基本情報
正式名称=チェコスロバキア連邦共和国Česká a Slovenská Federativní Republika
面積=12万7869km2
人口(1992)=1560万人
首都=プラハPraha(日本との時差=-8時間)
主要言語=チェコ語,スロバキア語
通貨=コルナKoruna
ヨーロッパの中央に位置した連邦共和国。1989年以降のいわゆる東欧革命のなかで,スロバキアでは独立志向が強まり,連邦は92年末に解体,93年1月1日,チェコとスロバキアがそれぞれ独立した。
→スロバキア →チェコ
チェコスロバキアは東・西ドイツ,ポーランド,ハンガリー,ソ連,オーストリアと国境を接する。国土は東西に長く(約750km),南北に短い(約350km)。
国の西半分を占めるチェコ共和国はさらに西部のボヘミアと東部のモラビアに分かれる。国土の東半分はスロバキア共和国である。チェコのうちボヘミアは北西部のクルシュネー・ホリKrušné Hory(エルツ山脈),北東部のクルコノシェKrkonošeとオルリツケー・ホリOrlické Hory(ズデーテン山脈),西・西南部のボヘミアの森(チェスキー・レスČeský les,シュマバŠumavaから成る),南東部のモラビア高地(チェスコ・モラフスカー・ブルホビナČeskomoravská Vrchovina)といった山地によって囲まれた盆地で,盆地内は全体に南から北へ高度を下げていく準平原と台地から成っている。ボヘミアの中央を南から北へブルタバ川が流れ,北部ではラベLabe(エルベ)川に注ぐ。北部山岳地帯は貴金属鉱に富み,古くから開発が行われ,伝統的なチェコ工業発展の原動力をなしている。エルベ川流域は肥沃な土壌で,小麦,ビート哉培が行われている。ブルタバ川中流域にあるプラハはこの国の首都で,政治,文化,産業の一大中心地をなす。ボヘミアには,ほかにプルゼニ,フラデツ・クラーロベー,リベレツなどチェコスロバキアの商工業をリードする都市が多く存在する。
ボヘミアの南東部にあるモラビアは,ドナウ川の支流モラバ川流域のつくる低地で,北部にはポーランドに注ぐオドラOdra川とモラバ川支流の狭い峡谷が山脈を切るようにつくるモラビア門があり,古くからポーランドとオーストリア,ハンガリーを結ぶ通商路となっている。東部にはカルパチ山脈の支脈(タトリ山地)が走り,スロバキアと境を接する。モラバ川とその支流域にはブルノ,オロモウツ,ゴットワルドフなどの重要な工業都市があり,オドラ川上流域には北部山岳地帯で採掘される豊富な石炭をエネルギーとして鉄鋼業を営むオストラバの工業コンビナートが広がる。
スロバキアはカルパチ山脈西部と東西に走るその支脈によって大部分が占められる山がちの国土で,平地はドナウ川の支流が形成する南西部と,ソ連のウクライナと接する部分にあるにすぎない。河川の大半は南に流れ,ドナウ川に注ぐ。スロバキアは伝統的に農林業が中心で,チェコとの経済格差が著しかったが,近年スロバキアの工業化が急速に進められ,ドナウ川に臨むブラティスラバ,およびバーフVáh川流域の工業地帯はもとより,フロン川,ニトラ川流域でも工業地区が広がっている。
人口約1540万人(人口密度120人/km2。1983)のうちチェコに1032万(同131人/km2),スロバキアに507万(同103人/km2)住んでいる。人口5万以上の都市がチェコで24,スロバキアで8あり,さらに全人口の約52.5%が人口1万以上の都市に住み,都市集中化が毎年激しく,農業人口の減少とあいまって食料の自給率の低下という深刻な問題を引き起こしている。
チェコスロバキアの主要民族は西スラブ語を話すチェコ人とスロバキア人で,それぞれ全体の64%,30.8%を占める。ほかにハンガリー人3.8%,ポーランド人0.4%,ドイツ人0.4%,ウクライナ人0.3%,その他0.3%となっている(1983)。公用語はチェコ語とスロバキア語である。
宗教的にはキリスト教徒がほとんどで,カトリック77%,福音教会派8%,チェコスロバキア教会6%の割合であるが,国の方針もあって信仰にはそれほど熱心ではない。
チェコスロバキアの独立は,第1次大戦後の1918年10月で,第2次大戦中のナチス・ドイツによる占領を経て,45年新政府を樹立,48年以降人民民主主義・社会主義体制をとっている。
チェコ人とスロバキア人は,同じ西スラブ族に属するが,中・近世においては,チェコが主として神聖ローマ帝国の中心であるオーストリアとの結びつきを強くしたのに対し,スロバキアはハンガリーの従属下にあるなど,異なった歴史の歩みを示した。ここでは,チェコスロバキア国家の成立以後の歴史を扱い,それ以前については,〈チェコ〉と〈スロバキア〉の項をそれぞれ参照されたい。
第1次世界大戦前には,大部分のチェコ人政治家はオーストリア・ハンガリー二重帝国の連邦化を目ざし,決して独立したチェコ国家ないしはチェコスロバキア国家を考えていたわけではなかった。戦争が勃発し,やがて戦局が連合国側に有利に傾いてくると,チェコ人とスロバキア人が帝国から独立して一国家を形成するという考えが本格化してきた。マサリクとその僚友ベネシュは国外にあって帝国の解体を唱え,当初解体に消極的であった連合国に働きかけた。1916年にパリで設立された〈チェコスロバキア国民会議〉は,フランス政府についで連合国によってチェコスロバキア民族の最高機関と認められた。
帝国の敗北とともに1918年10月マサリクはチェコスロバキアの独立を宣言し,スロバキア人もそれに呼応し,ハンガリーから分離独立し,チェコ人と単一国家をつくると宣言した。ここに成立したチェコスロバキア共和国の大統領にはマサリクが選ばれ,19年には農地改革を実施し,翌20年憲法を発布し,最初の議会選挙が行われた。東欧で珍しい議会制民主主義の発達のもとで工業力は戦前の水準を上回り,西欧先進諸国と十分競争しうる実力を備えていった。しかし,チェコ人とスロバキア人の対立,ハンガリーやポーランドとの領土問題,国内の非チェコ人少数民族問題(ドイツ人約300万以上,ハンガリー人70万5000,ポーランド人8万,ウクライナ人50万)はやがてファシズム勢力が台頭するにつれて顕在化し,国家を分裂させる一因ともなった。ことにチェコ人とスロバキア人の対立はこれまでの歴史・経済・文化・社会的発展の差異という問題を含むものであったから解決するのは非常に困難であった。チェコ人指導者が約束したスロバキアの自治,連邦制は実行されず,スロバキア人のチェコ人集権化政策に対する不満は増大するばかりであった。この少数民族問題は,国境改訂要求やオーストリア・ハンガリー帝国の復活のきっかけになりかねなかったので,そうした脅威に対抗して,21年のユーゴスラビア,ルーマニアと対ハンガリー防御同盟を結んだ(小協商。-1939)。
35年に政界から引退したマサリクに代わりベネシュが大統領に就任した。この頃から世界恐慌のあおりを受けて経済は破綻し,それは国内の民族対立をいっそう激化させた。スロバキアでは自治を要求する声が強く、スロバキア人民党は激しくチェコ中央政府を攻撃し,35年からは他の少数民旅,とりわけドイツ人と共同歩調をとり,政府を苦境に立たせた。ドイツとの国境地帯,いわゆるズデーテン地方ではヘンラインの率いるズデーテン・ドイツ党がナチス・ドイツと結んで政府を圧迫し,政府がフランスおよびソ連と相互援助条約を締結して対ドイツ包囲政策をとるや,その攻撃はいっそう激しさを増した。
38年のミュンヘン会談におけるフランス,イギリスの対ドイツ宥和政策の結果,ズデーテン地方はドイツに割譲させることになった。さらにポーランド,ハンガリーは少数民族自治権を主張し,チェコスロバキアの領土を削り取った。39年にはチェコはドイツの保護領に,スロバキアはドイツの力で独立国となり,チェコスロバキア共和国はここに事実上解体してしまった。
第2次世界大戦中,ベネシュはロンドンに亡命政府をつくり,42年,この政府は全連合国の承認するところとなった。国内では反ドイツ抵抗運動がしだいに高まりをみせ,45年4月にモスクワを経て帰国したベネシュは,スロバキアのコシツェで国民戦線Národní frontを基礎とした臨時政府を設立した。44年10月に国内の対ドイツ抵抗組織に呼応した連合軍が国境を越え各地を解放した。45年5月プラハがソ連軍によって解放され,終戦を迎えた。
1945年末にはソ連軍が完全に撤退し,翌46年に開かれた憲法制定議会の国民選挙でゴットワルトの率いるチェコスロバキア共産党Kommunistická Strana(1921創設)が総投票数の36%以上を得て第一党になったため,ベネシュはゴットワルトを首相に任じ,連立内閣を組織した。すでに総選挙以前に農地改革が行われており,約170万haの農地が約17万の貧農と農業労働者に分与され,チェコの工業生産力の60%は国有化されていた。
47年に発表されたマーシャル・プランによる援助をめぐって共産党と非共産党閣僚との対立が表面化していった。翌48年2月,内相の警察官罷免問題を契機としてマーシャル・プランの受諾撤回に抗議する12名の非共産党閣僚が辞任した。5月には人民民主主義憲法が採択され,総選挙で共産党の率いる国民戦線が圧倒的勝利をおさめるとともに人民民主主義体制を確立した。その後ゴットワルトが大統領に選出され,土地改革による富農の除去,五ヵ年計画による急速な重工業化,農業の集団化が実施されて,社会主義体制は強化された。49年にCOMECON(コメコン)の原加盟国となり,55年にはワルシャワ条約機構に加盟し,ソ連・東欧ブロックの強力な一員となった。
