目次 近代オリンピック オリンピックの復興とIOC オリンピック憲章 IOC NOC オリンピック・アカデミー オリンピックのしくみ 競技種目 旗と標語 開催都市 参加資格 表彰 オリンピックと政治,人種問題 中国問題 ドイツ,朝鮮の合同チーム問題 人種問題 オリンピックの歴史 古代オリンピック 近代オリンピック概史 第1期(1896-1912) 第2期(1920-36) 第3期(1948-64) 第4期(1968-80) 第5期(1984- ) オリンピック競技大会Olympic Gamesの略称。日本では〈五輪〉とも表記する。国際オリンピック委員会International Olympic Committee(略称IOC)が主催する国際総合スポーツ大会。各国(地域を含む)のオリンピック委員会National Olympic Committee(略称NOC)が参加し,競技はそれぞれの国際競技連盟 International Sport Federation(略称IF)が管理する。1896年ギリシアのアテネで第1回大会が行われ,以後4年に1度開催される。大会開催の年から次の大会の前年までの4年間を,古代オリンピックにちなんでオリンピアードOlympiadと呼ぶ(なお,古代オリンピックについては,後出〈オリンピックの歴史〉を参照されたい)。96年を第1オリンピアードの第1年と定め,オリンピック大会は各オリンピアードの第1年に開く。何らかの事情でその年の開催が不能になっても,そのオリンピアードでは開催を中止し,次期オリンピアードの第1年に譲る(例えば,1916年の第6回,40年の第12回,44年の第13回はいずれも戦争で中止)。1924年2月,シャモニー・モンブラン(フランス)で,第8回オリンピック・パリ大会の一部として,スキーとスケートの競技が行われたが,IOCは25年の総会で,冬季競技を分離独立させることを決定。前年のシャモニー・モンブランの大会を第1回オリンピック冬季大会Olympic Winter Gamesとし,以後,オリンピック大会の開催年に冬季大会を開くことになった。冬季大会の回数はオリンピック大会とは別に数え,中止された大会は回数に加えない。
近代オリンピック オリンピックの復興とIOC フランスの教育学者クーベルタン 男爵の〈スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために,古代オリンピックを復興しよう〉という呼びかけに応じ,1894年6月23日,パリ大学(ソルボンヌ)講堂で開催されたフランス・スポーツ連盟主催の国際スポーツ会議で,オリンピックの復興が全会一致で決定し,13ヵ国から選ばれた15人をメンバーとするIOCが創立され,クーベルタンの推薦で,ギリシアのビケラスDemétrios Vikélasが初代会長に就任,近代オリンピアードの第1年を96年とし,第1回大会を古代オリンピックがオリュンピア (ギリシア)で行われていたことを記念して,ギリシアの首都アテネで開催することを決めた。第1回大会終了後,クーベルタンが第2代会長に就任,多くの困難と闘いながら1925年まで在任し,オリンピック運動を軌道に乗せた。オリンピックの理想を追求するオリンピック運動の原則をオリンピズムOlympismと呼ぶ。
オリンピック憲章 IOCのオリンピック憲章Olympic Charterは,第1章の〈根本原則〉で,オリンピック運動の目的を次のように定めている。(1)スポーツの基調となる身体的・道徳的資質の発達を促進する。(2)青少年にスポーツを通じて相互のよりよき理解と友好の精神を教育し,それによって,よりよき,より平和な世界の建設に寄与する。(3)世界にオリンピックの原則を普及し,それによって国際親善を喚起する。(4)世界のアスリート(競技者)を4年に1度の偉大なスポーツ祭典,オリンピック大会に集結させる。
