翻訳|Valencia
スペイン東部の地中海に面した地方País Valenciano。アリカンテ,カステリヨン,バレンシアの3県からなる。ほぼ中世のバレンシア王国の領域にあたり,バレンシアーノと呼ばれるカタルニャ語に似た独自の言語をもつ。背後にイベリア,ペニベティカ両山脈があり,トゥリア,フカル両川が潤す肥沃な平野では,集約農業が行なわれている。内陸の高地を除き,地中海式気候である。主産業は農業で,おもな産物は米のほか,オレンジなどの果物,内陸部ではブドウ,小麦を産する。また高地では,羊,ヤギの放牧が行われている。工業は,19世紀に製鉄,繊維が対外競争力を失ってから,食品加工,製紙,化学工業などが発達している。
バレンシアはカルタゴ人,ローマ人の地中海植民地として発達した。5世紀から3世紀間,西ゴートの支配下におかれ,8世紀初頭にはイスラム教徒に征服されたが,イスラム教徒はローマ時代の灌漑施設を充実させ,農業を発展させた。1094年から1102年まで,エル・シッドによってキリスト教徒の手に一時戻るが,その後再びイスラムの支配下に入った。バレンシアが最終的にキリスト教徒に回復されるのは,1238年アラゴン王ハイメ1世のときである。こうしてバレンシアはアラゴン連合王国の一員となったが,アラゴン国王はバレンシア王国の自治を尊重し,同時にこの地方のモリスコに寛容な政策をとった。その結果,イスラム時代の灌漑農業は支障なく受け継がれ,また絹織物や農産物,工芸品などのバレンシアの特産品がアラゴン王国の地中海貿易に繰り込まれ,14世紀に最盛期を迎えるこの地方の経済的繁栄の基盤が整備された。
15世紀には,カタルニャとイタリア・ルネサンスの影響を強く受け,詩人マルクAusiàs March(1397-1459)ら,数々の文化人を生んだ。16世紀には暴動が相次ぎ,1609年のモリスコの追放に発展した。この頃からバレンシアは経済的下降期に入っていった。18世紀初頭のスペイン継承戦争では,カタルニャとともにオーストリア大公側についたため,戦後それまで保持していた地方特権を失った。18世紀後半には工業の機械化を推進したが,フランス資本に敗れ,再び農業に活路を見いださなければならなくなった。1808年ナポレオン軍がイベリア半島に侵入すると,バレンシアは地方評議会をつくって抗戦したが,12年に降服した。19世紀から20世紀にかけての政治的混乱期には,グラオ港は地中海に面した港として,亡命者,反乱者の出港・上陸地点となった。そのため,プロヌンシアミエント(反乱)がしばしばこのバレンシアで起こった。スペイン内乱中は共和国政府を支持し,1936年10月,反乱軍が首都マドリードに迫ると,共和国政府の首都はバレンシアに移され,内乱の末期(1939)まで抗戦の拠点となった。1978年の新憲法のもとで地方自治権を獲得したが,カタルニャ地方との統合問題など懸案は多い。
バレンシア地方の主都。バレンシア市は人口79万6549(2005)のスペイン第3の都市で,この地方の政治・経済の中心地であり,大司教座,バレンシア大学(1500創立)などを擁して,宗教・文化の中心でもある。グラオ港から農産物,工業製品が輸出される。古くはウァレンティアValentiaと呼ばれた。市内には,〈ミゲレーテ〉と呼ばれる八角形の鐘楼をもつ大聖堂,絹取引所(15~16世紀)をはじめとする歴史的建造物が多く,スペイン有数の絵画コレクションを有する県立美術館があり,3月19日のファーリャスの祭りとともに観光客を集めている。主産物の米を生かした料理パエリャが有名である。
執筆者:宮川 智恵子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
