4年ごとに開催されるサッカーの世界選手権。国際サッカー連盟(FIFA(フィファ))が主催し、その加盟協会の代表チームによって争われる。
[大住良之]
FIFA傘下の6地域連盟ごとの「予選大会」と、それを勝ち抜いた32チームによる「決勝大会」からなる。「決勝大会」は、オリンピックの中間年に、開催国を毎回変えて行われる。
2003年には205の国あるいは地域がFIFAに加盟していたが、そのうち196協会が2006年決勝大会にエントリーし、開催国のドイツを除く195か国が予選に参加した。3年間にわたって行われた予選の総試合数は847、総観客数は約1866万人。決勝大会は、2006年6月9日から7月9日までドイツ国内の12会場を舞台に開催され、イタリアが4回目の優勝を飾った。総試合数64。総観客数335万9439人(1試合平均5万2491人)。テレビの延べ視聴者数は約300億人と推定されている。
決勝大会は二つのステージに分けて行われる。「一次リーグ」では、出場32チームを4チームずつ8グループに分けて1回戦総当りリーグ戦を行う。そして各グループ上位2チーム、計16チームが次のステージ、勝ち抜き方式の「決勝トーナメント」に進む。
一次リーグでは、勝利に3、引き分けに1の勝ち点が与えられ、(1)総勝ち点、(2)得失点差(総得点-総失点)、(3)総得点の順で順位を決定する。(3)まで同じ場合には当該チームどうしの対戦成績((1)から(3)までを順に適用)で順位をつけ、さらに決まらない場合には抽選を行う。
決勝トーナメントは、90分を終わって同点の場合には30分間(15分ハーフ)の延長戦を行い、延長戦で決着がつかなかった場合には、ペナルティー・キック(PK)戦で次のラウンドに進出するチームを決定する。決勝戦も、120分間を終わって同点の場合には、PK戦で優勝チームを決定する。
優勝チームには、持ち回りの「FIFAワールドカップ」が授与される。このカップは、表彰式終了後にFIFAに返却され、レプリカが渡される。
従来、ワールドカップには賞金はなかったが、2006年ドイツ大会から総額3億スイスフラン(約270億円)の賞金が設定された。優勝チームには2450万スイスフラン(約22億0500万円)、一次リーグ敗退の16チームにも、それぞれ600万スイスフラン(約5億4000万円)の賞金が出た。
2010年大会は南アフリカ、2014年大会はブラジル、2018年大会はロシアで開催された。2022年大会はカタールで開催されることが予定されている。
[大住良之]
フランスを中心としたヨーロッパの7か国が1904年にFIFAを設立したとき、その第一の目的は「国際選手権」を開催することであった。ただ当時は、各国代表チームの大会ではなく、各国の国内チャンピオンクラブを集めた大会が構想されていた。しかし、この構想は実現しなかった。1905年に大会規約を決めて参加国を募ったが、申し込みは皆無であった。設立まもないFIFAは、強力なリーダーシップも、大会を開催するための資金的裏づけもなかったのだ。そのうちに第一次世界大戦が始まり、ヨーロッパ全土が戦火に包まれてしまった。
第一次世界大戦後、1921年に第3代のFIFA会長に就任したフランス人ジュール・リメJules Rimet(1873―1956)は、1924年のオリンピック・パリ大会で南米の小国ウルグアイが優勝するのをみて、「懸案の世界選手権が南米で開催できるかもしれない」と直感した。リメが考えたのは、プロが参加できる代表チームによる世界選手権であった。それまでも、独自に選手権を開催できないFIFAでは、「オリンピックを世界選手権として認めてはどうか」という議論が繰り返し行われた。しかしオリンピックには、プロは出場できず、それでは、真の世界選手権といえない。リメはスポーツ人というより外交官であった。彼は精力的に各方面を説得して回り、1928年にアムステルダムで開催された総会で「FIFAの全加盟国が参加する大会を1930年に開催する」ことを決めた。この年のうちに大会の正式名称が「ワールドカップ」と決められた。
1929年にバルセロナで開催された総会では、大会の骨子が了承され、第1回大会の開催国が選ばれた。6か国の立候補があったが、1930年に独立100周年を迎えるウルグアイがその祝賀行事の一環として大会を開催したいという提案を出し、他の候補国が立候補を取り下げ、全会一致でウルグアイ開催が決まった。しかし実際に大会が近づくと、ヨーロッパ各国は尻込みをするようになった。リメは自ら各国を説得して歩き、ようやくベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの4か国が参加を了承した。ヨーロッパ各国が出場を渋ったのは、当時の交通機関の問題があった。大西洋を渡る旅客機の定期便はなく、チームは2週間の船旅が必要だったからである。それは冒険であるだけでなく、大会期間と準備期間、そして往復の船旅をあわせて1か月半にもなる休暇をとることのできる選手を20人も集めることは至難の業であった。
1930年6月21日に南フランスのビルフランシュ港を出発した「コンテ・ベルデ号」の船上には、ヨーロッパから参加した4チームの選手団と、黄金の優勝カップをだいじに抱えたリメの姿があった。こうして、ワールドカップはようやく船出した。
[大住良之]
出場13チーム、予選はなし。すべてモンテビデオ市内の3会場で、7月13日から7月30日まで開催。FIFAは16チームでの大会を計画したが、ヨーロッパから棄権が相次ぎ、13チームで開催された。4グループに分けて一次リーグを行い、各組首位のチームが準決勝に進出、3位決定戦は行われなかった。優勝はウルグアイ。全部で18試合が行われ、70ゴールが記録された。得点王はギジェルモ・スタビレGuillermo Stábile(1906―1966)(アルゼンチン、8得点)。総観客数は43万4000人、1試合平均2万4111人であった。
7月13日、記念すべきワールドカップ第1戦はポシートス・スタジアムで行われた第1組のフランス対メキシコで、フランスが4対1で勝った。大会第1号ゴールは、フランスのルシアン・ローランLucien Laurent(1907―2005)が決めた。
フランス、メキシコ、チリ、アルゼンチンが組んだ第1組では、2年前の1928年オリンピックで準優勝したアルゼンチンが圧倒的に強かった。フランスに1対0、メキシコに6対3、チリに3対1と3連勝で準決勝に進んだ。
ユーゴスラビア、ブラジル、ボリビアで構成された第2組ではユーゴスラビアが首位を占めた。ブラジルは白人選手だけのチームで、まだ力強さが足りなかった。
第3組の首位は地元ウルグアイ。7月18日、まだ完全に完成していないセンテナリオ・スタジアム(2月に建設工事が始まり、24時間態勢の突貫工事で、ようやくこの日使えるようになった)に登場したウルグアイはペルーを1対0で破り、ルーマニアにも4対0で勝った。
第4組では、思いがけない国が首位を占めた。ベルギーとパラグアイを3対0で降したアメリカである。このころアメリカでは小さなサッカーブームが起こっており、イングランドやスコットランドのプロ選手が渡米して活躍していた。当時、FIFAから脱退していたが、イングランドは文句なしに世界最強とみられていた。そうした国の二流、三流の選手でも、これくらいの力はもっていたのだ。
しかし準決勝では、アメリカの力は通用しなかった。アルゼンチンに1対6で敗れたのだ。もう一つの準決勝も同じ6対1で、ウルグアイがユーゴスラビアを降した。
7月30日、決勝戦は前半アルゼンチンが2対1とリードしていた。しかし後半に入ると、ウルグアイが3連続ゴールを決め、4対2で逆転勝ちをおさめ、10万の大観衆が熱狂するなか、「初代世界チャンピオン」の座についた。
[大住良之]
エントリーは32か国。初めて予選大会が行われ、開催国イタリアも出場した(次の大会から、開催国と前回優勝国は予選を免除される)。決勝大会は5月27日から6月10日までローマなど8都市の会場で開催され、16チームが出場、1回戦から勝ち抜きノックアウト方式で行われた。優勝はイタリア(初)。引分け再試合を含めて全部で17試合が行われ、70ゴールが記録された。得点王はオルドリッチ・ネイエドリーOldřich Nejedlý(1909―1990)(チェコスロバキア、5得点)。総観客数は39万5000人、1試合平均2万3235人であった。
この大会は「ムッソリーニの大会」として知られる。世界的な大不況のなかで、イタリアが新設のスタジアムを含む8会場も用意して大会を迎えたのは、自身熱烈なサッカーファンであったという総統ムッソリーニがファシズム国家のPRを兼ねて開催することを決定したからである。新しくトリノにつくられた7万人収容のスタジアムには「ムッソリーニ」という名前がつけられ、また決勝戦が行われたローマのスタジアム名は「PNF(国民ファシスト党)」であった。
地元イタリアは1回戦でアメリカに7対1で大勝したものの、準々決勝でスペインの伝説的なゴールキーパー(GK)リカルド・サモラRicardo Zamora(1901―1978)の好守にあって1対1で引分け、翌日の再試合でようやく1対0の勝利を得た。準決勝で優勝候補の筆頭とみられていたオーストリアを1対0で降し、決勝戦では延長のすえチェコスロバキアに2対1で逆転勝ちして優勝を飾った。