IOC 国際オリンピック委員会(IOC)はIOC委員によって構成される。IOC委員はIOC総会で選任される。その特徴は,たとえ各国NOCの推薦した人物であっても,そのNOCの代表ではなく,IOCがみずから選任し,その所属国,地域に対するIOCの代表とみなされる点にある。したがってIOC委員はつねにその自主性を堅持し,その所属国,地域の政府や民間組織からいかなる指示も受けてはならないとされている。IOC委員は原則として1国1地域1人で,オリンピックに貢献のあった国,地域からは2人まで選任されていたが,1992年から会長推薦枠が2名設けられ,その後10名にまで拡大。これにより,イタリアとスイスは97年現在4名の委員を有している。65年以後に就任した委員は72歳を定年としていた点も,85年には75歳に,95年の第104次総会では80歳に引き上げられている。委員数は1894年の創立当時13人だったが,1912年に30人,36年に50人,60年に60人,80年に80人をそれぞれ超え,82年にはフィンランドとベネズエラからそれぞれ1人の女性委員が初めて加わった。その後委員は増え続け,97年の第106次総会現在,会長も含め総数は111名で,内女性は10名である。また,年次総会ごとに1名改選している副会長に初の女性委員も選出された。
IOC総会は世界の各国を巡回して毎年1回,オリンピックの開催年度には冬と夏の開催都市で各1回開催される。総会は投票で会長1人(任期8年,2期目以降4年),副会長4人(任期4年),理事6人(任期4年)を選出する。理事会および理事会とNOC,理事会と国際競技連盟(IF)の合同会議は随時開催される。
IOCは,(1)スポーツとスポーツ競技会の組織化と発展を推進し,(2)オリンピックの理想に沿ってスポーツを発展させ,それによって各国スポーツマンの友好を強化し,(3)オリンピック大会の開催を確保し,(4)クーベルタンとその同志によって復興されたオリンピック大会の栄光ある歴史と高潔な理想をいっそう価値あるものにすることを目的とする。
IOCは国際法に基づく永続的な非営利団体で,国連から非政府機関として認知されており,本部と事務局はローザンヌ(スイス)に常設されている。IOCには理事会の諮問機関として,次の各種専門委員会がある。(1)オリンピック・アカデミー,(2)参加資格,(3)競技者,(4)芸術文化,(5)財務,(6)医事,(7)報道,(8)プログラム,(9)連帯事業,(10)テレビ,(11)表彰。
IOCは総会とは別に,不定期にオリンピック会議 Olympic Congressを開催する。1930年以来中絶していたが,73年バルナ(ブルガリア)で43年ぶりに第10回の会議が開催され,IOC委員のほかNOC,IFの代表も参加し,〈オリンピックの未来像〉をメーンテーマに討議が行われた。81年バーデン・バーデン (西ドイツ)で開催されたオリンピック会議のテーマは,〈オリンピックの未来像〉と〈スポーツによる国際連帯〉だったが,初めて国連とユネスコからも代表が出席し,また初めて選手代表も参加した。13年振りとなった第12回目は,オリンピック100周年を記念して94年パリで開催。四つのテーマに約400名が意見を発表した。
NOC IOCに加盟できるのは,独立国および継続的に行政が施行されている一定の地域に組織された国内オリンピック委員会(NOC)である。NOCとして公認されるためには,その組織内に少なくとも5競技の国際競技連盟(IF)に加盟した国内競技連盟(NF)が存在し,そのうち3競技はオリンピック・プログラムに含まれていなくてはならない。NOCの規定はオリンピック憲章に準拠し,NOCが独立自主団体で,いかなる政治的・経済的圧力にも屈従しないことが明記され,NOCを構成するメンバーに政府関係者を加えてはならない。NOCがオリンピックなどで使用する旗,歌,表章はIOC理事会の承認を受けねばならない。NOCは1960年代のアフリカ植民地独立とともに急増し,スポーツの世界的な広がりを反映して,97年10月現在198の国と地域が加盟。NOCの連絡機構としてNOC協会(ACNO)がある。本部はメキシコ市。
IOCはオリンピック大会でナショナリズムが過熱するのを防ぐため,憲章でオリンピックの競技は国と国との対抗競技ではなく,したがって成績順位による得点制は認めないことを規定している。メダル獲得数の参加国別順位もIOCとしては作成発表しない。
オリンピック・アカデミー 1961年,IOCが協賛し,ギリシアNOCが管理して,オリンピアに〈オリンピック・アカデミー〉が開設された。毎年夏,各国NOCが推薦する35歳以下のスポーツ指導者,学者,研究者を集めて講習会を開催し,オリンピック運動の理念,古代オリンピック史,スポーツの文化的意義などをテーマに,研究発表,講演,シンポジウムなどを行っている。 →オリンピック委員会