スペイン東部、バレンシア地方バレンシア県の県都。イベリカ山脈のクエンカ山塊から流下するトゥリア川が形成する三角州低地にあり、地中海岸より約3キロメートルの河岸に位置する。人口73万8441(2001)。首都マドリード、バルセロナに次ぐスペイン第三の都市。1500年創立のバレンシア大学、美術館、多くの史跡があり、1238年以来大司教座の所在地。都市周辺の沃野(よくや)にかつてアラゴンの貴族、カタルーニャ人騎士や農民が入植したが、南部の地中海沿岸にはイスラム支配時代すでに定住が行われ、灌漑(かんがい)施設が整えられて米、果実などが栽培されていた。現在は13世紀以来の灌漑施設が充実され、灌漑畑ウエルタhuertaが広がる豊かな農業地域となっている。とくにオレンジ栽培が盛んで、大経営が多く、収穫期には多数の季節労働者が雇われる。南に広がる水田地帯は広大で、スペインでもっとも盛んな米作地帯をなす。当市はこれら農産物の一大集散地で、市街地の北3キロメートルにあるグラオ港から輸出される。製紙、化学、自動車、造船、繊維などの工業も立地している。
市街地は旧市街と新市街とからなり、旧市街には高さ65メートルの八角形の鐘楼ミゲレーテをもつゴシック様式の大聖堂、絹の取引所(1483~93)、宮殿(1586~94)や城門、スペイン有数の絵画コレクションをもつ県立美術館、国立陶器美術館などがある。新市街は道路沿いに発展し、大学も新しい部分はトゥリア川の左岸に建設されている。近年の人口増加により、旧市街も再開発が行われ、近代化されてきている。
バレンシア地方は地中海に面するスペイン東部の歴史的地方で面積2万3305平方キロメートル、人口416万2776(2001)。アリカンテ、カステリョン・デ・ラ・プラナ、バレンシアの3県からなる。カタルーニャの影響下にあったため、カタルーニャ語の一方言が話される。1983年より自治州を構成している。
[田辺 裕・滝沢由美子]
ギリシア人が紀元前3世紀ごろに、当市の近郊に交易のため植民市を建設したことに始まる。ローマ支配ののち、西ゴート人、イスラム教徒の支配を受け、11世紀以降はレコンキスタ(国土回復戦争)の重要目標となって、イスラム教徒、アラゴン王国、カスティーリャ王国の争奪戦が繰り返される。13世紀なかばにアラゴン王国への帰属が決まるとともに、バレンシア地域全体に特権が付与された。しかし、1519年の都市手工業者の反王権反乱が鎮圧され、17世紀初頭に農業を担っていた改宗キリスト教徒が追放されたため、商工業、農業ともに衰退した。18世紀初頭の王位継承戦争ではハプスブルク家カール大公を支持したため、ブルボン家フェリペ5世の勝利によって特権が剥奪(はくだつ)された。18世紀後半の経済発展は、19世紀の戦争と内乱によって停滞した。左翼勢力が強く、1936年のスペイン内戦では共和国側支配地域となり、中央政府がマドリードから一時移されたが、39年3月、フランコ側に占領された。
[中塚次郎]
南アメリカ、ベネズエラ北西部、カラボボ州の州都。海岸山脈の高原盆地の中心都市で、首都カラカスの西約130キロメートル、バレンシア湖の西岸に位置する。人口は133万8833(2000)で、首都カラカス、マラカイボに次ぐベネズエラ第三の都市である。1812~30年の間は同国の首都であった。オレンジ、カカオ、コーヒー、綿花の集散地であり、大理石、タバコ、セメントなどを産する。1555年に建設されたスペイン風の古い町で、ボリーバル中央広場、市民劇場、カラボボ大学などがある。この町にはアメリカ人やヨーロッパ人が多数住んでいるので、いくつかの国際学校がある。
[山本正三]
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スペイン東部の沿岸地方。カタルニャ語バレンシア方言を固有言語とする。同名の港都はスペイン第3の都市。1238年アラゴン連合王国のハイメ1世が再征服し,18世紀初めまで独自の政体を維持。灌漑農業と絹織物業で栄えたが,17世紀モリスコの追放で経済的に一時大きく衰退した。19世紀には柑橘類や米の栽培を盛んにし,輸出作物地域となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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