[大住良之]
エントリーは37か国。予選大会を経て16チームの出場が決まったが、決勝大会前にオーストリアがドイツに併合され、代替国がみつからないまま15チームで、6月4日から19日まで、パリをはじめとした9都市で開催された。前回と同様、1回戦からノックアウト方式で行われ、優勝はイタリア(2回目)であった。18試合が行われ、84ゴールが記録された。得点王はレオニダスLeônidas da Silva(1913―2004)(ブラジル、8得点)。総観客数は48万3000人、1試合平均2万6833人だった。
日本が初めてエントリーしたが、オランダ領東インド(現、インドネシア)との予選を前に、日中戦争の勃発(ぼっぱつ)で棄権を余儀なくされた。
併合したオーストリアの選手を加えたドイツが強いかと思われたが、1回戦でスイスに敗れた(1対1、再試合2対4)。ブラジルが得点王になったレオニダスの活躍で勝ち上がり、準決勝でイタリアに1対2で敗れたものの、初めて3位という好成績を残した。
タイトルホルダーのイタリアは、監督ビットリオ・ポッツォVittorio Pozzo(1886―1968)はかわらなかったが、チームは大幅に若返り、数少ない前大会からの生き残りである主将ジュゼッペ・メアッツァGiuseppe Meazza(1910―1979)のリードに若いチームがよく走って勝ち上がり、決勝戦では、ハンガリーに4対2で勝ち、連続優勝を成し遂げた。ポッツォ監督は、ワールドカップ史上、2回の優勝を経験したただ一人の監督となった。
[大住良之]
第二次世界大戦による12年間の中断を経て、1950年6月24日から7月16日まで、リオ・デ・ジャネイロをはじめとした6都市で開催された。エントリーは34か国、16チームが出場権を得たが、スコットランドとトルコが最初に棄権した。FIFAはフランスとポルトガルに出場を要請し、フランスだけが承諾したが、組分けが決まってからフランスは経費がかかりすぎると出場を辞退、さらにインドも棄権を通達した。インドが棄権した理由は、FIFAが全チームにサッカーシューズをはくことを義務づけたためであった。当時のインドでは、はだしでプレーする選手が数多くいたのだ。
結局出場は13チームで、4グループに分けて一次リーグを行い、各グループ首位の4チームで決勝リーグを行うという、大会史上唯一、決勝戦が行われない形がとられた。優勝はウルグアイ(2回目)。総試合数は22、総得点は88。得点王はアデミールAdemir Marques de Manazes(1922―1996)(ブラジル、9得点)。総観客数は初めて100万人を突破し133万7000人、1試合平均6万0773人であった。1930年に製作された優勝カップは、この大会から「ジュール・リメ杯」という名称になった。
1組はブラジルなど4チーム、2組には、初めてワールドカップに参加したイングランドのほか、スペイン、チリ、アメリカが入った。3組は前回チャンピオンのイタリアなど3チーム、そして4組は、ウルグアイとボリビアの2チームだけというアンバランスな組分けとなった。
第1回大会のセンテナリオ・スタジアム(ウルグアイ)をはるかに上回る20万人収容のマラカナン・スタジアムをリオ・デ・ジャネイロに建設したブラジルは、2勝1分けで楽々と一次リーグを突破。3組ではイタリアがスウェーデンに敗れるという波乱があったが、4組ではウルグアイがボリビアを8対0で降して決勝リーグ進出を決めた。
ワールドカップ史上最大といわれる番狂わせがあったのが2組であった。イングランドがアマチュアだけのアメリカに0対1で敗れたのだ。初めて出場したワールドカップで、イングランドは地元ブラジルと並ぶ優勝候補の筆頭にあげられていたが、スペインにも0対1で敗れ、屈辱とともに帰国した。
決勝リーグに入ると、ブラジルの強さが目だった。スウェーデンに7対1、スペインに6対1で勝ち、最終日のウルグアイ戦を迎えた。ウルグアイはスペインと2対2で引分け、スウェーデンには3対2と勝っていた。ブラジルは引分けさえすればよい。0対0で迎えた後半、ブラジルが1点を先制したときには、優勝を疑う者はいなかった。しかしウルグアイはスキアフィーノJuan Alberto Schiaffino(1925―2002)が同点ゴールを決め、終了10分前にはギッジャAlcides Ghiggia(1926―2015)が逆転のゴールを決めてしまった。そのまま試合は終了し、ウルグアイの2回目の優勝が決まった。23万人は入っていたといわれるマラカナン・スタジアムは、墓場のように静まったままであった。
[大住良之]
45か国がエントリー。決勝大会は6月16日から7月4日までベルンなど6都市で開催された。出場は16チーム。4チームずつ4グループで一次リーグが行われ、各組上位2チームが準々決勝以降の決勝トーナメントに進出する方式がとられた。ただし一次リーグは、各チーム2試合ずつしか行わないという変則リーグであった。優勝は西ドイツ(初)。26試合が行われ、140ものゴールが記録された。1試合平均5.38ゴールは歴代最多記録。得点王はシャンドル・コチシュSándor Kocsis(1929―1979)(ハンガリー、11得点)。総観客数は94万3000人、1試合平均で3万6269人であった。この大会で、初めてワールドカップのテレビ中継が行われた。
日本が2回目のエントリーを行い、初めて予選に参加したが、韓国に1対5、2対2の1分け1敗で敗退した。決勝大会初出場の韓国は一次リーグでハンガリーに0対9、トルコに0対7で敗れた。
優勝候補の筆頭は「マジック・マジャール」とよばれたハンガリー、4年間無敗でワールドカップに臨んだ。一次リーグでは西ドイツに8対3で大勝するなど、圧倒的な力をみせて準々決勝進出を決めた。しかしこの試合でキャプテンのフェレンツ・プスカシュFerenc Puskás(1927―2006)が負傷、暗雲がさした。準々決勝ではブラジルと「ベルンの戦争」とよばれる反則応酬の試合をして4対2の勝利、準決勝では前回優勝のウルグアイを延長のすえ4対2で降し決勝に進出したものの、ハードな試合の連続で疲労は明らかだった。
もう一つ、決勝戦に出てきたのは一次リーグでハンガリーに大敗した西ドイツであった。準々決勝でユーゴスラビアを2対0、オーストリアを6対0で降し、調子を上げてきていた。
ベルンで行われた決勝戦、ハンガリーはまだ完調でないプスカシュを起用し、前半8分までに2対0とリードした。しかしキャプテンのフリッツ・ワルターFritz Walter(1920―2002)に率いられる西ドイツはその後驚異の回復力を示し、前半のうちに同点に追いつき、後半39分にはヘルムート・ラーンHelmut Rahn(1929―2003)が逆転ゴールし、3対2で試合をひっくり返し、初優勝を成し遂げた。第二次世界大戦で敗戦国となり、1950年大会にはFIFAから除名されていたため出場できなかったドイツの優勝は、その戦後復興に力を与えることとなった。
[大住良之]
55か国がエントリー、決勝大会は16か国が出場してストックホルムをはじめとした12都市で6月8日から6月29日まで開催された。4チームずつ4組に分けて1回総当りの一次リーグを行い、各組上位2チームが準々決勝以降のノックアウト式トーナメントに進出する大会方式で、この方式は1970年大会まで続けられた。優勝はブラジル(初)。総試合数は35、126得点が記録された。得点王はジュスト・フォンテーヌJust Fontaine(1933―2023)(フランス、13得点=歴代最多記録)。総観客数は86万8000人、1試合平均2万4800人。日本はエントリーしなかった。
ブラジルと17歳のエース、ペレが話題をさらった。大会3試合目のソ連戦で初出場したペレは、準々決勝のウェールズ戦(1対0)で決勝ゴールを決め、準決勝のフランス戦(5対2)では3得点、そして決勝のスウェーデン戦(5対2)でも2得点した。ペレはブラジルに待望の初優勝をもたらすとともに、一躍世界のトップスターとなり、後に「サッカーの王様」とよばれた。ブラジルの「4-2-4」システム(選手の配置法の一つ。ディフェンダー4人、ミッドフィルダー2人、フォワード4人)は世界に大きな影響を与え、その後の戦術的発展の基礎となった。
「ワールドカップの父」ジュール・リメを生んだフランスが初めて上位に進出、レイモン・コパRaymond Kopa(1931―2017)のアシストでジュスト・フォンテーヌが大量得点して3位を占めた。しかしリメは2年前の1956年10月15日に亡くなっていた。
[大住良之]
56か国がエントリーし、16チームの決勝大会は5月30日から6月17日まで首都サンティアゴをはじめとした4都市で開催された。大会方式は前回と同じ。優勝はブラジル(2回目)。32試合で記録された得点は89。初めて1試合平均得点が2点台(2.78点)に落ちた。得点王にはババVava(本名エジバウド・イジディオ・ネトEdvaldo Izídio Neto、1934―2002)、ガリンシャGarrincha(1933―1983)(ともにブラジル)、フロリアン・アルバートFlórián Albert(1941―2011)(ハンガリー)、バレンチン・イワノフValentin Ivanov(1934―2011)(ソ連)、レオネル・サンチェスLeonel Sánchez(1936―2022)(チリ)、ドラザン・イェルコビッチDražen Jerković(1936―2008)(ユーゴスラビア)の6人が4得点で並んだ。総観客数は77万6000人、1試合平均で2万4250人であった。