フルシチョフによるスターリン批判以後,東欧にも非スターリン化の波が押し寄せたが,56年にポーランド,ハンガリーで起こったような反ソ的事件はチェコスロバキアを巻き込まず,かえってノボトニーAntonín Novotoný(1904-75)のようにスターリン主義を踏襲する指導者を得た。彼のもとで五ヵ年計画が実施され,一時停止していた農業の集団化が再開された。60年7月には社会主義憲法が採択され,国名もチェコスロバキア社会主義共和国と改められた。
だが遅れた非スターリン化の動きも,60年代の初めより進行し,68年初めには今までの硬直した官僚的統制による政治・経済的行詰りを打破する,いわゆる〈人間の顔をした社会主義〉化運動が盛り上がった。こうしたなかでスロバキア出身のドゥプチェクAlexander Dubček(1921-92)の主導する党内改革派はノボトニーを退陣させ,政権を担当し,自由化政策を推進した。だが自由化・改革運動が,他の東欧諸国に波及するのを恐れたソ連は,すでに改革が社会主義の枠をはみ出したものであると非難し,その年の8月突如ワルシャワ条約軍を率いてチェコスロバキアに侵攻し,改革派指導者を辞任に追い込んだ(チェコ事件)。
〈プラハの春〉と呼ばれたこの自由化運動は挫折し,スロバキア出身のフサークGustav Husákがドゥプチェクのあと党第一書記の地位に就いた。彼の指導のもとで,改革派の徹底的排除とソ連との関係改善を目ざす〈正常化〉政策が推進された。その一方で新しい動きもみられ,69年1月からこの国はチェコとスロバキアが対等の権限をもつ連邦制国家として出発することになった。
外交面では70年にソ連と友好協力相互援助条約が締結され,政治,経済,文化などあらゆる方面でのいっそうの関係強化がうたわれた。73年には国際緊張緩和の雰囲気のなかでのドイツ連邦共和国(西ドイツ)との間に国交が樹立され,1938年のミュンヘン協定が清算されることになった。経済面では,自由化運動の挫折から無気力に陥っている国民に活力を与えるべく消費を重視した経済政策を実施し,一応の活況を取り戻した。
75年にはフサークは大統領を兼任することになった。彼は,知識人による反政府的な〈77年憲章〉運動を徹底的に抑えるなど管理体制を強化しつつ政情を安定させ,ソ連重視の姿勢を保つ保守中道路線を固めた。
チェコとスロバキアが対等の権限を有する連邦国家で,連邦全体には連邦会議,連邦政府があり,二つの共和国にはそれぞれ民族評議会,共和国政府がある。また地方自治体に相当する地方行政組織として地域レベルの国民委員会がある。
連邦議会は国権の最高機関であり,連邦全体として唯一の立法機関である。連邦議会は人民院と民族院の2院より成り,両者はまったく同等の権限を有する。議員数は人民院で200名,民族院で150名(チェコ75名,スロバキア75名)である。両院の議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。
選挙権は満18歳以上のすべての国民に与えられる(被選挙権は満21歳以上)。この国のすべての政党は国民戦線に属し,国民戦線の推薦する候補者より選ぶため,候補者はほぼ100%の票を獲得することができる。
議会は,議員の中から40名の幹部会員(チェコ,スロバキア各20名)を選ぶ。連邦議会幹部会は,議会の運営を指導し,議会の閉会中には,議会の代行をする。
チェコスロバキアは東欧諸国の中で,ユーゴスラビア,ルーマニアとともに大統領制を採っている。大統領は議会によって選出され,議会に対して責任を負う。任期は5年。条約の交渉・批准,首相や他の閣僚,高級官僚,将軍らの任免,議会の召集・閉会,大赦などを行う。国家元首であり,軍の最高司令官で,宣戦布告の権限をもつ。
連邦政府は国権の最高執行機関で,大統領によって任命され,連邦議会の承認を受けた閣僚により構成される。
民族評議会は各共和国に設置されており,共和国の最高立法機関である。議員の任期は5年。議員定数はチェコで200名,スロバキアで150名である。共和国政府は各共和国の最高執行機関であり,民族評議会より任命され,評議会に責任を負う閣僚から構成される。
さらに各地域ごとに国民委員会がある。国民委員会は10の地方(地方と同格のプラハ,ブラティスラバを含む),112の地区,9000以上の町村ごとに設置されている。国民委員会の活動は共和国政府によって監督されている。議会の全議席は国民戦線によって占められ,その大半は共産党員である。国民戦線は労働者,農民,知識人の同盟組織であり,その役割は憲法で規定されている。1921年に結成されたチェコスロバキア共産党が国民戦線の中で主導的な地位を占め,その指導力は国政のあらゆる分野で絶対的な力をもつ。共産党員の数は,1968年のチェコ事件後,党籍を剝奪されたり,党員証の再交付に応じなかったりしたため,一時期,その数は著しく減少したが,76年現在約138万3000人(全人口の約9%)である。
共産党の最高機関は党会議であり,それは中央委員会を選出する。中央委員会はさらに幹部会を選出する。チェコスロバキア共産党の最高指導者は第一書記で,それは国家の事実上の最高指導者である。現在党第一書記は大統領を兼任するフサークである。またチェコスロバキア共産党の枠内で,スロバキアには独自のスロバキア共産党がある。チェコスロバキア共産党は機関紙《ルデー・プラーボ(赤い権利)》を発行し,スロバキア共産党は《プラブダ(真実)》を出している。
チェコスロバキアは複数政党制をとっており,共産党のほかにチェコスロバキア国民党,チェコスロバキア社会党,スロバキア自由党,スロバキア再建党がある。これらの政党は労働組合の連合組織である革命的労働組合運動,社会主義青年同盟,協同組合中央委員会,チェコスロバキア婦人同盟などの労働団体,社会団体や芸術・体育組織などの文化団体とともに国民戦線を形成している。
チェコスロバキアは第2次世界大戦以前から世界有数の工業国として発達し,現在も高度に発達した工業国である。工業化,生活水準は東欧の中では東ドイツとともに最も高い。1981年の国民1人当たりのGNPは8970ドル(西側の推定)に達する。
第2次世界大戦後,社会主義体制のもとで重工業優先の第1次五ヵ年計画(1949-53),第2次五ヵ年計画(1956-60)が実施され,1950年代に急速な経済発展がみられ,その生産力は西ヨーロッパ先進諸国を凌駕する勢いであった。しかし60年代になると過度の重工業化によるひずみが顕著になった。すなわち,農業部門における極度の不振と食料自給率の低下による農畜産物輸入の急増,硬直化した計画経済制度の欠陥の顕在化,労働力不足,軍事費の増大などさまざまな問題が重なり合って経済成長率が著しく低下し,61年に始まった第3次五ヵ年計画は2年足らずで中止された。この苦境を脱すために政府は計画経済制度の見直しを図り,統制を緩和し,企業の自主運営を認めることによって労働生産性を高める方策を打ち出した。この経済改革は65-66年の2年間にわたる実験期間を経て,67年より全部門で実施された結果,国民の勤労意欲を高め,生産力で著しい成果をあげた。さらに改革は政治的自由を求める運動と連動し,運動を拡大・発展させる契機を与えた。しかし政治改革に批判的な国内の保守勢力とソ連は,運動の発展が社会主義体制を逸脱しかねないと危惧した。68年8月,ソ連の率いるワルシャワ条約軍は突如チェコスロバキアに侵攻し,一連の改革運動を葬り去った。
70年代前半の第5次五ヵ年計画(1971-75)では,経済的混乱状態を収束するため,再び計画経済体制(中央管理方式)が強化され,生産の質と効率を何よりも重視する方針を採りつつ,一方で消費物質の増産,住宅の建設増,賃金引上げなど国民生活を重視する政策も実施された。こうした安定成長政策は功を奏し,70年代前半を通じて順調な発展がみられた。しかし70年代後半の第6次五ヵ年計画期(1976-80)には経済的不振が目だつようになり,当初の計画目標は大幅に未達成に終わった。ソ連による原・燃料供給価格の引上げ,国内生産設備の老朽化に起因する工業製品の国際競争力の弱さなど多数の原因が重なった。原・燃料基盤が弱く,貿易依存度が高い経済基盤の上に立ち,しかも労働力が不足し,勤労意欲が湧かないために,80年代に入っても,低成長は続いている。
この国は典型的な工業型構造をとっている。全産業部門別国民所得(1981)の工業・建設業の占める割合は東欧最大で72.8%,農林業は6.3%でソ連・東欧諸国で最低である。近年重工業優先政策が食料の自給率を低め(総輸入額の10%は食料),農業不振を招いてきたため,農業振興策が積極的に進められている。
まず工業部門について,工業総生産高の約80%はチェコで生産されているが,近年スロバキアの開発に大きな力が注がれている。たとえば第6次五ヵ年計画ではチェコの5年間の工業生産の伸びを28~36%増と見込んでいるのに対し,スロバキアのそれを44%増と見込んでいることからもうかがえる。工業の中心は機械工業(重機械,工作機械,繊維機械,輸送機械,エレクトロニクス,半導体,精密機械,オートメーション機器),東欧最大の鉄鋼業(銑鉄,合金鉄,鋼材,鋼管),それに成長著しい化学工業(化学肥料,化学繊維,プラスチック・合成樹脂,塗料,染料,タイヤ),伝統的な軽工業(繊維,縫製,皮革,製靴,ガラス,陶器)と食品工業(ビール,麦芽,食肉,食肉加工,動・植物性油脂,砂糖)も生産力が高い。機械工業は総生産高の約33%,鉄鋼業は約8%,化学工業は8~9%,軽工業と食品工業は合計で25%近くに達している。
