基本情報
正式名称=ウズベキスタン共和国Ozbekistan Jumhuriyäti/Republic of Uzbekistan
面積=44万7400km2
人口(2011)=2780万人
首都=タシケントTashkent(日本との時差=-4時間)
主要言語=ウズベク語(公用語),ロシア語
通貨=スムSum
独立国家共同体(CIS)を構成する中央アジアの共和国。旧ソ連邦を構成したウズベク・ソビエト社会主義共和国が1991年独立し,改称したもの。CIS諸国のうち,面積は4位であるが,人口はロシア,ウクライナに次ぎ3番目,中央アジア5共和国の人口の42%を占めるばかりでなく,経済的にも中核をなしている。カラカルパクスタン自治共和国をなかに含む。
自然,社会
古くからこの地域はウズベキスタンと呼ばれてきたが,その大部分はトゥラン低地でキジルクム砂漠であるが,東部と南部に天山,ギサル,アライ山脈があり,その間にフェルガナ,ゼラフシャン,チルチク,アングレン等の盆地があり,アム・ダリヤ,シル・ダリヤの支流,ゼラフシャン川等による灌漑農業が行われている。気候は大陸的で雨量は少なく乾燥している。このような自然条件は綿花栽培に適している。革命当時は原住諸民族の労働者はわずかであったが,1970年代末には工業部門で労働者の36.2%(1977)がウズベク人等原住諸民族によって占められていた。その内訳は男20.8%,女15.4%である。女性の地位は1920年代後半以降根本的変化を遂げた。しかしまだ,農村部では6割以上の女性が家事労働にたずさわっている。
共和国の民族構成はウズベク人71.4%,ロシア人8.4%,タジク人4.7%,カザフ人4.1%,タタール人2.4%,カラカルパク人2.1%,朝鮮人0.9%(スターリンによる強制移住で,1937年にロシア極東から中央アジアに追放された朝鮮人の多くがこの地にいる)などである(1989)。ソ連解体後ロシア人がロシアなどへ移住し,1993年6.9%と減少,ウズベク人が74.5%となった。なお,タジク人はサマルカンド,ブハラなどに多く住んでいる。また人口は,1926年466万,39年644万であったが,59年812万,95年2256万と,この70年に5倍に増大している。これは出生率の高さと死亡率の低下によるもので自然増加率は1000人当り22.8(1994)と,ロシアの-6.1と際だった対照をなしている。また,灌漑農業が行われている諸州では人口が密集しており,たとえば,アンディジャン州の人口密度はモスクワ州を抜いている。
中央アジアでは1928-29年にラテン文字が採用されたが,39-40年以後はロシア文字をもとにした文字が使用され,独立後はふたたびラテン文字にもどしている。1913年2.9%であった識字率は現在は100%に近い。87年に153万6000人の中・高等教育をうけた専門家が働いている。それでも工業化があまりに急速であるため有資格労働者養成がまにあわず,生産の発展を妨げる要因の一つとなっているほどである。医者の数は91年7万5000人で1万人当り35.5人である。
歴史
ウズベキスタンではコーカンド,ヒバ,ブハラの3ハーン国が相争っていたが,ロシアは19世紀後半,コーカンド・ハーン国を滅ぼし,ついでヒバ,ブハラ両ハーン国を保護国とした(19世紀以前の歴史については,〈ウズベク族〉の項目を参照されたい)。1867年にはタシケントに総督府をおき,鉄道を敷き,綿花栽培を中心とする植民地とした。第1次世界大戦中の1916年後半の戦時後方労働への徴集反対の中央アジア大反乱が鎮圧されてまもなく,17年二月革命によって帝政ロシアは崩壊し,この地域には臨時政府のトルキスタン委員会と並んで,ロシア人の鉄道労働者を中核としてタシケント労兵ソビエトが成立したが,そのほかにジャディド(ジャディディズム)とウラマー(イスラム学者,宗教指導者)を中心にムスリム(イスラム教徒)の結集が試みられた。ジャディドはイスラム社会の近代化を実務的な口語教育の普及によって達成しようとして活動してきたグループで,青年トルコ党の革命に影響を受けていた。十月革命後,タシケントのソビエト政府は11月に成立したが,ムスリム勢力は別にコーカンドで政府を建てる。