日本のエントリーは3回目。しかし韓国に1対2、0対2で連敗した。その韓国も、ユーゴスラビアとの対戦で敗れて決勝大会に出場することはできなかった。
連覇をねらうブラジルは、第2戦でペレが負傷、苦しい状態となったが、ガリンシャがチームをリード、ペレの代役にたったアマリウドAmarildo(1939― )がだいじなところでゴールを決めて決勝に進出した。相手はチェコスロバキア。すばやいパスからチェコスロバキアが先制したが、ブラジルは前半のうちにアマリウドが同点ゴールを決め、後半にも2点を加えて3対1で逆転勝ち、王座を守った。
[大住良之]
74か国がエントリー、16チームによる決勝大会は、7月11日から7月30日まで、ロンドンをはじめとする7都市で開催された。大会方式は前回と同じ。日本はエントリーしなかった。優勝はイングランド(初)。全32試合で4年前のチリ大会とまったく同じ89ゴールが記録された。得点王はエウゼビオEusébio Ferreira da Silva(1942―2014)(ポルトガル、9得点)。総観客数は161万4677人、1試合平均で5万0459人を記録した。初めて衛星中継で世界にテレビの生放送が行われた大会で、ワールドカップ発展の重要な転機となった。
ブラジルの3連覇なるかが注目されたが、ペレが悪質なファウルにねらわれて負傷し、ハンガリーとポルトガルにともに1対3で敗れて一次リーグで姿を消した。
1950年のアメリカ対イングランドに匹敵する番狂わせといわれたのが、4組の北朝鮮対イタリア。優勝候補の一角とみられていたイタリアに対し北朝鮮が、朴斗翼(パクドゥイク)(1942― )のゴールで1対0の勝利を収めた。ソ連に次いでグループ2位となった北朝鮮は、準々決勝でポルトガルと当たり、前半22分までに3対0とリードを奪ったが、その後エウゼビオに4点を許して3対5で逆転負けとなった。しかし「アジアの力」を強く印象づけた。
監督アルフ・ラムゼイAlf Ramsey(1920―1999)に率いられたイングランドは、ミッドフィルダー(MF)ボビー・チャールトンとディフェンダー(DF)ボビー・ムーアという2人の傑出した選手をもち、手堅い試合で決勝までたどり着いた。相手は西ドイツ。西ドイツが先制し、イングランドが追いつき、後半33分に逆転に成功したが、終了数十秒前に西ドイツが追いつき、延長戦となった。その前半延長11分、イングランドのジェフ・ハーストJeoff Hurst(1941― )が放ったシュートは西ドイツゴールのクロスバー下面を叩いて真下に落ちた。すぐに西ドイツDFがクリアしたが、スイス人レフェリーのゴットフリート・ディーンストGottfried Dienst(1919―1998)は線審と協議のすえイングランドのゴールを認めた。現在も論議が続く「疑惑のゴール」事件だった。試合は延長終了直前にハーストが1点を追加し、4対2でイングランドの優勝となった。イングランドの最初の同点ゴールも決めていたハーストは、決勝戦でハット・トリック(1試合3得点)をした唯一の選手となった。
[大住良之]
初めて南米あるいはヨーロッパを離れた大会。75か国がエントリー、16チームが出場した決勝大会は、メキシコ市をはじめとした5都市で、5月31日から6月21日まで開催された。大会方式は前回と同じ。優勝はブラジル、3回目の優勝で、1930年大会から持ち回りだった「ジュール・リメ杯」を永久保持する権利を得た。全32試合で97のゴールが生まれた。得点王はゲルト・ミュラーGerd Müller(1945―2021)(西ドイツ、10得点)。総観客数は167万3975人、1試合平均5万2312人だった。この大会から、警告にイエローカード、退場にレッドカードというシステムが導入された。
日本はアジア・オセアニア地区の一次予選で1対3オーストラリア、2対2韓国、1対1オーストラリア、0対2韓国と、2分け2敗に終わった。1968年のオリンピック・メキシコ大会銅メダルでワールドカップ初出場が期待されていたが、エースの釜本邦茂(かまもとくにしげ)が肝炎で戦列を離れたのが痛かった。ただ、大会後だいぶ時間がたってからであったが、ほぼ全試合が日本国内でもテレビ放映され、ワールドカップの魅力が初めて日本でも理解された歴史的な大会となった。
標高2300メートルというメキシコ市の高度と、ヨーロッパへのテレビ中継の関係で正午にキックオフされることが多かったため暑さが厳しく、ヨーロッパに定着しつつあったスピーディーなサッカーの足が止まった。スローな試合が多く、ブラジルのテクニックがさえた。
29歳のペレのほか、トスタンTostao(1947― )、ジャイルジーニョJairzinho(1944― )、リベリーノRoberto Rivelino(1944― )がフォワード(FW)ラインに並び、名MFジェルソンGérson de Oliveira Nunes(1941― )がサポートするブラジルの攻撃は絶好調で、チェコスロバキアに4対1、強敵イングランドに1対0、ルーマニアに3対2と3連勝して一次リーグを突破、準々決勝ではペルーを4対2、準決勝ではウルグアイに3対1、そして決勝戦ではイタリアに4対1と快勝、6連勝で3回目の優勝を飾った。全勝での優勝は、ワールドカップの歴史上、この大会のブラジルただ一つである。
[大住良之]
エントリー国が99に達した。出場は16チーム。4グループでの一次リーグの後、4チームずつ2グループに分けて二次リーグ、その1位どうしで決勝戦を行うという新しいシステムがとられた。決勝戦まで進むと、これまでの6試合より1試合多い7試合になり、大会期間も6月14日から7月7日までの24日間と、それまでで最長となった。優勝は西ドイツ(2回目)。会場はミュンヘンをはじめとした10都市。過去最多の38試合が行われ、97ゴールが記録された。得点王はグジェゴシ・ラトGrzegorz Lato(1950― )(ポーランド、7得点)。総観客数は177万4022人、1試合平均4万6685人であった。この大会から、FIFA提供の新しい優勝トロフィー、「FIFAワールドカップ」が使われるようになった。
日本はアジア・オセアニア予選に出場、組分け戦でイスラエルに1対2で敗れた後、ベトナムに4対0、香港(ホンコン)に0対1と1勝1敗の後、グループの準決勝でイスラエルに0対1で敗れた。この大会は決勝戦が初めて日本に生中継(東京12チャンネル、現テレビ東京)され、残りの試合も放映された。
西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーとオランダのヨハン・クライフという2人のスーパースターがそれぞれのチームのキャプテンとして出場し、持ち味を発揮して盛り上がった。1938年大会以来36年ぶりの出場となったオランダは、クライフがリードする「トータル・フットボール」で大会に旋風を巻き起こし、圧倒的な強さをみせて決勝戦に進出した。
一方の西ドイツは、一次リーグでは東ドイツに敗れるなどもたついたが、二次リーグに入るとリズムを取り戻し、ユーゴスラビアに2対0、スウェーデンに4対2、そしてポーランドに1対0で勝って決勝戦に進んだ。
西ドイツとオランダの決勝戦、オランダは開始わずか1分でPKを得て1点を先制したが、西ドイツもPKで追いつき、前半43分、ゲルト・ミュラーが逆転ゴールを決めて2対1で勝利を収めた。ミュラーは1970年大会とあわせて通算14ゴールとなり、大会の最多得点記録となった。
[大住良之]
エントリーが100を超え、107か国に達した。決勝大会は16チームで、前回と同じ方式で開催された。期間は6月1日から25日、ブエノス・アイレス(2会場)を中心に、5都市6会場が舞台となった。優勝はアルゼンチン(初)。38試合で102得点が記録された。得点王はマリオ・ケンペスMario Alberto Kempes(1954― )(アルゼンチン、6得点)。総観客数は161万0215人、1試合平均で4万2374人であった。
日本はアジア・オセアニア予選に出場、一次予選でイスラエルに0対2、0対2(連敗)、韓国に0対0、0対1で、1勝も1得点もあげられずに敗退した。この大会からNHKが中継を始めた。
軍事政権下にあったアルゼンチンでの大会で、セキュリティー面の心配があったが、何事もなく開催された。クライフもベッケンバウアーも出場しない寂しい大会となったが、地元アルゼンチンが熱狂的な声援に支えられて勝ち上がった。
決勝戦に出てきたのはオランダ。クライフを欠いて試合運びは苦しかったが、アリー・ハーンArie Haan(1948― )の強烈なロングシュートでイタリアを破り、2大会連続の決勝進出を果たした。