機械工業では,1869年に創業を開始し,両大戦間期に兵器製造で世界的に有名となったシュコダŠkoda社のあるプルゼニ,鉄鋼業では,1829年に創業し,やはり両大戦間期に飛躍的発展をとげたビドコビツェVítkovice社のあるオストラバなどが中心で,いずれもすでに第1次世界大戦から始まり,第2次世界大戦後国有化され,今日に至るまでこの国の経済を一貫して支えてきた企業が,その生産の基礎となっている。軽工業ではバチャの製靴工場で知られるゴットワルドフをはじめ,繊維,皮革のプラハ,リベレツ,ブルノ,ブラティスラバ,ガラス・陶磁器などのヤブロネツ・ナド・ニソウ,テプリツェ,ウースチー・ナド・ラベム,カルロビ・バリなどが知られている。食品工業では〈ピルゼン・ビール〉で世界的に有名なプルゼニがある。この国の誇る伝統的な軽工業においては長年の重工業優先政策のために,生産設備の老朽化,技術革新の遅れが目だち,全体に生産性は高いとはいえない。
燃料は石油,天然ガスなど大部分が,ソ連からパイプラインで輸入されているが,石炭の産出量は東欧一を誇り,電力の90%以上は石炭を使用した火力発電でまかなっている。おもな産地はポーランドとの国境沿い,クラドノ,プルゼニ,ブルノ周辺である。燃料と同様原料の国外依存度も高く,鉄鉱石,銅,アルミニウム,製材,綿花など主要工業原料の大半はソ連から輸入されるものであり,ソ連との経済関係の強さをうかがわせると同時に,国際分業への参加,質のよい工業製品の大量輸出がぜひ必要である。
農業は東ドイツとともに機械化が進んでおり,かなり集約的に行われている。全農地面積684ha(国土の53.4%。1982)のうち約93%に当たる640万haは国営農業企業,農業生産協同組合に属している。国土の約37%は可耕地で,穀類(小麦,大麦,トウモロコシ),ホップ,ジャガイモ,テンサイなどがおもに哉培されている。生産物で特徴的なのは牛,豚,羊,鶏など畜産物の割合が高いことで,総生産高の55.7%を占めている。農作物は主としてチェコではラベ川,モラバ川流域および支流流域,スロバキアではドナウ流域で哉培されている。
貿易相手国は,社会主義諸国が大半で,輸出入の約70%を占めている。なかでもソ連が圧倒的に多く,つづいて東ドイツ,ポーランド,ハンガリーの順となっている。総輸出入額にソ連の占める割合は,それぞれ37.6%,39.9%である。一方,西側先進諸国では西ドイツとの取引が最も多く,次いでオーストリア,スイス,イギリス,イタリアの順となっており,貿易額は輸出入のそれぞれ19.6%,22.2%で,ポーランド,ハンガリーに比べて高くない。輸出を品目別にみると,機械・機器,設備が全品目の52.3%と高く,次いで燃料,工業用原料材27.1%,工業製消費財16.7%,食品・食品用原料3.8%,家畜0.1%の順となっている。輸入は燃料,工業用原料資材が52.7%,機械・機器,設備34%,食品・食品用原料7.3%,工業製消費財5.3%,家畜0.1%となっている(以上1981年のデータによる)。
輸出入総額(1981)は約1740億コルナで,輸出額が約877億コルナ,輸入額が約863億コルナと約14億コルナの出超で,過去5年間で初めての出超である。
働く者が建設する社会主義国家としての原則が国民生活を貫き,報酬,教育設備,医療,労働,生活環境の面で国民を保護する制度が採られている。
賃金は全国一律の賃金表に基づいて支払われている。食料品の価格は低く抑えられており,食費の占める割合はかなり低い。その他文化施設の公共料金も安い。しかし,冷蔵庫,テレビ,自動車,洗濯機などの耐久消費財は高く,例えば1100㏄の小型国産車の価格は勤労者平均月収の約19ヵ月分に相当する。住宅事情は他の東欧諸国と同様に大都市においてはよくない。
社会保障,社会保険は完備しており,とくに老後の保障の充実は社会主義国の特徴となっている。老齢年金は一般に男は60歳,勤続25年で資格を得,平均月収の50%が支給され,女は育てた子どもの人数によって53~57歳から資格を得る。年金には疾患,傷害,寡婦,孤児,社会年金などがある。
人口が少ないことから産婦保障は行き届き,産前産後休暇は26週間,その間母親は賃金の90%を支給され,産後1年以内までは元の職場に復帰でき,さらに養育費が支給される。健康保険は本人,家族とともにいっさい無料で医療看護,治療(外来の治療,医師の往診,専門的検査,療養所などでの治療を含む),投薬を受けることができる。さらに所得に応じて一定額の医療給付を受けることができる。休暇に関しては,労働者は就業年数に応じて年次有給休暇を2~4週間連続してとることができる。
中欧で最初の大学をプラハにつくり,17世紀に偉大な教育学者コメニウスを生んだチェコ人は,個人としても民族としても教育の重要性を伝統的に強調してきており,教育にはとくに力点を置いている。
初等学校から大学まですべて国立で,授業料および教材はいっさい無料である。6~15歳までの初等学校(9年制)は義務教育である。その上に3年制の普通科学校(ギムナジウム),4年制の実業学校があり,この学校の卒業生は大学入学資格試験を受けることができる。その他2~3年制の工場付属の勤労者専門学校などがある。大学には総合大学,工科大学,高等師範学校,芸術大学などがある。大学数は全国に36校(1982年度),学部98,学生数約19万2000である。
プラハのカレル大学(プラハ大学)は1346年創立,ブルノのプルキニェ大学,ブラティスラバのコメンスキー大学が第2次世界大戦以前にできたもので,オロモウツのパラツキー大学,コシツェのシャファーリク大学,プラハの〈11月17日〉大学などは戦後できた大学である。
執筆者:稲野 強
〈歴史〉の章ですでに述べたように,チェコとスロバキアは近代以前に異なる歴史の歩みを示した。同じく文化の面においても,共通する面と異なる面をもっている。ここでは,そのような点に留意しつつ,中世からのチェコスロバキアの文化について概観することにする。
チェコ語とスロバキア語の文学は,互いに共通する作家や性格を多くもっているが,ここではチェコ文学とスロバキア文学に分けてそれぞれの歴史をたどることにする。
チェコの文学の黎明(れいめい)はスラブ民族に文字をもたらしたキュリロスとメトディオスによるモラビア伝道(863)により始まるが,それ以前にも口承文学の伝統があり,これが後に豊かなおとぎ話や民謡の源泉になっている。モラビア伝道によりチェコには宗教的内容をもつ古代スラブ文学が成立し,キュリロス,メトディオスの伝記,バーツラフ伝説などが後の時代の写本によって伝えられることになる。しかし,この古代スラブ文学時代は長く続かず,ローマ教会の勢力が強くなると,チェコの地における文学は11世紀以後ラテン語で書かれ,作品もチェコの聖者をテーマにしたものや年代記が多い。この時代の代表作は,ラテン語で書かれた《コスマス年代記Kosmova kronica》である。11世紀末から200年はラテン語がチェコの地で独占的地位を占めるが,細々と続いていたチェコ語による文学は13世紀末になると世俗の文化の影響もあって有力になり,さまざまなジャンルでの作品が次々と発表される。この古代チェコ文学の華と呼ばれるのが 《アレクサンドロス伝説》,作者未詳の詩による年代記 《ダリミル年代記》,クラレット作の《辞典》,詩による劇《膏薬(こうやく)売り》などである。
チェコ文学史上で次に注目すべきは宗教改革者のフスで,彼は説教や社会批判などの作品を数多く発表し,文学を人々への呼びかけの手段として用いている。フスの死後起こったフス戦争に際しては,《誰ぞ神の兵士か》など優れた軍歌が作られ,当時の文学の最高峰といわれている。フス戦争の敗北後は宗教問題が文学の中心テーマになり,社会の矛盾の根本的改革を要求するヘルチツキーの宗教哲学的作品《信仰の網》《説経集》などが書かれ,このヘルチツキーの精神はトルストイを通じて日本にも影響を与えている。ヘルチツキーの流れを汲むのが,チェコ兄弟団の代表で当時のヨーロッパ的水準にあった人物といわれるブラホスラフである。ブラホスラフはチェコの伝統を後の時代へ伝えた人で,彼の《チェコ語文法》(1571)は,1579年から94年にチェコ兄弟団によりクラリツェで出版された《クラリツェ聖書Bible kralická》とともにチェコ文語の成立に大きく貢献し,その後チェコ語に大きな影響を与えている。1620年ビーラー・ホラの戦によってチェコはハプスブルク家の支配下に入り,その後チェコの文学は二分され,プロテスタント系は圧迫により亡命を余儀なくされ,他方ラテン語で書かれたカトリック文学や,チェコ語のバロック詩,民衆年代記,口誦文学が栄えることになる。前者の代表が中世最大の碩学といわれるコメンスキー(ラテン名コメニウス)で,彼の哲学,神学,教育学にわたる著作は世界的に有名である。また後者の代表にはバルビーンBohuslav Balbín(1621-88)らがいる。
