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アジアカップ あじあかっぷ

知恵蔵の解説

アジアカップ

アジアサッカー連盟(AFC)主催で、アジアのナショナルチームチャンピオンを決めるサッカー国際大会。
1954年にAFCが設立され、その2年後の56年、香港で第1回大会が開催された。優勝は韓国。以降4年に1度、ワールドカップの中間年に開催されてきたが、2007年の14回大会からは、ワールドカップの翌年の開催となった。1988年以降、アジアカップ優勝国には、各大陸選手権の優勝チームなどで争うFIFAコンフェデレーションズカップ(アジアカップの翌々年開催)への出場権が与えられている。
現在、アジアカップに出場するのは、前回大会上位3カ国と開催国、予選を勝ち抜いた国の計16チームで、各4チームの4グループでグループリーグを行い、各グループ上位の2チーム計8チームによる決勝トーナメントで優勝を争う。過去15回の優勝国は、日本4回、サウジアラビア、イラン各3回、韓国2回、イスラエル、クエート、イラク各1回。
日本は、80年代まで国内リーグ戦との日程調整が難しいことなどから、アジアカップを重視していなかったこともあり、不参加や参加しても上位に入ることができない年が続いていた。しかし、オフト監督が率いた1992年の広島大会で初優勝し、その後、2000年、04年、11年に優勝した。近年は、ワールドカップのプレ大会とされるFIFAコンフェデレーションズカップの出場権を得てアジアの代表となり、他地域の強豪国と対戦する機会を持てることなどから、アジアカップが重要な大会と位置づけられている。
第16回大会は、15年1月9日から1月31日の期間、オーストラリアのシドニー、ニューカッスル、ブリスベン、キャンベラ、メルボルンの5都市で開催。オーストラリアは、06年にオセアニアサッカー連盟(OFC)からAFCに転籍しており、今回がオーストラリアでは初のアジアカップ開催となる。日本代表チームは、1次リーグを全勝して決勝トーナメントに進んだが、準々決勝の1回戦でUAE代表チームと対戦し、1対1の同点から延長でも決着がつかず、ペナルティキック(PK)戦の末に敗れた。優勝はオーストラリア。

(葛西奈津子 フリーランスライター / 2015年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アジアカップ
あじあかっぷ

アジアのナショナル・チームの王者を決めるサッカーの国際大会。4年ごとに開催される。隣接地域で組まれる予選を勝ち抜いたチームが出場して決勝大会を行う。「アジア版ワールドカップ」といえるもので、決勝大会の開催国は毎回変わる。
 日本は1980年代までこの大会にあまり力を入れてこなかったが、初めて地元で開催した1992年(平成4)広島大会で初優勝、2000年のレバノン大会、2004年の中国大会と連覇して、イラン、サウジアラビアと並ぶ3回目の優勝を達成した。
 過去13回の大会、この3チーム以外の優勝は、韓国(2回)、イスラエル、クウェート(それぞれ1回)の3チームにすぎない。
 これまではワールドカップの中間年、すなわち夏季オリンピックの年に開催されてきたが、アジアサッカー連盟(AFC)は第14回大会を1年早めて2007年に開催し、以後、ワールドカップの翌年に開催することにした。[大住良之]