前半にアルゼンチンが先制して後半にオランダが追いつき、決勝戦としては12年ぶりに延長戦に突入。その前半にケンペスが勝ち越しゴールを決め、後半にも1点を追加したアルゼンチンが3対1で初優勝を決めた。
[大住良之]
エントリーは109か国。決勝大会の出場枠が24に拡大され、アジア・オセアニアにも2枠が与えられた。大会期間は6月13日から7月11日の29日間と過去最長になった。マドリード(2会場)をはじめとした14都市17会場が舞台となった。24チームを4チームずつ6グループに分けて一次リーグを行い、その上位2チーム、計12チームを3チームずつ4グループに分けて二次リーグ、各組の1位チームで準決勝、決勝を争うという大会方式であった。優勝はイタリア(3回目)。全52試合で146ゴールが記録され、得点王はパオロ・ロッシPaolo Rossi(1956―2020)(イタリア、6得点)。総観客数は185万6277人、1試合平均3万5698人であった。この大会は、ワールドカップに本格的なコマーシャリズムが入った大会でもあった。場内広告看板の独占的なセールスで、FIFAは大きな収入を得た。
日本はアジア・オセアニア地区の一次予選に出場、組分け予備戦でシンガポールに1対0で勝った後、サブグループで中国に0対1、マカオに3対0で準決勝に進出、北朝鮮に0対1で敗れた。
大会で注目されたのはブラジルとフランス。ともにMFに好選手を並べ、圧倒的なゲーム支配力をみせた。ブラジルはジーコ、フランスはプラティニが中心であった。
しかし思わぬ伏兵が現れた。一次リーグでは0対0ポーランド、1対1ペルー、1対1カメルーンと3引分けに終わり、かろうじてグループ2位で二次リーグに進出したイタリアが、二次リーグに入って突然チームがまとまり、アルゼンチン、ブラジルを連破したのだ。とくに、開幕から4試合無得点だったFWのロッシが、ブラジル戦で3得点の活躍をみせると、イタリアは波に乗り、準決勝ではまたもロッシの2得点でポーランドに2対0で勝った。ともに3回目の優勝をかけた西ドイツとの決勝戦でまたもロッシが先制点を決めて3対1で勝利し、大会後半に突然輝きをみせたロッシが大会のヒーローとなった。
ブラジルとともに大会を彩る攻撃をみせたフランスは、準決勝で西ドイツと延長戦3対3の熱戦を演じ、ワールドカップ史上初めてのPK戦決着で敗れた。
[大住良之]
コロンビア開催の予定であったが、経済状況の悪化で1983年に返上が決定され、代替開催国としてメキシコが選ばれた。エントリーは121か国。24か国を6組に分けた一次リーグの後は、各組上位2チームに3位のチームのなかから成績のよい4チームを加えた16チームでのノックアウト方式の「決勝トーナメント」となった。この方式は1994年大会まで継続される。メキシコ市(2会場)を中心に9都市12会場が使用され、5月31日から6月29日までの30日間で開催された。優勝はアルゼンチン(2回目)。52試合で132得点が記録され、得点王はガリー・リネカーGary Lineker(1960― )(イングランド、6得点)。総観客数は初めて200万人を突破し240万7431人、1試合平均は4万6297人であった。
オセアニア地区が南米とのプレーオフに回ったため、アジア単独となった2枠を東西に分けて争われた予選で、日本はあと一歩で初出場というところまでこぎつけた。一次予選をシンガポールに3対1、5対0、北朝鮮に1対0、0対0で乗り切った日本は、二次予選も香港に3対0、2対1と快勝、初出場をかけて韓国との対戦に臨んだ。しかし東京では木村和司(きむらかずし)(1958― )がフリーキック(FK)で1点を決めたものの1対2、ソウルでも0対1と連敗し、夢はかなわなかった。
しかし高田静夫(1947― )が1970年大会の丸山義行(よしゆき)(1931―2024)以来16年ぶりに大会審判に選ばれて参加、一次リーグD組のスペイン対アルジェリア戦で日本人として初めてのワールドカップ主審を務めた。
大会を席巻したのはアルゼンチンのディエゴ・マラドーナ。抜群のプレーでアルゼンチンを引っ張るとともに、自ら5得点を決めた。準々決勝のイングランド戦の2得点は大きな話題となった。1点目はジャンプしながらGKの頭上に左こぶしを出してパンチして入れたもの(「神の手」ゴール)、そして2点目は、自陣から相手選手5人を抜いて決めたワールドカップ史上最高の個人技のゴールであった。
決勝戦はアルゼンチンと西ドイツの対戦になり、アルゼンチンの2点のリードを後半に西ドイツがしぶとく追いついたが、最後はマラドーナのパスからホルヘ・ブルチャガJorge Luis Burruchaga(1962― )が抜け出して決め、3対2でアルゼンチンに優勝をもたらした。
[大住良之]
エントリーは116か国。24チームが出場した決勝大会は6月9日から7月8日までの30日間、ローマをはじめとした12都市で開催された。大会方式は前回と同じ。優勝は西ドイツ(3回目)。52試合で記録された得点は115、1試合平均2.21点は史上もっとも少なく、FIFAに、より攻撃的にするルール改正を急がせることになる。得点王はサルバトーレ・スキラッチSalvatore Schillaci(1964― )(イタリア、6点)。総観客数は251万7348人、1試合平均4万8411人であった。
日本はアジア一次予選に入り、ホームアンドアウェー方式で香港に0対0、インドネシアに0対0と2試合連続で引分けた後、東京で北朝鮮に2対1、インドネシアに5対0と連勝、しかし神戸で香港と0対0に終わったのが痛く、ピョンヤン(平壌)で北朝鮮に0対2で敗れて敗退した。高田静夫が2大会連続して審判に選ばれ、一次リーグ4組のユーゴスラビア対アラブ首長国連邦(UAE)戦で主審を務めた。
地元イタリアが「救世主」スキラッチのゴールで勝ち上がった。大会直前まで代表に入るかどうかさえ不確かであったスキラッチは、初戦のオーストリア戦に途中出場するとヘディングで決勝ゴールを決め、以後もコンスタントに得点を積み重ねた。しかしイタリアは準決勝でマラドーナが率いるアルゼンチンと1対1で引分け、PK戦のすえ敗退する。
もう一つ大きな話題となったのはカメルーンの活躍であった。開幕戦で王者アルゼンチンを1対0で降して世界に驚きを与え、グループリーグを首位で突破、決勝トーナメントでは延長戦のすえコロンビアを2対1で降し、準々決勝でイングランドにはやはり延長戦のすえ2対3で敗れたが、アフリカの力をみせつけた。なかでも38歳のロジェ・ミラRoger Milla(1952― )の活躍はすばらしかった。このカメルーンの活躍により、FIFAは1994年大会でアフリカからの出場枠を2から3に増やした。
決勝戦は西ドイツ対アルゼンチン。アルゼンチンは準決勝までのイエローカードの積み重ねで何人もの主力が出場停止処分となり、試合は圧倒的な西ドイツペースで進められた。後半39分にアンドレアス・ブレーメAndreas Brehme(1960―2024)がPKで決勝ゴールを決め、1対0で西ドイツが3回目の優勝を飾った。アルゼンチンは、ワールドカップ史上、決勝戦でノーゴールに終わった初めてのチームとなった。
[大住良之]
初めて「サッカーがナンバーワン・スポーツでない国」で行われた大会。エントリーは147か国に上り、24チームの出場で行われた決勝大会は6月17日から7月17日の31日間、ロサンゼルスをはじめとした全米の9都市で開催された。大会方式は前回と同じ。優勝はブラジル(4回目)、「FIFAワールドカップ」になってから初めての優勝だった。全52試合で141ゴールが記録され、1試合平均得点は2.71まで戻った。得点王はオレグ・サレンコOleg Salenko(1969― )(ロシア)とフリスト・ストイチコフHristo Stoitchkov(1966― )(ブルガリア)で、ともに6得点。サレンコはカメルーン戦1試合で5得点を決め、1試合最多得点の記録をつくった。総観客数は初めて300万人を突破し、358万7538人、1試合平均6万8991人と、ともにワールドカップ最多記録となっている。アメリカンフットボール用の巨大スタジアムを使用したためであった。
アジア一次予選は日本とアラブ首長国連邦(UAE)に分けて行われ、日本は1対0タイ、8対0バングラデシュ、5対0スリランカ、2対0UAE、1対0タイ、4対1バングラデシュ、6対0スリランカ、1対1UAEで完勝、6チームが参加して出場枠2を争う最終予選(カタールの首都ドーハ)に進んだ。サウジアラビアに0対0で引分けた後に、イランに1対2で敗れ危機に陥ったが、北朝鮮に3対0、韓国に1対0と連勝、最後のイラクに勝ちさえすれば、念願のワールドカップ初出場というところまできた。そして三浦知良(みうらかずよし)(1967― )と中山雅史(なかやままさし)(1967― )のゴールで2対1とリードして終盤までたどりついた。しかしロスタイムに入ってからイラクに右コーナーキック(CK)からつながれてヘディングシュートを許し、引分けに終わった。日本は「あと数十秒」で決勝大会出場のところまでこぎつけていたが、ロスタイムの失点で夢ならなかった(ドーハの悲劇)。