ビーラー・ホラの戦の後,チェコ文学の発展は量的というより質的に低下し,イデオロギーの面では反宗教改革,芸術面ではロココ,政治面では絶対主義,民族的にはドイツ化が進められ,危機の様相を呈することになる。向上の転機が見られのは18世紀の70年代からで,これ以後チェコでは文芸復興期と呼ばれる活気のある時代を迎える。この時期農村から都市に入ってきたチェコ的要素は都市でのドイツ化を防ぎ,進歩的なチェコの知識階級を形成する。また,スラブ学の祖といわれるドブロフスキーによりチェコ文語の基礎がおかれ,同じ分野にユングマンJosef Jungmann(1773-1847),シャファーリクらが輩出してドブロフスキーの後を継いでいる。一方,文学には民衆詩の伝統に立つチェラコフスキーFrantišek Ladislav Čelakovský(1799-1852)やJ.コラールが登場して新しいチェコ文学の第一歩を飾っている。なおこの時代に,後述する劇作家ティル,詩聖といわれるマーハも出ている。
1848年ヨーロッパを吹き荒れた革命の嵐はチェコでは失敗し,ひどい弾圧の反動時代を迎えたが,この時期にニェムツォバーやエルベンKarel Jaromír Erben(1811-70)らは優れた作品を発表,両者ともフォークロア作品を収集・出版してチェコ文学に貴重な遺産を残している。前者の小説《おばあさん》(1855)はとりわけ有名で,国民文学の一つといわれる。またこの時代,鋭い社会批評家ボロフスキーKarel Havliček Borovský(1821-56)も活躍している。19世紀の60~70年代は雑誌《マーイ》,80年代は文芸誌《ルミール》を中心に文壇は発展し,《マーイ》ではネルダ,ハーレクVitězslav Hálek (1835-74),スベトラーKarolína Světláらが,《ルミール》ではチェフ,ブルフリツキー,スラーデクJosef Václav Sládek(1845-1912),ゼイエルJulius Zeyer(1841-1901)らが活躍して,西欧諸国のレベルに追いつこうとした。またこの頃の散文作家にはライスKarel Václav Rais(1859-1926)や,歴史小説で有名なイラーセクがいる。
1890年代から第1次世界大戦の終りの時期には象徴主義の詩人ブジェジナOtokar Březina(1868-1929),社会問題を取り上げたソバAntonín Sova(1864-1928),労働階級の詩人ボルケルJiří Wolker(1900-24)らが輩出したが,この時期のチェコ文学にとって大きな役割を果たしたのは,文芸批評家のシャルダンFrantišek Xavier Šalda(1867-1937)である。両大戦間のチェコ文学はとりわけ目ざましい発展をとげ,数多くの詩人や散文作家がまれにみる活発な活動を見せている。その中からあえて名をあげれば,詩人では1984年ノーベル文学賞を受賞したサイフェルトJaroslav Seifert(1901-86),ネズバル,ハラスFrantišek Halas(1901-49),散文ではユーモア反戦小説《兵士シュベイク》その他で知られるハシェク,劇《R.U.R.(エルウーエル)》で一躍世界で有名になり,あらゆるジャンルで名作を残したチャペック,ことばの魔術師といわれた左翼作家バンチュラ,《絞首台からのルポルタージュ》で有名な批評家フチークJulius Fučik(1903-43)であろう。
第2次世界大戦後のチェコ文学からは詩人で劇作家のフルビーンFrantišek Hrubín(1910-71),詩人ホランVladimír Holan(1905-80),長編小説家フックスLadislav Fuks(1923- ),反体制の作家フラバルBohumil Hrabal(1914- ),フランスで活躍するクンデラ,カナダにいるシュクボレツキーJosef Škvorecký(1924- )らがあげられる。
このほかチェコ文学史上特筆されるのは両大戦間期に成立し,その後も発展をとげた構造主義的文芸理論で,ムカジョフスキーJan Mukařovský(1891-1975)の評論は依然として世界の注目の的である。
スロバキア文学もチェコ文学と同じように古代スラブ語による聖者伝その他に出発点があるとはいえ,その後スロバキアがハンガリーの一部に組み入れられるなど長い間スロバキア語によるスロバキアの文学をもてないでいた。本来の意味でのスロバキア文学が始まったのは18世紀末から19世紀初頭にかけての啓蒙主義の時代で,スロバキア生れのコラールやシャファーリクが出てからである。この頃ベルノラークAnton Bernolák(1762-1813)が西部スロバキア方言を基礎としたスロバキア文語を提唱し,これはやがて中部スロバキア方言を基礎とするシュトゥールとそのグループによる文語の制定(1848)に取って代われることになる。次のロマン主義時代にはスラートコビチAndrej Sladkovič(1820-72)やクラーリ,ボットJán Botto(1829-81)らの抒情詩や叙事詩が発達し,社会問題も扱うカリンチャクJán Karinčiak(1822-71)が出ている。その後リアリズムの時代となって社会小説のバヤンスキーVajanský(本名フルバンSvetozár Hurban.1847-1916)や農村小説のククチーンMartin Kukučín(1860-1926),さらにスロバキア文学最大の詩人フビェズドスラフPavol Országh Hviezdoslav(1849-1921)が出ている。19世紀から20世紀にかけて象徴主義や印象主義の文学が興り,詩人のクラスコIvan Krasko(1876-1958)はその代表である。スロバキアがオーストリア・ハンガリーから独立した1918年からはアバンギャルドの詩人でマルクス主義の理論家ノボメスキーLadislav Novomeský(1904-76),シュルレアリスムの詩人ファーブリRudolf Fábry(1915-82)など文学が多様化し,表現主義の短編作家ホルバートIvan Horváth(1904-60),社会問題を扱うイレムニツキーらが活躍している。
第2次世界大戦後の作家としては,現在発禁になっているタタルカDominik Tatarka(1913- ),社会主義の問題を扱うミナーチVladimír Mináč(1922- ),現代をテーマにするカルバシュPeter Karváš(1920-),邦訳のあるベドナールAlfonz Bednár(1914- ),多くの訳で知られるチャシュキーLadislav Tážký(1924- ),劇も書くヨハニデスJán Johanides(1934- )らが有名で,評論ではマトゥシュカAlexander Matuška(1910-75),ホルバートMichal Chorváth(1910- )が知られている。
チェコの演劇は14世紀の古典劇《膏薬売り》や,コメニウスによる教育のための芝居があるが,本格的になったのは19世紀の30年代にティルが出てからで,1850年から83年かけてプラハに国民劇場ができてから本格化する。文芸復興期を通じてチェコ語で上演する演劇,職業劇団による演劇が活発化するが,この頃からもう人形劇は盛んで,名手コペツキーMatěj Kopecký(1775-1847)らが輩出している。19世紀末には社会を批判するリアリズムの劇,歴史劇が盛んになり,チェコ文学と並行して発達をみせる。戦間期の演劇ではアバンギャルドの〈解放運動〉と,公式な路線ではチャペックの《R.U.R.》が有名で,ホンズルJindřch Honzl,フレイカJiří Frejka,ブリアンなどの理論家や演出家,ボスコベツJiří VoskovecやベリフJan Werichらの名優が出ている。第2次大戦後の演劇ではフルビーンFrantišek Hrubinや,クンデラに好作品がある。なお近年はスロバキアの演劇が活発化している。
人形劇はコペツキー以来の伝統があるうえ,スクパJosef Skupa(1892-1957)が出て一躍身近なものとなり,国際人形劇連盟〈ウニマ(UNIMA)〉の本部はプラハにある。近年で有名なのはトルンカによる人形劇映画である。
執筆者:千野 栄一
チェコ人とスロバキア人の音楽には,彼らの歩んだ異なった歴史がはっきりとその跡を残している。チェコ人の住むボヘミアとモラビアのとくに西部は,13~14世紀にかけて東欧・中欧の文化の一大中心地であった。14世紀にはフランスのアルス・ノバを代表する作曲家マショーが一時プラハの宮廷に仕えたり,チェコ独自の世俗的歌曲や教会音楽を書いたこの国最初の芸術音楽の作曲家たちが登場したばかりでなく,15世紀にかけて早くも芸術音楽の影響を取り入れた洗練された民謡も生まれている。また,大モラビア帝国時代にビザンティン帝国から導入されたギリシア正教の聖歌のなかのあるものが,ボヘミア,モラビアがカトリックに改宗したのちもなお消滅せずに宗教的な民謡に衣替えして民間に生き残ったことは,チェコ文化の自主性と,パン・スラブ主義的伝統の表れとして注目される。これに対し,東部の山地に追い込まれたスロバキア人のほうは,カトリック教徒のハンガリー人の抑圧のもとに,あらゆる面での立ち遅れに悩むこととなったのである。