ソビエト政府はこの〈コーカンド自治政府〉を18年2月に倒し,5月にトルキスタン自治共和国成立を宣言する。国内戦・干渉戦のなかではロシア中央部から切り離されたが,19年末には孤立を脱し,ロシア人労働者の大ロシア民族主義と,ムスリムのパン・イスラム主義,地方民族主義の双方の抑制がはかられる。20年以降は,ヒバ,ブハラ両ハーン国の地域を拠点とする農民のバスマチ運動との戦いがつづいた。ヒバ・ハーン国では18年トルクメンのジュナイド・ハーンが独裁をしき,ウズベク農民を抑圧していたが,革命によって20年4月ホラズム人民ソビエト共和国が成立,23年10月に社会主義共和国となった。ブハラ・ハーン国でも20年夏の革命によって青年ブハラ党が政権をとり,10月にブハラ人民ソビエト共和国,24年9月ブハラ・ソビエト社会主義共和国となった。そして同年10月,トルキスタン,ホラズム,ブハラ3共和国の領域の民族的境界画定によってトルクメン・ソビエト社会主義共和国とともにウズベク・ソビエト社会主義共和国が成立する。
経済
ウズベキスタンでは,1926-29年の土地・水利改革と,ひきつづく農業経営の全面的集団化によって,バイ(地主)やムラー(ウラマー)の政治的・経済的・文化的影響力は完全になくなった。28-40年,綿花精製工業生産は3.5倍以上,搾油は3倍弱と綿花の第1次加工部門が発展したが,その比率は機械製作,金属加工,繊維,食品等の部門の建設によって86.7%から38%へ下がった。トルクシブ(トルキスタン・シベリア)鉄道も開通し,直接シベリアと結ばれた。第2次大戦中はソ連邦の西部地域から,機械製作・鉄鋼業等の多くの大工場が疎開され,重工業の比率は1940年の13.3%から45年47.3%へ急増した。発電量は3倍,石炭3倍,石油4倍であった。戦後は戦前・戦中の建設を土台として全面的な工業化が進められ,60年代以降は天然ガス,非鉄金属などの採掘・加工の面でも飛躍的な発展を遂げ,綿花精製,綿実油搾油加工,紡績,製糸,織物等綿花関係を中心としているが,機械製作,金属加工,軽工業,食品工業等も発展している。
農業は綿花生産に重点がおかれ,その生産量は529万t(1989)で,ソ連全体の6割を占めた。綿花は革命前から栽培されていたが,革命後はさらに力を注がれ,1ha当りの収穫量も1924年の780kgから80年には3320kgへと増大した。しかし,綿花栽培の灌漑のためアム・ダリヤ,シル・ダリヤ両河からの大規模な運河建設をおこなったため,アラル海が干上がり,塩分増大で漁業ができなくなり,大きな環境問題となっている。その他の農業生産物としては,米,小麦,カラクリ羊,絹などがあり,果樹栽培もさかんである。
独立前後の動き
ペレストロイカ期には,独立と民主化をめざし,民族文化の振興や綿作モノカルチャーに起因する環境問題への対策を要求する人民戦線運動〈ビルリクBirlik〉(〈統一〉の意)が1988年11月発足したが(90年2月にはビルリクから穏健派が分かれて〈エルクErk〉を結成),ビルリクは当局から弾圧されていた。91年モスクワでの8月クーデタの失敗後,ウズベキスタンとして同年8月31日に独立を宣言し,9月1日を独立記念日と定めた。もとウズベク共産党第一書記であったカリモフ大統領と,共産党を改称した人民民主党の政府は,反対派の一掃を図っている(91年末の大統領選ではビルリク党の候補登録は不認可,エルクの候補が次点となったが,以後は封じ込めの対象となっている)。なお,イスラムはかなりの勢力をもっているが,宗教政党は禁止されている。
92年1月価格自由化政策を導入したが,市場経済化は政府の統制の下に行われており,生産の落込みは少ない。通貨は1994年7月1日からスムSumを使用している。1992年1月に中国,2月にアメリカと国交を開き,3月に国連に加盟した。すでに韓国の〈大宇〉との合弁会社が生産した自動車が走っている。日本は93年にタシケントに大使館をおいた。
中央アジア5ヵ国のなかでも人口が多く,経済的比重はもっと大きく,天然資源にも恵まれているこの国は,将来の中央アジアの中心的な国として,重要な役割を果たすであろう。
→ウズベク族
執筆者:木村 英亮