広大なアメリカ大陸を舞台とした決勝大会は、ブラジルがドゥンガCarlos Caetano Bledorn Verri(Dunga)(1963― )を中心とした堅実な守備とロマーリオRomário de Souza Faria(1966― )の得点力で勝ち上がり、決勝戦でイタリアと対戦した。どちらが勝っても4回目の優勝という興味深い対戦だったが、酷暑のなか、アメリカ大陸を横断しながら6試合を戦ってきた両チームは疲れきっており、双方とも得点を記録できずに0対0のまま120分間を終えた。ワールドカップ史上初めての決勝戦PK対決は、ブラジルが3対2で勝ち、優勝を決めた。決勝戦の両チームの疲労困憊(こんぱい)のようすをみて、FIFAは次回大会では大会期間を2日間延長することを決めた。
[大住良之]
174か国がエントリー、初めて32チームが決勝大会出場となった。4チームずつ8組の一次リーグ後は、各組上位2チームが決勝トーナメントに出場するシンプルな形になった。パリ郊外のサン・ドニを主会場に、10都市のスタジアムが会場として使われ、6月10日から7月12日まで、ワールドカップ史上最長の33日間で行われた。優勝はフランス(初)。64試合で171得点が記録された。得点王はダボール・シュケルDavor Šuker(1968― )(クロアチア、6得点)。総観客数は278万5100人。1試合平均4万3517人であった。
日本が初めてアジア予選を突破し、決勝大会出場権を獲得した。一次予選は1対0オマーン、10対0マカオ、6対0ネパール、10対0マカオ、3対0ネパール、1対1オマーン。最終予選では、初戦東京でウズベキスタンに6対3と大勝したものの、アブダビでUAEと0対0で引分け、韓国に東京で1対2の敗戦。アルマトイでカザフスタンと1対1で引分けて監督加茂周(かもしゅう)(1939― )が更迭され、岡田武史(おかだたけし)(1956― )コーチが監督に就任して残りの予選を戦った。タシケントでウズベキスタンに1対1、東京でUAEに1対1と苦しい展開が続いたが、ソウルで韓国に2対0で勝って息を吹き返し、東京に戻ってカザフスタンを5対1で降してグループ2位となり、イランとの「アジア第三代表決定戦」に臨んだ。会場はマレーシアのジョホール・バル。日本から2万人がかけつける熱狂のなか、2対2で延長に入り、その後半も残り2分になったときに中田英寿(なかたひでとし)がシュート、GKがはじくところを岡野雅行(おかのまさゆき)(1972― )が詰めて無人のゴールにプッシュ、3対2で勝って初出場を決めた。
日本はワールドカップ熱に冒され、1万人を超すファンがフランスへの応援ツアーに申し込んだが、旅行会社の多くがチケット詐欺にあって入場券を入手できず、ツアーの中止、あるいはフランスまで出かけながら試合を見ることができないなど、大きな社会問題となった。
日本はアルゼンチン、クロアチアに善戦しながらもともに0対1で敗れ、決勝トーナメント出場の望みのなくなったジャマイカ戦も1対2で敗れて、3戦全敗で初のワールドカップ決勝大会を終えた。GKは3試合とも川口能活(よしかつ)、日本のワールドカップ初得点は中山雅史であった。
この大会では、岡田正義(まさよし)(1958― )が大会主審に選ばれ、一次リーグG組のイングランド対チュニジア戦で笛を吹いた。
地元フランスが尻上がりに調子をあげ、ついに「準決勝の壁」を突破して決勝戦に進んだ。相手は「怪物」ロナウドを擁するブラジル。しかし決勝戦の直前にロナウドが体調不良になり、強行出場したもののフランスがジネディーヌ・ジダンの2得点を含む3得点を記録、3対0で勝って初優勝を飾った。
[大住良之]
初めてのアジアでの大会、そして初めての2か国共同開催による大会。エントリーは史上最多の198か国。32チーム出場の大会は、ソウルをはじめとした韓国の10都市と、横浜をはじめとした日本の10都市、計20都市で開催された。大会期間は5月31日から6月30日。総観客数は270万5197人、1試合平均4万2269人(韓国での32試合は1試合平均3万9580人、日本での32試合は4万4957人)であった。
優勝はブラジル。3大会連続の決勝進出で、優勝の最多記録を更新し、5回目の優勝を飾った。全64試合で161得点が記録された。1試合平均2.52得点。得点王は8得点を決めたブラジルのロナウドであった。
2002年の決勝大会は、出場32チームを8組に分け、AからD組が韓国、EからH組が日本を舞台に一次リーグを戦った。
前回優勝のフランスのほか、セネガル、ウルグアイ、デンマークが入ったA組では、5月31日にソウルで行われた開幕戦で前回王者フランスが初出場のセネガルに0対1で敗れるという波乱が起こった。続くウルグアイ戦は0対0の引分け。追い詰められたフランスは、2点差で勝たなければならないという厳しい状況でデンマーク戦に臨んだが、0対2の完敗。前回王者フランスは、1分け2敗、得点0という信じがたい成績ではやばやと大会を去った。首位デンマーク(2勝1分け)と2位セネガル(1勝2分け)の2チームが決勝トーナメントに進んだ。
B組ではスペインが圧倒的な強さをみせた。スロベニア、パラグアイ、南アフリカに3連勝。パラグアイと南アフリカが1勝1分け1敗で並んだが、総得点数でパラグアイがわずかに上回り、2位となった。
予選の不調で優勝候補にあげた人が少なかったブラジルは、C組最大の強敵トルコを初戦2対1で降し、さい先のよいスタートを切った。その後、中国を4対0、コスタリカを5対2で降し、3連勝で首位を確保。2位には、最終戦で中国を3対0で降して今大会初勝利を記録したトルコが入った。
地元韓国の入ったD組で注目されたポルトガルは、初戦アメリカに前半0対3と水を開けられ、後半追い上げたものの2対3で敗れた。ポーランドに4対0で勝ったものの、韓国と当たった最終戦では2人の退場者を出し、0対1で敗れて一次リーグで姿を消した。地元韓国は初戦ポーランドを2対0で降して波に乗り、圧倒的な声援に押されてアメリカと1対1、ポルトガルには1対0で勝って2勝1分け、首位で目標の決勝トーナメント進出を果たした。2位には、1勝1分け1敗のアメリカが入った。
日本で行われたE組では、ドイツがいきなりサウジアラビアに8対0で勝って優位にたった。このグループを沸かせたのはアイルランド。カメルーン、ドイツと、2試合連続で先制点を許しながら、いずれも追いついて1対1の引分けに持ち込み、最終戦のサウジアラビア戦は2対0で勝って2勝1分けのドイツに次いで2位を占めた。
優勝候補が集まり、「死のグループ」とよばれたF組。犠牲になったのは、大会前に多くの専門家から優勝候補最右翼といわれていたアルゼンチンであった。初戦、ナイジェリアを1対0で降したアルゼンチンだったが、一次リーグ最大の注目カード、イングランド戦を0対1で落とし、最後のスウェーデン戦では焦りから攻撃に正確さを欠き、1対1で引分けて3位にとどまった。スウェーデンとイングランドが1勝2分けで並び、総得点数で1位スウェーデン、2位イングランドとなった。
G組ではメキシコが質の高いサッカーで首位を占めた。クロアチアに1対0、エクアドルに2対1と連勝し、イタリアとの最終戦は余裕の引分けであった。2位にはイタリアが入った。
H組では日本がみごとな戦いで勝ち進んだ。
6月4日に埼玉スタジアム2002で行われた初戦、日本は前半、固さが目だち、後半に入ってベルギーに先制点を許した。しかしこのゴールは逆に日本の選手をプレッシャーから解き放った。わずか2分後の後半14分、MF小野伸二(おのしんじ)(1979― )が出したロングパスに走り込んだFW鈴木隆行(すずきたかゆき)(1976― )が相手DFとGKの一瞬のすきをついて同点ゴール。さらに後半22分には、MF稲本潤一(いなもとじゅんいち)がドリブルでもち込んでみごとな逆転ゴールを決めた。その後ベルギーに同点ゴールを許して2対2の引分けに終わったが、ワールドカップでの「勝ち点1」は日本のサッカーにとって歴史的なものとなった。そのうえに、この試合の後半のプレーは、選手たちに大きな自信を与えた。
ロシアとの第2戦は6月9日、横浜国際総合競技場(現、日産スタジアム)で行われた。相手は初戦のチュニジア戦を2対0で制して優位にたっており、日本にとっては決勝トーナメント進出をかけて絶対に勝ちたい試合。日本はベルギー戦でつかんだ自信をそのままロシアにぶつけた。後半6分、FKをうまくつないで左に回し、DF中田浩二(なかたこうじ)(1979― )が前線のFW柳沢敦(やなぎさわあつし)(1977― )に鋭いパスを入れると、柳沢はワンタッチで稲本にパス。足元にきたボールをうまくコントロールした稲本の正確なシュートがロシアゴールを破った。終盤、ロシアの猛攻を宮本恒靖(みやもとつねやす)(1977― )を中心にしたDFラインとGK楢崎正剛(ならざきせいごう)の好守で守りきった日本は、ワールドカップ初勝利をあげるとともに、一次リーグ突破へと大きく近づいた。
H組の最終戦は6月14日、大阪の長居スタジアムでのチュニジア戦。ベルギーとチュニジアが1対1で引分けたため、日本はチュニジアに1点差で負けても決勝トーナメント進出という絶対的に有利な立場にあった。この立場を生かして、日本は攻め急ぎをせず、ボールを支配して試合をコントロール下に置いた。そして後半、交代で投入した2選手の活躍で一挙に勝利を確定した。後半開始から入ったのはMF森島寛晃(もりしまひろあき)(1972― )とMF市川大祐(いちかわだいすけ)(1980― )。後半3分、ゴール前のこぼれ球にすばやく反応した森島が1点目をけり込むと、後半30分には右サイドをえぐった市川が正確無比なクロスを送ってMF中田英寿のみごとなヘディングシュートを導き出した。2対0で完勝した日本は、2勝1分け、勝ち点7、堂々とH組首位で一次リーグを突破した。2位には、ロシアを3対2で降したベルギーが入った。