ボヘミアの民謡には,ドイツ,オーストリアとスラブとの特徴が混じり合い,規則的なリズムや旋律の構成をとる場合が多い。したがって歌でありながら器楽的な性格も強い。それに対して,都市や宮廷の音楽と接触する機会をもたなかったスロバキアとモラビア東部の民謡は,あくまでも声楽的で,西洋音楽のリズム・旋律の構成法に縛られないものが多い。ハンガリーの東洋系の民俗音楽とジプシー音楽からの影響も目につく。また,ボヘミアからモラビア西部にかけて見られるソウセツカーsousedskáのような3拍子の踊りは,スロバキアには存在しなかった。なお,ボヘミア起源の舞曲のなかで最も国際的に広く知られたポルカは,19世紀の前半にまず社交ダンスとして興り,19世紀も末になってからボヘミアの農村部にまで浸透したものであった。このほか,ボヘミアの特徴的な民俗舞踊としては,フリアントfuriantのように2拍子と3拍子の部分が交錯するものがある。
15世紀前半のボヘミアでは,王権と各国から派遣された討伐軍に対するフス派の戦いのなかから,多くの宗教的な軍歌や賛美歌を生んだ。これらは16世紀以降のドイツ・プロテスタントのコラールにも影響を与えたばかりでなく,そのなかでも有名な《汝ら神の戦士たち》などは,19世紀のスメタナやドボルジャークの民族主義的な名曲に主題を提供することにもなった。17世紀から18世紀にかけてのチェコ人の暗黒時代には,知識人や芸術家が国外に流出した。音楽の分野でも,19世紀の初めにかけて,多くのチェコ人が異郷の土にバロック音楽,古典音楽を開花させることになった。ドレスデンの宮廷に仕えたゼレンカ,イタリアでオペラ作家として成功し,初期のモーツァルトにも影響を与えたミスリベチェクJosef Mysliveček(1737-81),近代交響楽の成立にあずかって大きな力があったマンハイム楽派のスタミツ(ドイツ名シュターミツ)父子などは,そのなかのごく一部にすぎない。ボヘミアに踏みとどまった作曲家のなかにも,民俗的な語法を生かした賛美歌集,リュート曲集などを残したミフナAdam Michna(1600-76)や独自のオルガン楽派を打ち立てたチェルノホルスキーBohuslav Matěj Černohorský(1684-1742)らがいた。
18世紀後半,とくに80年代になってチェコ人のあいだに芽生えた民族復興運動は,19世紀になってスメタナ,ドボルジャーク,それにフィビフZdeněk Fibich(1850-1900)らの〈ボヘミア楽派〉の登場を促した。19世紀末から第1次共和国時代(1918-39)にかけては,ドボルジャーク門下のスークとノバークVítězslav Novák(1870-1949),それにモラビア東部の特異な音楽的風土を背景に登場したオペラの巨匠ヤナーチェクらが活躍し,現代のチェコ音楽への橋渡しをした。また,演奏の分野ではシェフチークOtakar Ševčík(1852-1934),クーベリークJan Kubelík(1880-1940)らの世界的なバイオリンの名手を生んでいる。20世紀前半のチェコ作曲界ではマルティヌーとハーバが国際的な名声を得たが,第2次大戦後の作曲界は,一時ソ連流の社会主義リアリズムの影響下におかれ,60年代以降は多様化の道をたどっている。しかしチェコの楽壇で戦後国際的評価を高めたのは,作曲界よりもむしろ室内楽やオーケストラの演奏水準の高さであった。一方,スロバキアでは,ベッラJán Levoslav Bella(1843-1936)を露払いとして,ようやく20世紀も半ばになってからスホニEugen Suchoň(1908- )やツィケルJán Cikker(1911- )が,チェコにおけるスメタナやヤナーチェクのような役割を果たした。連邦制の実施以後のスロバキア楽壇には活気がみなぎり,とりわけ演奏の分野における発展はめざましいものがあって,声楽のようにすでにチェコを凌駕した部門さえある。
執筆者:佐川 吉男
東欧諸国について一般にいえることであるが,チェコとスロバキアでは,西欧諸国の新しい美術の傾向は,ほとんど常に外国からの影響として地理的距離を飛び越えて,完成した形でもたらされた。そういうなかで,14世紀にはカレル1世の治世下で,同地にもたらされた美術が融合され自立的な展開をみせ,19世紀中ごろ以降は民族の意識的な自己表現が見られた。
モラビアとスロバキアの9世紀の建築はロトンダ(円形プラン)が特徴であり(これはアドリア海沿岸のダルマツィア地方に起源をもつ),9世紀後半にはビザンティン建築の影響も見られる。10世紀初め,ハンガリーの進出によって中心がボヘミアに移り,またビザンティン文化との直接のつながりも断たれ,ボヘミアとモラビアは基本的にドイツ文化の中に取り込まれることになった。10世紀後半以降は,ドイツ・ロマネスクの作品を残すが,一方,モラビアのティシュノフTišnowの修道院教会(13世紀)のように教会堂入口の彫刻装飾にイタリアからの影響が見られる例もある。1343年神聖ローマ皇帝カール4世となったカレル1世は,ドイツより独立させたプラハの大司教座のために聖ビート大聖堂(プラハ大聖堂)の建設に着手する。同大聖堂は1344年フランスのアラス出身のマチューMathieu d'Arras(?-1352)が建造を開始し,ドイツ人ペーター・パルラー(パルラー家)が継続した純粋なゴシック建築であり,教会堂南入口の外壁にはベネチアの工人が〈最後の審判〉をモザイクで描いている。またカールシュタイン城(1348-65)の装飾には,イタリアの画家トマソ・ダ・モデナTommaso da Modena(1325ころ-79ころ)と,彼に学んだと考えられるチェコ人のテオドリヒTheodorichが従事した。このようなさまざまな出自の美術の混在を背景に,1380年ころ〈トシュボーニュTřboňの祭壇画〉が制作され,そこにはイタリアの写実と北方ヨーロッパの色彩の結合が見られる。また彫刻においては,P.パルラーとその工房による大聖堂内の肖像彫刻の際だった個性表現をふまえて,それに宮廷的洗練を加え,〈美しき聖母子〉と呼ばれる類型が成立した。これら〈ボヘミア派〉の国際ゴシック様式の作品は,その後ドイツ各地に影響を及ぼした。しかしこの様式の展開も15世紀前半のフス派戦争のため断たれてしまう。
ルネサンスは,ハンガリー王マーチャーシュ1世が直接トスカナから導入した成果を,1490年以降ウラディスラフ2世がプラハに取りいれたことによって始まるが,ハンガリー経由のルネサンスのモティーフを後期ゴッシクの美意識に従って変形した,特異な造形を見せている(プラハ王宮内のリートB.Riedによる1493年着工の〈ウラディスラフの広間〉など)。モハーチの戦い(1526)の後,王位を継いだハプスブルク家は,ハンガリーを介さず,直接北イタリアの建築家を招いて,初めてルネサンス建築を移植しようとするが(王宮庭園内の1538年着工のベルベデーレなど),宮廷とボヘミア社会との断絶のゆえに,根づくことはなかった。この状況はルドルフ2世保護下のプラハのマニエリスムについても同じで(アルチン・ボルドが滞在し,スプランヘルやハンス・フォン・アーヘンHans von Aachenはプラハでその後半生を終えている),土着の伝統とは無縁であった。ビーラー・ホラ(白山)の戦(1620)以後カトリック化が進められ,プラハは,初め北イタリアの工人たちによって,17世紀末からウィーンの影響下に,強力にバロック化された。ボヘミアとモラビアに見られるドイツ系のディーンツェンホーファー家によるバロック建築は,ボヘミア生れのB.ノイマンを通じてドイツ・ロココ建築の成立に寄与するが,様式成立の中心となることはなかった。
19世紀半ば以降の民族意識の高まりの中で,マネスJosef Mánes(1820-71)はチェコ人とスロバキア人の日常生活に眼をむけ,チェルマークJaroslav Čermák(1830-78)やアレシュは歴史画を,ヒテュシAntonín Chittussi(1847-91)は風景を描いた。パリでアール・ヌーボーのポスター作家として活動したムハ(ミュシャ)も,後年故国において手がけた連作〈スラブ叙事詩〉(1910-28)において,この伝統に連なることがわかる。後年パリに住み,抽象絵画の先駆者の一人となるクプカFrantišek(Frank)Kupka(1871-1957)もムハと同じく象徴派から出発している。
執筆者:鐸木 道剛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパの中央に存在していた国。1969~1992年はスラブ系のチェコ人からなるチェコ共和国とスロバキア人からなるスロバキア共和国の2共和国による連邦制をとっていた。正式名称は1918~1960年チェコスロバキア共和国、1960~1990年チェコスロバキア社会主義共和国、1990~1992年はチェコおよびスロバキア連邦共和国。面積12万7896平方キロメートル、チェコとスロバキアに分裂する前の1991年の人口は1558万3000。首都プラハ。国旗は赤青白の三色旗。
スロバキアは長年ハンガリーの支配下にあったが、チェコは近世オーストリアに属したとはいえ、中世ヨーロッパでもっとも栄えた国である。第一次世界大戦後、両国は独立国チェコスロバキアを形成、第二次世界大戦後の1948年に共産党が政権を握り、1960年の憲法で社会主義共和国となった。そして東欧の変革が進むなか、1992年12月31日をもって連邦を解消し、チェコとスロバキアに分裂した。