歴史

ヨーロッパ列強の支配と戦争による混乱からアジア各国が立ち上がりかけていた1951年、インドのニュー・デリーで第1回アジア競技大会が開催され、アジアの国々に大きな勇気を与えた。そして、その大会で絶大な人気を得たのがサッカーであった。1954年、第2回アジア競技大会がフィリピンのマニラで開催されたとき、各国のサッカー関係者は「アジア・サッカー連盟(AFC)」の設立を決議した。
 AFCはさっそく、独自の選手権開催の準備を始めた。「アジアカップ」と名づけられたこの大会は、オリンピックと同様にアマチュアだけの大会であったアジア競技大会に対し、ワールドカップにならってプロ選手も出場できるところに特徴があった。ただし当時のアジアには、ほんのひと握りしか「プロ」はいなかった。また、エントリーした全チームが出場できるアジア競技大会に対し、アジアカップは予選を行うこととした。
 第1回アジアカップには10チームがエントリー、予選を勝ち抜いた4チームが出場して1956年9月に香港(ホンコン)で決勝大会が行われた。大会の方式は、1回戦総当たりのリーグ戦の後に1位と2位で決勝戦を行うものであった。決勝では韓国とイスラエルが当たり、韓国が2対1で勝って初代の「アジア・チャンピオン」となった。1960年の第2回大会は韓国で開催され、決勝はまたも韓国対イスラエルとなり、韓国が3対0で勝って連覇を飾った。1964年の第3回大会は、イスラエルで行われ、イスラエルがインドを2対0で降して、ようやく優勝カップを手にした。韓国は3位にとどまった。
 1968年の第4回大会に、初めて日本がエントリーする。1967年7月から8月にかけて台北(たいほく/タイペイ)で行われた予選第3組に出場したが、最強チームを送ったわけではなかった。オリンピック・メキシコ大会予選を控えたA代表はヨーロッパ遠征に出かけていたため、コーチの平木隆三(ひらきりゅうぞう)(1931―2008)を実質的な監督とするB代表が出場した。後に日本代表の中心になる落合弘(1946― )らが参加、韓国に2対1で勝つという快挙を成し遂げたが、台湾と2対2で引き分け、得失点差で2位になって決勝大会出場を逃した。
 第4回決勝大会はイランで開催され、地元イランがビルマを3対1で降して優勝した。そしてここからイランの3連覇が始まる。1972年にタイで開催された第5回大会は決勝で韓国を2対1で破り、ふたたび決勝大会を地元で開催した1976年の第6回大会では、クウェートを1対0で降して3連覇を成し遂げた。決勝大会は、1972年から6チームが出場し、3チームずつ2グループに分けて一次リーグを行い、両グループの上位2チームが準決勝、決勝へと進む方式となった。この第6回大会には日本が2回目のエントリーをし、初めてA代表で出場している。1975年6月に香港で行われた予選第4組、負傷の釜本邦茂(かまもとくにしげ)は欠場したが、ベテラン森孝慈(もりたかじ)、落合弘、大仁邦彌(だいにくにや)(1944― )らのリードで若い永井良和(ながいよしかず)(1952― )、藤口光紀(ふじぐちみつのり)(1949― )らが縦横に走り、準決勝に進出、惜しくも中国に1対2で敗れた。
 しかし日本のアジアカップへの意欲は続かなかった。理由は日本リーグを中心とした国内日程と、ヨーロッパに目を向けた強化方針であった。毎年数十日間のヨーロッパ遠征を行ったことでリーグのシーズンが制限され、予選に参加できなかったのだ。日本と対照的だったのが韓国で、この大会をはじめアジアの諸大会に片っ端から出場、東南アジアや西アジアなど、気候も食事も大きく違うなかで勝負をかけた試合を展開してきたことが、1980年代の半ばからワールドカップ5大会連続出場という韓国サッカーの強さをつくりだした。
 1980年の第7回大会から、決勝大会は10チームの参加で行われ、5チームずつ2グループの一次リーグとなった。クウェートで行われた決勝大会では、地元クウェートが決勝で韓国を3対0で降し、初優勝。1984年の第8回大会はシンガポールで開催され、サウジアラビアが初優勝を飾った。この大会から「サウジアラビア時代」が始まり、2000年大会まで5大会連続で決勝に進出、うち3回優勝している。
 1988年の第9回大会、久々にエントリーした日本は、その年の4月にクアラ・ルンプール(マレーシア)で行われた第1組の予選に大学生を中心に構成されたB代表を送った。監督山口芳忠(1944― )率いる若いチームは、クウェートには0対1で敗れたものの、ヨルダンと1対1で引分け、地元マレーシアに1対0、パキスタンには4対1で勝って2位になり、初めての決勝大会出場権を獲得した。12月にカタールのドーハで開催された決勝大会にもほぼ同じチームで出場、初戦でイランに0対0で引分ける健闘をみせたものの、その後は韓国に0対2、アラブ首長国連邦(UAE)に0対1、カタールに0対3と3連敗し、結局、1ゴールも記録できず、グループ最下位に終わった。このチームには、ディフェンダー(DF)井原正巳(いはらまさみ)(1967― )、フォワード(FW)中山雅史(なかやままさし)(1967― )、高木琢也(たかぎたくや)(1967― )など、後に日本代表の中心となって活躍する選手たちがいた。