決勝トーナメントの1回戦、日本がベスト8の座をかけてトルコと戦った。6月18日、宮城スタジアム。気温を急激に下げた試合前の激しい雨は小ぶりになったが、終始雨が降り続くなかで行われた。日本はFWのペアを入れ替え、三都主(さんとす)アレサンドロ(1977― )と今大会初出場の西澤明訓(にしざわあきのり)(1976― )を起用した。しかし立ち上がり、集中力のなさをつかれてCKからトルコのユミト・ダバラÜmit Davala(1973― )にヘディングで先制点を許した。
後半、日本は右アウトサイドに市川大祐、FWに鈴木隆行を入れ、終盤には攻撃的MFの森島寛晃も投入して攻め続けたが、トルコのゴールを破ることはできず、0対1のまま試合終了。目標であった「決勝トーナメント進出」を1位で果たした日本だったが、その1回戦で圧倒的にボールを支配して攻め込みながら追いつけなかった無念さも残った。
決勝トーナメント1回戦のそのほかの試合では、セネガルがスウェーデンに2対1(延長)、ドイツがパラグアイに1対0、イングランドがデンマークに3対0、アメリカがメキシコに2対0、ブラジルがベルギーに2対0で勝ち、スペインとアイルランドの対戦は1対1の引分けからPK戦となり、スペインが3対2で逃げ切った。韓国はイタリアと1対1から延長に突入する熱戦を演じ、延長後半にFW安貞桓(アンジョンファン)(1976― )がみごとなヘディングシュートを決めて2対1で勝ち、ベスト8に進んだ。
準々決勝最大の注目はイングランド対ブラジル。デンマークを3対0で降して昇り調子のイングランドが積極的な試合運びで先制し、優位に進めたが、暑さのなかしだいに消耗し、ブラジルがじわじわと押し返した。そして前半終了まぎわにリバウドのゴールで追いつくと、後半立ち上がりにロナウジーニョRonaldinho(1980― )が35メートルのFKを叩(たた)き込んで逆転に成功した。その直後にロナウジーニョが退場になって10人となったブラジルだったが、冷静なボールキープでイングランドにチャンスを与えず、そのまま2対1で逃げ切った。
ドイツ対アメリカは、ドイツのGKオリバー・カーンOliver Kahn(1969― )がパーフェクトな守備をみせてドイツに1対0の勝利をもたらし、セネガル対トルコは0対0のまま延長戦に突入、交代出場のトルコFWイルハン・マンシズIlhan Mansiz(1975― )がゴールデンゴールを決めた。そしてスペイン対韓国は、ともに前試合の延長戦の疲れを引きずって0対0の引分け。熱狂的な地元の声援に押された韓国がPK戦を5対3で制して、アジア初のベスト4の座をつかんだ。
準決勝の最初の試合は6月25日、ソウルでのドイツ対韓国。韓国全土で数百万人という人が「街頭応援」を繰り広げるなか、韓国は疲労困憊(こんぱい)のFW陣を一新してドイツを攻めたてた。ドイツはGKカーンを中心に慎重に守り、FKやCKのチャンスを生かそうというねらい。しかし洪明甫(ホンミョンボ)(1969― )、崔鎮喆(チェジンチョル)(1971― )、金泰暎(キムテヨン)(1970― )で組む韓国の守備も堅固で、0対0のまま試合は進む。ようやく均衡が破れたのは後半30分。右サイドを突破したFWオリバー・ヌビルOliver Neuville(1973― )のセンタリングをMFミヒャエル・バラックMichael Ballack(1976― )がシュート、韓国GK李雲在(イウンジェ)(1973― )がいったんは止めたが、リバウンドをふたたびバラックがシュート、それが決勝点となり、1対0でドイツが勝った。
翌日、埼玉スタジアムで行われたもう一つの準決勝はブラジル対トルコ。C組初戦の再戦だった。準々決勝でセネガルを破った試合のリズムをそのまま出して攻勢をかけるトルコ。一方のブラジルも、この大会に入って初めてチーム一体となっての攻守をみせ、大会最高の内容の試合となった。勝負をつけたのは、ブラジルの天才FWロナウド。後半4分、敵味方が密集するペナルティーエリアに左からドリブルで入ったロナウドは、一瞬のすきをついてトーキックでシュート。好守を続けていたトルコGKレクベル・リュシュトゥRecber Rüştü(1973― )は完全にタイミングを狂わされ、ボールはゴール右隅に入った。
6月30日、2002年FIFAワールドカップ韓国/日本大会は横浜国際総合競技場(現、日産スタジアム)で決勝戦を迎えた。
試合前は「ブラジルの攻撃対ドイツの守備」とみられていたが、ふたを開けてみるとドイツが積極的な攻撃に出てペースを握った。前半30分まで、試合を優位に進めたのはドイツだった。しかしその時間が過ぎると、しだいにブラジルがよい形でボールをもつようになり、ドイツゴールを脅かし始める。それを防いだのは、GKカーンであった。前半ロスタイム、ブラジルが左から入れたボールをドイツDFが止め損ね、ボールがロナウドの目の前に転がった。強烈な左足シュート。しかしカーンがかろうじて足ではじいた。前半は0対0のまま終了した。
後半ドイツ陣中央で相手からボールを奪ったロナウドがリバウドに短く渡してゴール前に走る。リバウド得意の左足から低く沈むシュート。名手カーンが前にボールをこぼした。そしてそれを予期するかのようにロナウドが走り込んできていた。右足でゴール右隅に送り込んでブラジルが先制。
さらに後半34分、右からクレベルソンKleverson(1979― )が持ち込み、中央にパス。これをリバウドがスルーする。その背後にいたロナウドが一瞬フリーになる。ロナウドは落ち着いてボールをコントロールし、右足のインサイドキックで正確なシュートをゴール右隅に送り込み、2対0と勝負を決定づけた。
大会前、評価の高くなかったブラジル。しかし1試合ごとに自信をつけ、チームがまとまった。大会のなかでどんどんチームがよくなり、パフォーマンスが上がっていったことが、優勝の最大の要因だった。どんな相手に対しても慎重に守備から入った監督ルイス・フェリペ・スコラリLuiz Felipe Scolari(1948― )の手腕も光った。
一方のドイツにとっても、まったく期待されていなかったこの大会での準優勝は満足すべき成績であった。主力の多くを負傷で自国に残してこなければならなかったフェラーRudi Völler(1960― )監督も、選手たちの奮闘を称えた。
運営の面では、1998年フランス大会に続き、人気過剰の大会でのチケッティングのむずかしさがふたたび浮き彫りになった大会でもあった。
サッカーの面では、「誤審問題」が大きくクローズアップされた。ワールドカップのサッカーのスピードについていけない主審や副審がいたのは確かで、審判員選抜方法の再検討、そして、1試合当りの審判員を増やすことなど、早急に解決しなければならない課題が明らかになった。
初めてアジアで、そして初めての共同開催で行われた第17回ワールドカップ。会場間移動の大変さは、多くの観客を悩ませたが、日本と韓国の人々のホスピタリティーと親切心、そして心からの笑顔がその疲れを吹き飛ばした。世界の人々は日韓両国での滞在を楽しみ、そしてサッカーを満喫した。
日韓両国の関係も、この共同開催を通じて大きく改善された。スポーツだけでなく、社会、経済、文化など、あらゆる面で交流が活発になり、日本と韓国の間に新しいパートナーシップが築かれた。
フランスやアルゼンチンなど優勝候補がはやばやと姿を消してやや寂しい大会にはなったが、2002年大会は大きな成功であった。
[大住良之]
ドイツ開催は1974年西ドイツ大会以来32年ぶり。1990年に東西統一がなされてからは初めての大会。12会場の一つには、旧東ドイツのライプツィヒも入った。6月9日ミュンヘンで開幕、7月9日ベルリンで決勝戦。堅固な守備でチーム一丸となっての戦いを展開したイタリアが、決勝戦で1対1のすえPK戦5対3でフランスを降し、4回目の優勝を飾った。
得点王はFWミロスラフ・クローゼMiroslav Klose(1978― )(ドイツ、5得点)。この大会で3得点を記録したブラジルのFWロナウドは、1998年大会4得点、2002年大会8得点と合わせて通算15得点となり、1970年大会と1974年大会で通算14得点を記録したゲルト・ミュラーの記録を抜いてワールドカップ最多得点の新記録をつくった。最優秀選手(MVP)はフランスのジダン。大会の総観客数は、335万9439人(1試合平均5万2491人)であった。
日本は1998年、2002年に続き3大会連続出場。アジアからの出場枠は4.5。全8組32チームによる一次予選の首位8チームが2組に分かれて最終予選を行い、それぞれの組の2位以内が出場権を獲得、3位どうしのプレーオフに勝ったチームが北中米カリブ海地域の4位チームとの間で最終プレーオフを行うことになった。