国土は東西647キロメートル、南北273キロメートルのコンパクトな形をなし、ポーランド、旧ソ連、ハンガリー、旧東ドイツ、旧西ドイツ、オーストリアと接し、ポーランドとの国境がもっとも長く全長の約5分の2に達していた。東西世界の境界に位置し、海に接しない内陸国であった。チェコとスロバキアで構成されていたこの国は、さらにチェコをチェコ(ボヘミア)とモラビアに、スロバキアを東スロバキアと西スロバキアに細分される。チェコとスロバキアの面積は62対38であるが、人口では66対34(1991)であった。また、工業総生産額は4対1、農業総生産額は68対32であり、チェコが経済的に発展した工業国で、スロバキアは農業のウェイトが高かった。観光でも「百塔の町」プラハを第一に、チェコスロバキアには観光客をひきつける魅力に富んだ都市が各地にみられた。世界遺産に登録されているチェコ南部のチェスキー・クルムロフをはじめ、モラビアのミクロフ、スロバキアのマルティンなどはその一例である。また、カルロビ・バリやマリアンスケラズーニェは鉱泉、保養都市として著名である。他方、各地の美しい自然も観光資源であり、山地の探勝旅行も発展していた。チェコ北西のクルシネ・ホリ山地、チェコスロバキアのアルプスといわれたスロバキアの高タトラ山脈はその代表的なものである。また、モラビアの丘陵地帯やチェコ南部の田園地帯も美しい風景をもつ地帯として知られている。
[中村泰三]
西部は、一辺200キロメートルの四角形状のヘルシニア造山運動により形成されたチェヒ地塊(ボヘミア地塊、またボヘミア盆地ともいう)で、三方を中山性の山地―南西部をシュマバ山地とボヘミアの森(チェスキー・レス)、北西をクルシネ・ホリ(エルツ山脈)、北と北東をスデティ(ズデーテン)山脈―に囲まれ、東と南東はチェコモラバ高地(高度500~600メートル)に続いている。チェヒ地塊には丘陵、河岸低地、山地があり、起伏に富んでいる。
モラビアは北部の山地(スデティ)を除いて、中・南部は丘陵、低地であるが、スロバキアは大部分山地である。高度1000~1500メートルのアルプス造山運動により形成されたカルパティア山脈が走り、中央部に結晶質岩石で形成された、もっとも高いタトラ山脈があり、最高峰ゲルラホウスキー山(2663メートル)をもつ。南部と東部にドナウ平野とティサ平野の一部が広がる。なお、ベスキド山脈西部とチェコ北東部の間を流れるドナウ川支流のモラバ川とオドラ(オーデル)川上流間の峠を「モラバ門」とよび、古代からバルト海とアドリア海を結ぶ交通の要地であった。
気候は国土の大部分で温和な大陸性気候である。冬季の気温は零下2~4℃、夏季は13~21℃である。概して西から東へいくにつれ大陸性気候が強くなり、ティサ、ドナウ平野では夏は暑い。年降水量は国平均で700ミリメートル余りであり、夏季に多い。冬季は概して乾燥する。200メートル以下の平地では年降水量の約10%が雪である。風は秒速2~3メートルの西風、南西風が多い。
[中村泰三]
河川網は比較的密で、ラベ(エルベ)、ブルタバ(モルダウ)、オドラ、ドナウ川がおもな河川である。ドナウ川を除いていずれもこの国に源をもつ川で、チェコスロバキアがヨーロッパの主要な分水嶺(ぶんすいれい)で、ヨーロッパの小さな屋根といわれたゆえんである。ドナウ、ラベ川のみ航行が可能であるが、ラベ川は年間50~60日、ドナウ川は30日間凍結する。
植生は300メートルまでがおもにステップで、それより順次上へ広葉樹(カシ、ブナ)林、混交林、針葉樹林と変化していく。森林は国土面積の3分の1で、モミの木が多い。地下資源は石炭、褐炭をはじめ、鉛、亜鉛、ウラン、磁土(磁器用の粘土)などがおもなもので、鉱物の埋蔵量は多くない。他方、鉱泉は各地にある。
[中村泰三]
チェコ人とスロバキア人と名づけられる西スラブ人が現在の地域に定住したのはほぼ紀元後6世紀のことである。先住ケルト人のあとにこの地域に入ったゲルマン諸民族が「民族移動」期に南方に移住し、この地が空白になったからである。その後、この西スラブ人は遊牧民アバール人の攻撃を受けたが、フランクの商人サモがアバールから独立したサモ国を建てた(7世紀)。9世紀初頭には、この地にフランク王国の東方支配に対抗して西スラブ人による大モラビア国が建てられ、ビザンツ(中世ギリシア)世界との結び付きを強めたが、10世紀初頭、ハンガリー人の攻撃を受けて滅びた。ここでハンガリー人の支配を受けた西スラブ人はスロバキア人を形成し、西方で形成されたチェコ人とのつながりを断たれ、20世紀に両者が統一国家をつくるまで別個の文化圏に入らざるをえなかった。チェコ人は、ボヘミア・モラビアからなるチェコにあってプシェミスル家の下に結集し、独自の国家形成を始めた。歴代の王侯はドイツの東方進出からの防衛と国内における君主制の確立のためにキリスト教(ローマ・カトリック)を積極的に導入し、神聖ローマ皇帝に臣従を誓った。チェコ地方は貴金属の産出に富み、経済力を背景に帝国内での地位を高め、ボヘミアは12世紀後半以降には皇帝から王国の地位を承認されるほどであった。一方、モラビアは辺境伯領としてボヘミアに従属した。13世紀以降チェコにはドイツ系市民・農民の移住が活発化し、国王も財政政策上、移民を進んで受け入れ、都市建設や鉱山開発を奨励し、移民に多くの特権を与えた。このドイツ人保護政策はこの国に民族問題を惹起(じゃっき)させる遠因となる。チェコの中世の経済的、文化的、政治的発展は14世紀のルクセンブルク朝のもとで行われた。なかでも神聖ローマ皇帝に選出されたボヘミア王カレル1世(カール4世)の治世はチェコ史上もっとも輝かしい時代で、彼は「金印勅書」の発布(1356)によって君主制原理の確立を図り、ドイツの領邦制化を強化する一方で、プラハを帝国の首都とし、そこにドイツ圏で最初の大学(カレル大学)をつくり、大司教座を置き、新しい市街区を建設するなど、チェコの力を内外に示した。このようなチェコの繁栄もドイツ化の促進と並行しており、支配層の多くがドイツ人であり、都市の有力なドイツ人市民層はドイツ経済と強く結び付き、チェコはドイツ商業圏のなかに組み入れられた。このドイツ化の勢いはやがて民族的反動を引き起こす原因となったが、民族的対立はフスの宗教改革、それに続くフス派戦争で顕在化することになった。
16世紀のチェコはハンガリー・オーストリアと対トルコ共同連合を形成するが、主導権を握ったのはオーストリア・ハプスブルク家である。チェコとオーストリアの対立は、東欧における宗教改革の影響下で行われる。三十年戦争(1618~1648)のきっかけをつくったのもハプスブルク家の中央集権政策に対するチェコ・プロテスタント貴族の反抗であった。ボヘミアは新旧教徒の入り乱れる戦争で幾度となく戦場となり、人口は激減し、耕地も荒廃した。この戦争の結果、チェコはハプスブルク家の属領となり、民族的、領土的独立は阻止された。ドイツ化が国内を覆い、いわゆる「暗黒時代(テムノ)」を現出させた。
だが17世紀末からチェコには経済的復興の兆しが現れ始め、18世紀に入ると繊維工業の飛躍的発達がみられた。18世紀の啓蒙(けいもう)主義、ドイツ・ロマン主義の運動は諸民族の起源や民族文化への関心を呼び起こすのに大いに貢献した。当時ドイツに留学していた若いスロバキア人知識人は、ヘルダーの思想やドイツ・ロマン主義の影響を強く受け、スラブ民族覚醒(かくせい)時代の旗手となった。スロバキア人コラールは文化的汎(はん)スラブ主義を基礎づけ、シュトゥールはスロバキア文語をつくった。チェコ人パラツキーは『チェコ民族史』を書いた。こうしたチェコ人、スロバキア人民族運動の担い手にとって、ヨーロッパ全土を席巻(せっけん)した1848年革命は一つの転機であった。この年オーストリア帝国在住のスラブ人を中心としたスラブ民族会議がプラハで開かれ、混乱した政治状況のなかで、オーストリアを民族の連邦制に改組する提案がなされた。だが1867年、オーストリア政府はチェコ人の要求を抑えて、ハンガリーと「妥協(アウスグライヒ)」し、オーストラリア・ハンガリー二重帝国制を確立した。このためチェコ人は「妥協」に不満をもつ諸民族の先頭にたった。その背景には、食品工業、機械工業がおこり、1867年にはチェコ民族資本の銀行が設立されるなどの目覚ましい経済発展があった。したがってオーストリア政府は、民族資本の発展を背景としたチェコ人ブルジョアジーの要求を無視できず、チェコに住むすべての官吏にチェコ語とドイツ語の二重使用を義務づける言語令を出し(ターフェ言語令、バデーニ言語令)、チェコ人への慰撫(いぶ)政策を示した。こうしたチェコ人の台頭は、資本主義の発展に伴う労働者階級の増大によって民族的対立を激化させ、闘争を一般大衆の日常的なレベルに広げることになった。一方、長い間民族的にチェコ人と分断統治されてきたスロバキア人も、19世紀後半の民族主義的運動により、ハンガリーからの自立を図ったが、経済的後進性にみまわれていた点から運動も文化活動の面に限られており、政治的要求はハンガリー人に抑えられていた。第一次世界大戦前夜、チェコでは独立を求める動きはなく、あくまで帝国の枠内で自治権ないしは連邦制を獲得する運動が主流であった。
[稲野 強]