 優勝はサウジアラビア。決勝は韓国と0対0だったが、ペナルティー・キック(PK)戦4対3で勝ち、連覇を飾った。
 そして1992年広島大会、Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)の本格スタートを翌1993年に控え、この年から「ナビスコ杯」が始まって、1節ごとに日本国内でのサッカー人気が高まっていた。最高の雰囲気のなかで、ナビスコ杯を中断する形で、10月末から11月にかけて大会が行われた。出場は8チーム。日本はUAE、北朝鮮、イランとA組になった。この年の2月、監督にオランダのハンス・オフト(1947― )が就任、短期間のうちにチームを強化して8月には北京(ペキン)で開催されたダイナスティーカップで優勝を飾っていた。最初は日本に固さがみられた。UAEと0対0で引分け、第2戦も北朝鮮に先制されて苦しんだが、残り9分で中山雅史が同点のヘディングシュートを決めてようやく引分けに持ち込んだ。そして勝たなければならないイラン戦、守りを固める相手を攻めあぐんだが、残り5分で井原正巳のパスから三浦知良(みうらかずよし)(1967― )が抜け出し、渾身のシュートを決めて劇的な勝利をもたらした。
 準決勝の相手は中国であった。キックオフわずか35秒で先制点を喫したが、後半3分に福田正博(1966― )、12分に北澤豪(きたざわつよし)(1968― )が得点して逆転に成功、しかしその3分後、ゴールキーパー(GK)松永成立(まつながしげたつ)(1962― )が退場処分となる。そして同点ゴールを許す。この苦境を救ったのが、「攻めて勝つ」という日本の積極的な姿勢だった。10人になっても攻撃的なプレーを続け、終了3分前、福田のクロスを中山がヘッドで決めて決勝ゴールとした。
 決勝戦は3連覇をねらうサウジアラビアと対戦した。しかしミッドフィルダー(
MF)ラモス瑠偉(るい)(1957― )、DF柱谷哲二(はしらたにてつじ)(1964― )を中心とするチームは万全の戦いをみせ、前半37分、三浦知良のクロスを受けた高木琢也が落ち着いて決めた1点を守って1対0の勝利、日本サッカーに初めての「アジア・タイトル」をもたらした。
 1996年の決勝大会はUAEで開催された。前回優勝チームとして予選なしで出場した日本は、監督加茂周(かもしゅう)(1939― )の下、連覇をねらったが、この大会から導入された準々決勝でクウェートに0対2の敗戦を喫した。タイトルはサウジアラビアが取り戻した。
 2000年、日本はシンガポール、ブルネイ、マカオと組んだ予選を得点15、失点0で楽々と突破してレバノンで開催された第12回決勝大会に臨んだ。2002年に地元開催のワールドカップを控える日本は、2001年には世界の強豪を相手に強化を進める方針をとっており、監督フィリップ・トルシエ(1955― )は「そのためにも絶対に優勝しなければならない」と宣言した。大会初戦の相手は4回目の優勝を目ざすサウジアラビアであったが、日本がアジアでも飛び抜けた力をもっていることを証明する試合になった。前半26分に柳沢敦(やなぎさわあつし)(1977― )が先制ゴールを決めると、高原直泰(たかはらなおひろ)(1979― )、名波浩(ななみひろし)(1972― )、小野伸二(1979― )がたたみかけ、4対1の大差でこの強豪を降してしまったのだ。続くウズベキスタンには8対1の大勝、はやばやと準々決勝進出を決め、カタールとは1対1で引分けたが、準々決勝ではイラクに4対1、準決勝では中国に3対2で勝って決勝に進出した。
 サウジアラビアは初戦大敗後に監督を交代し、守備を強化して決勝戦に臨んできた。日本は相手のロングキックにペースを狂わされる。しかし前半29分に中村俊輔(なかむらしゅんすけ)のフリーキック(FK)から望月重良(もちづきしげよし)(1973― )が決めて先制し、後半は防戦に追い込まれたが、GK川口能活(かわぐちよしかつ)がみごとなセーブをみせ、また森岡隆三(もりおかりゅうぞう)(1975― )を中心とする守備陣も最後まで粘って1対0のまま試合終了、2回目の優勝を飾った。西アジアで行われた決勝大会で、西アジア以外のチームが優勝したのは初めてのことである。大会の最優秀選手(MVP)には、全試合にフル出場してチームの牽引(けんいん)車となった名波浩が選ばれた。