一次予選の相手は、オマーン、シンガポール、インド。実力面では日本が抜き出ているはずだが、ひとつの失敗も許されない戦いだけに緊張した試合が続いた。2004年(平成16)2月18日、埼玉スタジアムでの初戦は、オマーンの堅守に手こずり、0対0のまま引分けかと思われたが、交代出場のFW久保竜彦(たつひこ)(1976― )が決勝点を決めて1対0で勝利をつかんだ。
続く3月31日のシンガポール戦(アウェー)も大苦戦であった。前半圧倒的に攻めたものの得点は高原直泰(なおひろ)(1979― )の1点だけ。後半に入ると暑さで足が止まり、同点ゴールを許す。この苦境を救ったのはまたも交代選手だった。FW玉田圭司(たまだけいじ)が奪った左CKをFW鈴木隆行が競り、こぼれたところをMF藤田俊哉(としや)(1971― )がけり込んで決勝点とした。玉田、鈴木、藤田の3人は、いずれも後半の半ばに投入された交代選手だった。
2002年に就任したジーコ監督は、この試合まで、ヨーロッパのクラブに在籍する選手を中心にチームを編成してきた。しかしその選手たちがチームに合流できるのは試合の直前。彼らのコンディションに大きなばらつきがあったことも苦戦の原因であった。
しかし以後は安定した戦いが続いた。6月9日に埼玉スタジアムでインドを7対0で降すと、9月8日にはコルカタでふたたびインドに4対0の勝利、10月13日には、アウェーでオマーンを相手にみごとな試合をみせ、FW鈴木隆行の得点で1対0の勝利を収め、5連勝となって一次予選突破を決めた。シンガポールとの最終戦も、1対0で勝った。
翌2005年に行われた最終予選も、最初は厳しい戦いであった。2月9日、埼玉スタジアムでの北朝鮮との初戦は、MF小笠原満男(おがさわらみつお)(1979― )のFKではやばやとリードを奪ったものの、後半に思いがけない同点ゴールを許し、交代出場のFW大黒将志(おおぐろまさし)(1980― )がロスタイムに決勝ゴールを決めてかろうじて2対1の勝利をつかんだ。1年前の一次予選と同じような展開に、イラン、バーレーンという強豪と対戦しなければならない先行きが懸念された。
3月25日、テヘランに遠征してのイラン戦は1対2の敗戦。世界中で行われたこの大会の予選全847試合中最多の観客11万人を集めた試合、日本はよく戦い、後半にはMF福西崇史(ふくにしたかし)(1976― )のゴールで同点に追いついたが、初めての敗戦を喫した。しかしその5日後、ホームに戻り、埼玉スタジアムにバーレーンを迎えた試合では、相手のオウンゴールに救われ、1対0で貴重な勝利を得た。
4チーム中2位に入れば出場権を獲得できる最終予選。6月3日、アウェーでのバーレーン戦が大きな勝負の試合となった。その試合で、日本は攻守に最高のプレーをみせ、前半にMF小笠原満男が奪った得点を守って1対0で快勝した。
5日後の北朝鮮戦はタイのバンコクで開催された。3月にピョンヤンで行われたバーレーン戦、イラン戦で北朝鮮の観客がトラブルを起こしたため、FIFAが「中立地での無観客試合」を北朝鮮に命じたのである。この試合に引分けても出場権が獲得できる日本は、MF中田英寿、MF中村俊輔(しゅんすけ)ら多くの選手を出場停止で欠き、前半はリズムが出なかったが、後半にはいるとFW柳沢敦と大黒将志がゴールを決め、2対0で勝って世界でもっとも早く「予選突破」を果たした。
8月17日に横浜で行われたイランとの最終戦もMF加地亮(かじあきら)(1980― )とFW大黒将志の得点で2対1の勝利をつかんだ日本。苦戦、接戦が多かったものの、終わってみれば予選の通算成績は12戦して11勝1敗という非常にりっぱなものであった。
FIFAワールドカップ2006年ドイツ大会は6月9日に開幕。一次リーグA組では、開催国のドイツが圧倒的な強さをみせた。開幕戦でコスタリカを4対2で降すと、2試合目にはポーランドを相手に苦戦しながら後半ロスタイムにFWオリバー・ヌビルが決勝点を決めて1対0の勝利、2連勝で早くも決勝トーナメント進出を決めた。そして3試合目では、やはり2連勝して決勝トーナメント進出を決めていたエクアドルを3対0で降した。
B組を制したのはスターぞろいのイングランド。パラグアイ、トリニダード・トバゴの堅守に苦しめられたがなんとか連勝し、スウェーデンとは2対2で引分けた。初戦、退場で10人になったトリニダード・トバゴを攻め崩せず0対0で引分けたスウェーデンは、パラグアイと激戦を演じ、終了直前の得点で1対0の勝利をつかんで2位に入った。
「死の組」といわれたC組。しかしあっさりと勝負がついた。アルゼンチンは、初戦で初出場コートジボワールの反撃に苦戦したが2対1で逃げ切り、2試合目のセルビア・モンテネグロ戦ではこの大会64試合中1チームの最多得点で6対0と大勝した。初戦、セルビア・モンテネグロを1対0で破ったオランダも、2戦目でコートジボワールを2対1で降した。オランダとアルゼンチンの対戦は0対0の引分け。得失点差でアルゼンチンが首位を確保した。
ポルトガルが圧倒的な強さをみせたのがD組。初出場のアンゴラに1対0、イランに2対0、そしてメキシコに2対1で勝ち、3連勝で一次リーグを突破した。2位はイランを3対1で降したメキシコであった。
E組も厳しい組といわれたが、イタリアが2勝1分けで乗り切った。初戦、初出場のガーナに2対0で勝つと、続くアメリカ戦では退場者を出しながら1対1の引分けに持ち込み、元気のないチェコに2対0で快勝した。2位はガーナ。初戦こそ固さがみられたが、2試合目にチェコを2対0で撃破、3戦目にはアメリカに2対1で競り勝ち、アフリカのチームとしては唯一決勝トーナメントに進んだ。
日本はF組に入り、オーストラリア、クロアチア、ブラジルと対戦した。
6月12日、カイザースラウテルンで初戦を迎えた日本は、前半26分、MF中村俊輔の右からのクロスがGKのミスを誘いそのままゴールインする幸運な得点で先制した。その後もリズミカルにパスをつなぎ、試合を支配したが、後半に入ってオーストラリアが積極的な選手交代で攻勢に転じると、守勢となった。日本は後半14分にDF坪井慶介(つぼいけいすけ)(1979― )が両足をつらせるというアクシデントで交代枠の一つを使ってしまったことが大きく、ジーコ監督は思い切った手を打つことができなかった。GK川口能活、DF中澤佑二(なかざわゆうじ)を中心によく守っていたものの、後半39分、こぼれ球を叩(たた)き込まれて同点とされた。その直後に勝ち越しのチャンスがあったが、MF福西崇史のシュートはわずかに右に外れ、逆に44分、同点ゴールを決めたオーストラリアMFティム・ケーヒルTim Cahill(1979― )にミドルシュートを決められて逆転を許した。そしてロスタイムには3点目を失い、1対3というショッキングな敗戦を喫した。
必勝を期して臨んだ第2戦のクロアチア戦(6月18日、ニュルンベルク)は、中田英寿らのMF陣がミドルシュートを放つなど積極的に攻め込んだ。前半22分にはGK川口能活がPKをストップするなど、守備陣も奮闘した。しかしどうしても1点を奪うことができず、0対0で引分けた。この結果、決勝トーナメントに進むには、最後のブラジル戦を2点差以上つけて勝ち、しかもオーストラリア対クロアチア戦の結果待ちという苦しい状況となった。
ブラジル戦は6月22日、ドルトムント。立ち上がりのブラジルの猛攻をGK川口能活の好守でしのいだ日本は、前半34分にDF三都主アレサンドロのパスを受けて左に抜け出したFW玉田圭司が角度のないところからみごとなシュートを決め、希望をふくらませた。しかし前半ロスタイムにFWロナウドに同点ゴールを許し、後半立ち上がりにも連続失点を喫してあっという間に1対3と差を広げられた。後半36分にはロナウドにこの試合2点目を許し、1対4となって、日本のワールドカップ2006は終わった。
F組1位は3連勝のブラジル。2位には、最終戦でクロアチアと2対2で引分けたオーストラリアが入った。
G組ではフランスが前大会に続いて苦戦。スイス、韓国と引分け、瀬戸際で臨んだトーゴ戦でようやく2対0の勝利をつかんで2位に入った。首位は2勝1分けのスイスであった。前回4位の韓国は初戦でトーゴに2対1で勝ち、フランスとは1対1で引分ける健闘だったが、最終戦でスイスに0対2で敗れた。
H組で圧倒的な強さをみせたのがスペイン。初戦ウクライナに4対0で快勝すると、チュニジアに3対1、サウジアラビアに1対0と3連勝。2位には、初戦のショックから立ち直ってサウジアラビアに4対0、チュニジアに1対0と連勝したウクライナが入った。
決勝トーナメント1回戦で注目されたのは地元ドイツ対スウェーデン。ヨーロッパの強豪同士の対戦である。しかし勝負はあっさりとついた。立ち上がりの4分と12分にドイツのFWルーカス・ポドルスキLukas Podolski(1985― )が連続得点し、スウェーデンを突き放してしまったのだ。スウェーデンは後半立ち上がりに得たPKをFWヘンリク・ラーションHenrik Larsson(1971― )が失敗するなど、最後までいいところがなかった。その他の試合では、アルゼンチンが延長のすえメキシコを2対1で降し、イングランドがMFデイビッド・ベッカムDavid Robert Joseph Beckham(1975― )のFKであげた1点でエクアドルに1対0の勝利、退場者が4人も出た試合でポルトガルがオランダに1対0の勝利、イタリアは退場者を出しながらオーストラリアに1対0で辛勝、スイスとウクライナは両チーム得点できず、PK戦でウクライナが3対0の勝利、ブラジルはガーナに3対0で快勝、フランスがスペインを3対1で降した。
