上とするテクニカルなスタイルはつねに高い評価を受けている。

[西部謙司]

ポルトガル

1914年にリスボンとポルトの協会が合併する形でポルトガルサッカー協会を設立。ポルトガルサッカーが注目されたのは、1960年代にリスボンのクラブチーム、ベンフィカが活躍してからであった。アフリカのモザンビーク出身のプレーメーカー、マリオ・コルーナMario Coluna(1935―2014)を擁して1961、1962年のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップを連覇。初開催から1960年の第5回大会までは、スペインのレアル・マドリードが連続優勝していたので、レアルの牙城を初めて崩したチームとなった。このベンフィカのメンバーを中心に代表チームを編成して臨んだ1966年ワールドカップ・イングランド大会では、初出場ながら3位という快挙を成し遂げた。エースストライカーはモザンビーク出身のエウゼビオEusébio Ferreira da Silva(1942―2014)。強烈なシュート力を誇り、大会得点王にも輝いた。二度目のワールドカップ出場は1986年メキシコ大会であった。フォワード(FW)パウロ・フットレPaulo Futre(1969― )を中心としたチームであったが、グループリーグで敗退した。しかしクラブレベルでは1987年にベンフィカのライバルチーム、FCポルトがヨーロッパ・チャンピオンズ・カップに優勝。代表チームは1989、1991年にはワールドユース選手権大会で連覇を成し遂げ、そのとき黄金のジェネレーションといわれたルイ・コスタ、ルイス・フィーゴ、フェルナンド・コウトFernando Couto(1969― )らが、中心となってからは1996、2000年のヨーロッパ選手権に出場し、2000年はベスト4に進出した。期待された1994、1998年のワールドカップ決勝大会出場は逃したが、2002年は、予選大会でのアイルランド、オランダとの激闘を制して三度目の決勝大会出場を果たしている。

[西部謙司]

その後の動き

イタリア代表は2006年のワールドカップで優勝し優勝回数を4回としている。

 レアル・マドリードは2001~2002年シーズンにUEFAチャンピオンズ・リーグで優勝し、九度目のヨーロッパチャンピオンになっている。バルセロナは2005~2006年シーズンにUEFAチャンピオンズ・リーグで優勝し、二度目のヨーロッパチャンピオンになった。

 ポルトガルは、2004年のヨーロッパ選手権で準優勝、2006年のワールドカップでは40年ぶりのベスト4進出を果たした。

[編集部]

『クリストファー・ヒルトン著、野間けい子訳『欧州サッカーのすべて』改訂増補版(1998・大栄出版)』『後藤健生著『ヨーロッパ・サッカーの源流へ』(2000・双葉社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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