第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、チェコ人、スロバキア人指導者の多くは事態を静観したが、著名な哲学者T・G・マサリクらはパリを拠点にチェコスロバキア独立運動を組織した。独立運動の過程で、ロシアにおいて編成されたチェコスロバキア軍団は、1918年5月にソビエト政権と軍事衝突し、その救出を掲げて日本、アメリカなどがシベリア出兵を行った。この事件を契機として、同年の後半にいたると、マサリクらの運動は連合国の支持を受けるようになり、国内にとどまったチェコ人指導者の間でも、国外の運動に呼応して独立を求める動きが強まり、さらに、チェコ人、スロバキア人指導者間の連携も進んだ。同年10月28日にチェコ人の指導者たちはプラハで独立を宣言し、同月30日にはスロバキア人指導者たちもスロバキアがチェコと統一国家を形成すると宣言した。11月14日にチェコスロバキア共和国Československá Republikaが成立、暫定国民議会でマサリクが初代大統領に選出され、K・クラマーシュを首相とする政府が組織された。
新国家は、人口1337万(1921)のうち、チェコ人とスロバキア人が876万(65.5%)、ドイツ人が312万(23.4%)、ハンガリー人が75万(5.6%)、ウクライナ人とロシア人が46万人(3.5%)、その他(ポーランド人やユダヤ人など)で構成される多民族国家であった。
新国家建設過程で優位に立ったチェコ人は、スロバキア人などによる連邦制導入の要求を押さえ、1920年2月に制定された憲法では、中央集権的な国家体制が採用された。議会は、比例代表制選挙が採用され、複雑な民族構成を反映して小党分立状態にあったが、農業者党を中心とする連立政府が継続し、他の東欧諸国のように議会制民主主義が機能を停止することはなかった。1920年代後半には、新共和国に否定的姿勢をとっていたドイツ人政党の一部も連立政府に参加するようになった。経済も独立直後の時期には混乱がみられたが、1920年代後半には安定した。
A・フリンカに率いられたスロバキア人民党やドイツ人諸党は自治を求め、中央集権的な国家体制を批判していた。1930年代に入ると大恐慌の影響で失業が増大し、1933年にドイツでヒトラーが政権につくと、チェコスロバキアを取り巻く国際環境も不安定なものとなった。1935年の選挙でズデーテン・ドイツ人党がドイツ人政党としては第一党となった。同党は、当初は自治要求を掲げたが、後にナチス・ドイツと提携してドイツ人居住地域であるズデーテン地方のドイツへの併合を要求した。1938年9月のミュンヘン会談で英仏独伊首脳はドイツによるズデーテン地方併合で合意し、チェコスロバキア政府もそれを受け入れた。10月にズデーテン地方の併合が実施され、またポーランドとハンガリーによる領土併合も行われた。さらにスロバキアの自治要求も認められ、チェコスロバキアは連邦国家となった。1939年3月にドイツはチェコ地方全体を保護領として併合し、スロバキアはドイツの保護国として独立した。
[林 忠行]
1935年にマサリクの後を継いで大統領となっていたE・ベネシュは、ミュンヘン会談の合意を受諾した後に辞任、亡命した。第二次世界大戦勃発後にベネシュはロンドンで亡命政権を組織した。国内でも困難な状況下で抵抗運動が続けられ、1944年8月にはスロバキアで国民蜂起が起こり、それにはスロバキア国軍の一部も参加したが、10月にはドイツ軍によって制圧された(スロバキア国民蜂起)。ロンドン亡命政府は1943年12月にソ連と友好相互援助戦後協力条約を締結し、またモスクワに亡命していたチェコスロバキア共産党とも戦後政権についての合意を作成した。1945年4月にソ連軍によって解放されたスロバキアのコシツェで、国民戦線政府綱領(コシツェ綱領)が発表され、それに基づく連立政府が形成され、5月のプラハ解放後に政府は首都に帰還した。
コシツェ綱領に従って、連立政府は大企業の国有化など戦後改革に着手した。また連合国の合意の下でドイツ系住民を国外に追放したが、これは戦争責任をチェコに居住していたドイツ人全体に課すという内容で、その後、その是非をめぐる議論が続くことになる。1946年5月には議会選挙が実施され、共産党が第一党となったが、連立政権は維持された。しかし、しだいに政権内で左右対立が激しさを増し、1948年2月に共産党は大規模な大衆動員をかけ、大統領ベネシュは共産党が主導権を握る新政府の樹立を承認した。同年5月に新憲法が制定され、ベネシュにかわって共産党のゴットワルトが大統領に就任した。
こうしてチェコスロバキアにおける共産党支配は完成するが、1949年から1951年にかけて党内では一連の粛清が行われ、多くの人々が投獄あるいは処刑された。1948年憲法制定後も国名はそれ以前からの「チェコスロバキア共和国」が使われていたが、1960年の憲法改正で「チェコスロバキア社会主義共和国Československá Socialistická Republika」と変更された。チェコスロバキアでの非スターリン化はほかより遅れ、1960年代に入ってから粛清の犠牲者の名誉回復などが始められた。1960年代後半には経済停滞を打破するために、一連の経済改革が提唱されるが、保守派の抵抗でそれは実現しなかった。しかし、1967年に共産党内外で民主化要求は高まり、大統領と党第一書記を兼務していたノボトニーに対する批判が噴出した。1968年1月にA・ドプチェクが党第一書記に就任し、3月にはL・スボボダが大統領に就任。同年4月に共産党中央委員会総会は「行動綱領」を採択し、「プラハの春」とよばれる一連の民主化政策が実行された。しかし、この改革の試みは8月にワルシャワ条約機構軍の侵入で終わりを告げる(「チェコ事件」参照)。1969年4月にはG・フサークが第一書記(後に書記長)となり、その後「正常化政策」が進められ、1970年代には経済面でいちおうの安定がみられた。
「プラハの春」の時期に、連邦制をめぐる議論が進行した。軍事介入後の1968年10月に憲法改正法案が議会で可決され、69年1月から連邦制が導入された。チェコスロバキア社会主義共和国は、チェコ社会主義共和国とスロバキア社会主義共和国からなる連邦国家となり、二つの連邦構成共和国にはそれぞれの議会と政府が設置された。連邦議会は人民院と民族院で構成され、前者は人口比に応じて、後者には両共和国同数の議席が割り当てられた。また、両共和国の経済格差を是正するために、スロバキアへの重点的な投資が継続され、そこでの工業化が促進された。
軍事介入後も知識人による体制批判は続けられ、1977年には「憲章77」が発表され、その運動は国際的にも注目されたが、当局はそれに対して厳しい弾圧を行い、国民の政治的無関心のなかで運動は孤立したままであった。80年代後半にソ連でペレストロイカとよばれる改革が進行し、ポーランドやハンガリーでも共産党政権による経済改革が促進されるが、保守的なチェコスロバキア共産党指導部は改革には慎重な姿勢を維持した。89年9月にポーランドで自主労組「連帯」主導の政権が発足し、10月にハンガリーで共産党の指導性原理が放棄され、11月9日にはドイツで東西の国境が開かれるに至った。そうした状況の下、チェコスロバキアでも11月17日にプラハで行われた学生デモを発端に大規模な民主化要求運動が全国に広がり、同月29日に共産党の指導的役割を規定した憲法条項が連邦議会で削除され、12月にはそれまでの在野勢力を加えた国民和解政府が発足、反体制運動で著名な劇作家V・ハベルが大統領に就任した。
1990年6月に国政選挙が実施され、連邦議会で過半数を握ったチェコの「市民フォーラム」とスロバキアの「暴力に反対する公衆」、キリスト教民主運動が連立連邦政府をつくり、企業の民営化、価格の自由化など本格的な経済の体制移行に着手した。
共産党体制崩壊直後から新しい国名をめぐってチェコ人とスロバキア人との間の対立が顕在化したが、1990年4月に「チェコおよびスロバキア連邦共和国Česká a Slovenská Federativní(スロバキア語Federatívna) Republika」という新国名で妥協が成立した。しかし、チェコ人の経済専門家が主導する急進的な経済移行政策にスロバキア側が反発し、またそれと連動して連邦制度の形態をめぐる対立もしだいに厳しさを増した。92年6月に行われた選挙において、チェコでは連邦政府の強い権限を維持し、かつ急進的な経済移行政策を支持する右派諸党が勝利し、スロバキアでは緩やかな国家連合への改組と漸進的な経済移行政策を求める民族派が勝利を収め、統一国家維持は困難になった。チェコで第一党となった市民民主党党首のV・クラウス(後にチェコ共和国首相)とスロバキアで第一党となった民主スロバキア運動の党首V・メチアル(後にスロバキア共和国首相)との一連の会談の後、連邦解体が合意され、一連の法改正を経て1992年末をもってチェコスロバキア国家は消滅し、93年1月1日をもってチェコ共和国とスロバキア共和国は主権国家として独立した。
[林 忠行]