 2004年の第13回決勝大会、前回優勝の日本は予選を免除されて中国で開催された大会に出場した。しかしこの年は負傷者が続出、オリンピック・アテネ大会の開会も迫っていたことで、監督ジーコは何人もの主力選手を連れて行くことができず、苦戦の連続となった。
 一次リーグ初戦の相手はオマーン。この年に進行していたワールドカップ・アジア第一次予選のライバルでもあった。相手に攻め込まれ、苦しい時間が続いたが、中村俊輔の個人技によるゴールでなんとか1対0で勝利をつかんだ。その後はタイに4対1、強豪イランとも0対0で引分けて、首位でグループを通過した。
 日本が入ったD組の試合会場となった重慶(じゅうけい/チョンチン)は高温多湿で、サッカーに向いた気候とはいいがたかった。それだけでなく、地元ファンは日本に終始ブーイングを浴びせ、反日感情むき出しのなかで、選手たちは精神的にも苦しい戦いを強いられた。
 準々決勝の相手はヨルダン。疲労のピークにあった日本は攻めきれず、1対1のままペナルティー・キック(PK)戦に突入。その1番手中村俊輔と2番手三都主(さんとす)アレサンドロ(1977― )が立ち足を滑らせて大きく外すと、キャプテンの宮本恒靖(みやもとつねやす)(1977― )は静かに主審サレー(マレーシア)のところに歩み寄り、「逆側のゴールは足場がいいのでかえてほしい」と嘆願すると、主審も納得してゴールをかえるという前代未聞のハプニングがあった。その後、ゴールキーパー(GK)川口能活が奇跡的なセーブを連発して2人のキックを止め、結局、4対3で日本が競り勝ち、準決勝に進出した。
 バーレーンと対戦した準決勝も苦戦であった。1点をリードされた前半40分に遠藤保仁(えんどうやすひと)が退場になり、以後を10人で戦わなければならなかった。後半、一度は同点、逆転したものの、バーレーンに連続得点を許して2対3。しかしロスタイム突入直前に中澤佑二(なかざわゆうじ)が起死回生のヘディングシュートを決め、2試合連続して延長戦に突入。そして延長前半3分、宮本のパスを受けて抜け出した玉田圭司(たまだけいじ)が決勝ゴールを決め、ようやく4対3で勝利を収めた。
 北京(ペキン)で行われた中国との決勝戦は、うって変わって精神的に楽な展開となった。地元の初優勝を願う6万人の大観衆の前で中国が緊張して動けず、日本は冷静に試合を進めて3対1の勝利をつかんだのである。大会の最優秀選手には中村が選ばれた。
 暑さと絶え間のないブーイングにさらされて戦った6試合。なかなか思いどおりの試合ができないなか、選手たちはどんな状況でも最後まで冷静に戦い抜くという監督ジーコのモットーを、身をもって実践した。何人もの主力を欠いて落ちた攻撃力も、コーナーキック(CK)やフリーキック(FK)を生かした得点を量産することでみごとにカバーした。サッカーとしては苦戦の連続であったが、選手のメンタリティーを強化し、チームの結束を強固にするという面で、「ジーコ時代の日本代表」にとって重要な意味をもつ大会となった。[大住良之]
 2007年大会はマレーシア、タイ、インドネシア、ベトナムの4か国による史上初の共同開催であった。日本の監督はイビチャ・オシム(1941― )で、予選のグループB(日本、ベトナム、UAE、カタール)を首位で突破、準々決勝で大会初参加のオーストラリアと対戦、1対1で引分けたあとのPK戦に勝ち、準決勝に進出した。しかし、準決勝でサウジアラビアに2対3で敗れ、3位決定戦でも韓国に0対0の引分け後のPK戦で敗れ、4位にとどまった。イラクが優勝を飾り、2位はサウジアラビアであった。
 2011年大会、日本は監督アルベルト・ザッケローニ(1953― )のもとで試合に臨んだ。前年に行われた予選ではグループA(日本、バーレーン、イエメン、香港)に入り、バーレーンに負けたものの、5勝1敗で首位通過した。本大会はカタールのドーハで行われ、グループリーグではグループB(日本、ヨルダン、シリア、サウジアラビア)に入り、初戦のヨルダン戦で引分けたが、残り2試合に勝ち、首位で通過した。決勝トーナメントの準々決勝はカタールに3対2で勝ち、準決勝では韓国と2対2で引分けたが、PK戦で勝利した。決勝戦では延長戦のすえ、オーストラリアを1対0で破り、4回目の優勝を飾った。MVPには本田圭佑(ほんだけいすけ)が選ばれた。2位はオーストラリア、3位韓国、4位ウズベキスタンとなった。[編集部]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

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