ヨーロッパ6チーム、南米2チームが残った準々決勝には好カードが多かった。ドイツ対アルゼンチンは、終盤にFWクローゼのヘッドで追いついたドイツがPK戦4対2で勝利をつかんだ。イタリアはウクライナに3対0で快勝、イングランド対ポルトガルは両者得点なく、PK戦でポルトガルが3対1の勝利をつかんだ。ハイライトは4試合の最後にフランクフルトで行われたブラジル対フランス。ブラジルが圧倒的に有利と予想されていたが、フランスがブラジルの個人技を出させない厳しい戦いを挑み、後半12分にMFジダンのFKをFWティエリ・アンリThierry Henry(1977― )が右足で合わせて決勝ゴールを叩(たた)き込んだ。スコアは1対0であったが、ブラジルにチャンスらしいチャンスはつくらせず、フランスの快勝だった。
準決勝はドイツ対イタリアとポルトガル対フランス。イタリアはドイツの攻撃陣を徹底マークし、準々決勝までの勢いを消した。そして0対0で迎えた延長戦、交代で投入したFWアレッサンドロ・デル・ピエロAlessandro Del Piero(1974― )が活躍し、延長戦終了寸前に2点を連取して2対0で勝った。イタリアの決勝進出は1994年大会以来12年ぶり6回目。フランスはポルトガルに試合を支配されたものの、前半33分に得たPKをMFジダンが決め、1対0で押し切って1998年大会以来2回目の決勝進出を決めた。
7月9日、決勝戦はベルリン。24年ぶり4回目の優勝を目ざすイタリアと、8年ぶり2回目の優勝を目ざすフランス。前半7分、PKを得たフランスがMFジダンの巧妙なシュートで先制すると、19分には、自らのファウルでそのPKを与えたイタリアDFマルコ・マテラッツィMarco Materazzi(1973― )がヘディングで鮮やかな同点ゴールを決めた。この日のフランスは、ブラジル戦のときのように相手に厳しいプレッシャーをかけ、ボールを奪っては速攻を繰り出した。とくに後半に入るとフランスの一方的なペースとなる。イタリアは後半16分に一挙に2人の交代を行い、中盤の守備を強化する。
しかしこうしたペースのなかで、フランスは中心選手の疲労が目だち始める後半11分、左足を痛めたMFパトリック・ビエラPatrick Vieira(1976― )が交代、後半35分にはMFジダンが相手との衝突で右肩を痛める。延長に入ると、フランスのFWアンリが足を痛め、交代を余儀なくされる。そして延長後半5分、この試合の行方を決める事件が起こる。
イタリア・ゴール前での競り合いの後、フランスMFジダンとイタリアDFマテラッツィが言い合いになり、ジダンの離れ際にマテラッツィが投げつけたことばがジダンに我を忘れさせた。振り向いたジダンは大柄なマテラッツィの胸に強烈な頭突きをくらわしたのである。
最初、アルゼンチン人の主審エリゾンドHoracio Elizondo(1963― )はこのできごとを見ておらず、何が起こったかわからなかったが、第4審判のメディナ・カンタレホLuis Medina Cantalejo(1964― )のアドバイスを受けてジダンにレッドカードを示した。
試合は1対1のままPK戦に突入したが、フランスは2番手のFWダビド・トレゼゲDavid Trezeguet(1977― )が失敗し、5人連続して決めたイタリアが優勝を飾った。
この試合を最後にプロとして引退することになっていた34歳のジダンの行為は世界的な話題になり、波紋をよんだが、FIFAはジダンとともに侮辱的な発言をしたマテラッツィにも出場停止2試合の懲罰を課した。
1か月間で7試合の大会は、さすがに終盤にはどのチームも疲労の色が濃く、躍動感のある試合が減ったが、2002年大会にヨーロッパのチームが準備不足だった反省から導入された1週間の強制的休養期間が効果的に働き、一次リーグでは活発な試合が増えた大会であった。
前大会で大きな課題とされたレフェリー問題も、1年半も前に46人の候補主審を選び、何回もの実戦テストやセミナーを通じて選ばれた23人の主審は安定した基準のレフェリングをみせた。この大会から使われた審判どうしのコミュニケーション・システム(無線による相互会話)もあり、スムーズなレフェリングが行われた。ミスがなかったわけではないが、大きな進歩があったのは間違いない。
大会運営面では、12の試合開催都市で催された「ファンフェスト」に数百万人が集まり、大成功を収めたことが特筆される。大型映像のパブリックビューイングを中心とした「入場券をもっていなくても楽しめるワールドカップ」は、今後の大会でも続けられていくはずである。
[大住良之]
第19回大会は2010年、南アフリカ共和国で開催された。期間は6月11日~7月11日。優勝はスペイン、準優勝オランダ、3位ドイツであった。得点王は5点で並んだトーマス・ミュラーThomas Müller(1989― )(ドイツ)、ダビド・ビジャDavid Villa Sánchez(1981― )(スペイン)、ウェズレイ・スナイデルWesley Benjamin Sneijder(1984― )(オランダ)、ディエゴ・フォルランDiego Forlán Corazo(1979― )(ウルグアイ)の4人。最優秀選手(MVP)はディエゴ・フォルラン。日本はE組に入り、カメルーンに1対0、オランダに0対1、デンマークに3対1の2勝1敗、勝ち点6、2位で一次リーグを通過したが、決勝トーナメント1回戦でパラグアイと0対0、PK戦となり、3対5で敗れた。
第20回大会は2014年、ブラジルで開催された。期間は6月12日~7月13日。優勝はドイツ、準優勝アルゼンチン、3位オランダであった。得点王はハメス・ロドリゲスJames David Rodríguez Rubio(1991― )(コロンビア、6得点)。最優秀選手(MVP)はリオネル・メッシLionel Andrés Messi Cuccittini(1987― )(アルゼンチン)。C組に入った日本は、コートジボワールに1対2、ギリシアに0対0、コロンビアに1対4で1分け2敗、勝ち点1の4位で一次リーグを突破することはできなかった。
[編集部]
『ジュール・リメ著、川島太郎、大空博訳『ワールドカップの回想』(1986・ベースボール・マガジン社)』▽『鈴木武士著『ワールドカップ物語』(1997・ベースボール・マガジン社)』▽『ブライアン・グランヴィル著、田村修一ほか訳『決定版ワールドカップ全史』(1998・草思社)』▽『『2014FIFAワールドカップ公式ガイドブック』(2014・講談社)』▽『大住良之著『ワールドカップの世界地図』(PHP新書)』
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世界選手権を争う国際的なスポーツ競技の賞杯,また選手権大会そのものをいうが,最初にワールドカップという名称を用いたのは国際サッカー連盟(FIFA)主催のものであった。これは現在FIFAワールドカップと呼ばれているが,1930年から4年に1度(オリンピック大会の中間年)開催され,プロ,アマを問わず各国代表チームによって競われる。予選に2年間が費やされ,本大会は前回優勝国と開催国を含め24ヵ国(1998年フランス大会からは32ヵ国)の代表チームによって行われる。世界最大級のスポーツ大会で,経費,観客動員などオリンピックを上まわるといわれている。1970年にはブラジルが3度目の優勝をはたし,カップ(提唱者の名をとってジュール・リメ・トロフィーJules Rimet Trophyと呼ばれる)を永久に保持することになり,新しいカップがつくられた。近年では,86年メキシコ,90年イタリア,94年アメリカで開催されている。2002年には日本と韓国で共同開催された。ほかに,ゴルフでは1953年にカナダカップとして始まったプロ2人からなるチームの各国対抗ストロークプレー,スキーでは1967年から行われているアルペン種目の総合競技,その他バレーボール,ラグビー,柔道など,ワールドカップと名づけられた競技は数多く,しかも増加の傾向にある。
執筆者:松本 光弘
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(岡田忠 スポーツジャーナリスト / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…このFIFAは,11年の南アメリカ諸国の加盟により大きく発展した。そして30年多くの人々の夢であった世界選手権(ワールドカップ)の開催を南アメリカのウルグアイで実現した。このワールドカップは以降のサッカーの発展に大きく寄与し,とくにヨーロッパと南アメリカの競い合いは,現在も世界的な関心を集めている。…
※「ワールドカップ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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