第二次世界大戦前から工業の発展していたチェコスロバキアは、第二次世界大戦後、社会主義圏に入ると工業のいっそうの発展、重化学工業化を進めた。西側先進国とかわらぬ工業の発展した国で、生産国民所得に占める農林業の割合は10%以下であった。産業の社会化は、工業部門で1940年代、農業部門で1950年代にほぼ完了した。生産は1950年代にもっとも発展したが、1960年代、1970年代と時代が下るにつれ、成長率は低下してきた。第六次五か年計画時(1976~1980)、経済成長を高めるために計画システムの一部手直しが行われたが、この期の計画目標は未達成に終わり、第六次五か年計画で予定した国民所得の年平均増加率4.9%は3.7%にとどまった。
[中村泰三]
「プラハの春」がコメコン諸国の武力で抑えつけられて以降、チェコスロバキアは社会主義経済システムを強固に維持し、ポーランドの「連帯」運動にも背を向けてきた。「ベルリンの壁」が崩壊し、共産党政権が退陣する1989年末まで経済発展テンポは停滞に近い微増であった。1990年、議会は経済改革路線を採択した。この改革はいわゆる「ショック療法」とよばれる急進的な改革で、緊縮財政、税制改正、民営化、価格の自由化、産業構造の変革などを目ざしていた。
このため1990~1992年チェコスロバキア経済は急速な生産の低下、インフレを引き起こした。国内総生産は1990年に前年比-1.6%、1991年-14.7%、1992年-7.0%、工業生産は1990年-3.7%、1991年-23.5%、1992年-16.7%と低下し、インフレ率は前年比1990年10.0%、1991年57.8%、1992年10.8%であった。しかし、他の旧東欧諸国に比べて、インフレ率は低く、1991年のみ著しいだけであった。
ほとんどの商品価格は自由化され、小規模国営企業の民営化から始まった企業民営化は、1991年に大規模企業の民営化にも着手し、1992年末に民営企業の国内総生産に占める比重が5分の1を超えるまでになった。
経済の落ち込みの少なかった主因の一つに西側諸国への輸出の増大があった。コメコン加入時代はソ連をはじめとするコメコン諸国との輸出入が、最大年には輸出入の4分の3前後を占めていたが、1992年に4分の1以下に下がり、ECとの取引きが2分の1前後になった。
[中村泰三]
チェコスロバキアの農業は集約的で、その水準は東欧で東ドイツに次ぐといわれていた。また、農場も統合されて大規模であり、機械化も進んでいた。畜産を主とし、作物栽培が従で、人手を要するジャガイモや一部の工業用作物の栽培面積は減少していた。就業者総数のうち農業従事者は、1950年の約40%から1991年には11.4%に減少し、農業人口の高い流出率、就業者の高年齢化が発展を妨げていた。
工業では、社会主義政権の優先政策により重化学工業の比重が高く、食品、繊維工業の比重は低下していた。地下資源は石炭、褐炭を除くと少なく、石炭、褐炭に強く依存していて、エネルギー生産の3分の2近くを占めていたが、ソ連から輸入する石油、天然ガスへの依存傾向が高まっていた。それでも化学工業の発展は著しく、合成ゴム、プラスチック、合成繊維、窒素肥料などの生産が増加し、その原料は西部の褐炭田、中部のオストラバ炭田からの供給や、輸入石油、天然ガスなどであった。
貿易額は1960年からの20年間に約6倍に増えている。1992年の1人当り輸入額797ドル、輸出741ドル。輸出品のおもなものは機械類、自動車、鉄鋼、鉄道車両、繊維・衣類、輸入品は機械類、石油製品、自動車、鉄鋼・鉄鉱石、繊維原料であった(1989)。
[中村泰三]
チェコスロバキアを構成していた主要な民族はチェコ人とスロバキア人で、全人口のおよそ62.9%と31.8%を占めていた(1992)。言語の面からみると、チェコ語とスロバキア語は同じ西スラブ語のグループに属し、非常に近い関係にある。第二次世界大戦前には、チェコ人とスロバキア人は一体をなすという考え方が公式にはとられていた。しかし、実際には経済発展や教育の面で優位にたつチェコ人がスロバキア人を支配することになった。チェコ人による中央集権化政策に反発するスロバキア人は自治要求を掲げてチェコ人と対立した。戦後も両民族の対立はただちに解消されたとはいいがたかったが、1969年に連邦制が採用されたことで、この問題ではいちおうの結論が出たといえる。また連邦政府はスロバキアに対して積極的な投資を行い、両共和国間の経済格差の解消を図っていた。チェコスロバキアでは、公的な生活においても、チェコ語とスロバキア語の両方が用いられていたが、両言語は非常に近い関係にあり、互いに他方を理解することは可能である。したがって、テレビの全国放送では、番組によってチェコ語とスロバキア語が交互に用いられていたし、また教育や出版活動も、チェコとスロバキアではそれぞれの言語でなされていた。
少数民族に関しては第二次世界大戦後、ドイツ人の多くはナチスに協力したという理由で追放され、またウクライナ人居住地域のほとんどはソ連領に編入されたため、その数は大幅に減少した。しかし、スロバキア南部を中心にかなりの数のハンガリー人(約58万5000人、1982)が残っており、自分たちの言語で教育を受ける権利が認められていた。
[林 忠行]
連邦解体前のデータでは、人口密度は1平方キロメートル当り122人(1991)、人口の自然増加率は1000人に対して1人(1990)と低く(1990~1992年平均0.2%)、この問題は労働力の不足もあって深刻に受け止められていた。平均寿命は男が67.6歳、女が75.2歳であった。生活水準は人口1000人当り、テレビ412台、乗用車223台と東ドイツに次いで高かった(いずれも1990)。
チェコスロバキアは社会主義体制であったので、原則として失業問題はなかった。むしろ労働力の不足が大きな問題で、結果として職場に女性の占める割合が非常に高かった。収穫期の農村での人手不足も深刻で、学生や兵士が毎年応援に向かっていた。
教育制度は3段階で、初等教育は6歳から9年間の義務教育、中等教育は3年間の高等学校(ギムナジウム)や各種の専門高校、その上に大学(原則として5年)が置かれていた。女性の就業率が高いことから義務教育前の幼児の教育制度や、また身体障害者に対する教育制度もよく整備されていた。また社会人教育も盛んで、働く人々を対象とする夜間の外国語学校なども多く、また大学も働く人々に開放されていた。また学校以外の組織による青少年教育活動にも力が入れられており、とくに青年社会主義者同盟やピオネールでの集団活動も、重要な意味をもっていた。
福祉の面では医療はすべて無料で、医者の数は多く、1980年代後半では人口1万人に対して32.3人(日本は16.4)であり、病院のベッド数は人口1万人に対して79である。とくに妊婦と乳児に対する医療は完備され、生後1年までの乳児の死亡率は1000人当り13人であった。年金は男が60歳、女が53~57歳(育てた子供の数で異なる)から受け取れ、また鉱山労働者や戦争中の抵抗運動参加者には、さらに優遇措置がとられていた。憲法では宗教の自由がうたわれていたが、宗教活動は、おおよそのところ国家の管理下に置かれた。教会と国家の関係は多くの法律で規定されており、国家は各教会が必要とする経費(聖職者の教育、建築物の維持と修理なども含む)を負担していた。
[林 忠行]
『オタ・シク著、林三郎訳『チェコ経済の真実』(1970・毎日新聞社)』▽『木内信藏編『世界地理8 ヨーロッパⅢ』(1975・朝倉書店)』▽『F・フェイト著、熊田亨訳『スターリン以後の東欧』(1978・岩波書店)』▽『渡辺一夫編『世界地誌ゼミナールⅢ』(1980・大明堂)』▽『五井一雄・野尻武敏編著『ソ連・東欧の経済』(1981・中央大学出版部)』▽『L・ストラシェヴィチ著、谷岡秀雄訳『東欧新事情』(1982・三省堂)』▽『木戸蓊著『東欧の政治と国際関係』(1982・有斐閣)』▽『『日本と東欧諸国の文化交流に関する基礎的研究』(1982・日本東欧関係研究会)』▽『大鷹節子著『チェコとスロバキア』(1992・サイマル出版)』▽『林忠行著『中欧の分裂と統合 マサリクとチェコスロバキア建国』(1993・中央公論社)』▽『V・チハーコヴァ著『新版プラハ幻影』(1993・新宿書房)』▽『小野堅・岡本武・溝端佐登史編『ロシア・東欧経済』(1994・世界思想社)』▽『山本茂・松村智明・宮田省一著『地球を旅する地理の本5 東ヨーロッパ・旧ソ連』(1994・大月書店)』▽『小川和男著『東欧再生への模索』(1995・岩波書店)』▽『音楽之友社編・刊『チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、ポーランド(ガイドブック音楽と美術の旅)』(1995)』▽『百瀬宏他著『国際情勢ベーシックシリーズ 東欧』第2版(2001・自由国民社)』▽『P・ボヌール著、山本俊朗訳『チェコスロヴァキア史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『R.W.Seton-Watson:A History of the Czechs and Slovaks(1965,Hamden,Connecticut)』▽『S.Harrison Thomson:Czechslovakia in European History(1965,Hamden,Conneticut)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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