オリンピックのしくみ 競技種目 IOCはオリンピック大会および冬季大会のプログラムに含まれるスポーツとして,次の32競技の国際連盟を公認している(かっこ内はIFの略称)。陸上競技(IAAF),漕艇(FISA),バスケットボール(FIBA),ボクシング(AIBA),カヌー(ICF),自転車競技(FIAC),馬術(FEI),フェンシング(FIE),サッカー(FIFA),体操(FIG),ウェイトリフティング (IWF),ハンドボール(IHF),ホッケー(FIH),柔道(IJF),レスリング(FILA),水泳(FINA),テニス(ITF),卓球(ITTF),射撃(UIT),アーチェリー(FITA),バレーボール(FIVB),ヨット(IYRU),バドミントン(IBF),野球(AINBA),ソフトボール(ISF),近代五種・バイアスロン(UIPMB),アイスホッケー(IIHF),ボブスレー・トボガニング(FIBT),リュージュ(FIL),スケート(ISU),スキー(FIS),カーリング(ICF)。
以上のうち,オリンピック大会では15競技以上,冬季大会ではバイアスロン以下の全競技が行われる。IFがIOCに公認され,オリンピック大会のプログラムに加えられるためには,そのスポーツが男子の場合少なくとも3大陸で50ヵ国,女子の場合少なくとも3大陸35ヵ国で行われていなくてはならない。冬季大会では男女とも少なくとも3大陸25ヵ国で行われているスポーツのIFが公認され,大会プログラムに加わることができる。オリンピック大会および冬季大会では,正規のプログラムのほか開催都市の選択する2種類のスポーツをデモンストレーション・スポーツとして行うことができる。また大会の会期中に開催国の文化を紹介する芸術展示会を開催することができる。IOCはその内容として,文学,建築,絵画,彫刻,音楽,写真,スポーツにちなむ郵便切手などのほか,演劇,オペラ,シンフォニー,バレエなどをあげている。
旗と標語 オリンピックの旗は縁取りのない白地に,向かって左から青,黄,黒,緑,赤の5色の輪をW型に組み合わせて描いてある。この五輪(オリンピック・リングス)はオリンピック運動のシンボルマークである。この旗はクーベルタンの創案で,1914年パリで開かれたIOC創立20周年記念式典のとき,来会者に小旗が配布されて初めて公表された。オリンピック大会では,20年の第7回アントワープ大会の会場に初めて掲揚され,そのときベルギー・オリンピック委員会が作製してIOCに寄贈した旗は,オリンピック大会のシンボルとして開催都市に順次引き継がれている。36年ロサンゼルスからベルリンへ渡された旗は,戦後ベルリンのドイツ国立銀行焼け跡の地下室で発見され,48年ロンドンで開催の第14回大会に無事な姿を現した。また冬季大会の旗は,52年にオスロ市が寄贈したものである。
オリンピックの標語は,ラテン語で〈Citius,Altius,Fortius (より速く,より高く,より強く)〉である。これはクーベルタンと親交のあったフランスの神父ディドンHenri-Martin Didonが,ルアーブルの高等学校で生徒に与えたことばとされている。オリンピックの旗,シンボルマーク,標語は,いずれもIOCの所有に属し,IOCの許可を得ずに使用することはできない。
開催都市 オリンピック大会と冬季大会の開催都市は,開催年度の7年前にIOC総会で決定する。大会の開催権は1都市に与えられるが,IOCの承認があれば,一部の競技を同一国内の他の都市に分散することもできる。立候補した都市については,IOC理事会で審査し,適格と認めたものを総会に提出する。総会は各都市の説明を聞き,投票で選定する。オリンピック都市Olympic Cityとして指定された都市は,その国のNOCと協議してオリンピック組織委員会(OGOC)を設立し,IOCの代行者として大会の準備運営に当たる。
参加資格 IOCはオリンピック大会と冬季大会に参加する競技者(アスリート)を,とくに〈オリンピック・コンペティター(オリンピック競技者)〉と呼ぶ。IOC憲章はオリンピック競技者の資格として,(1)IOCとIFのルールを誠実に順守すること,(2)IFのルールに従い,NOCとNFの承認なしに,スポーツに参加することで金銭的報酬を得たことがないことの2条件をあげているが,どのような場合に金銭の取得が許されるのか,その細目はすべてIFのルールにゆだねられている。アマチュアリズム にもっとも厳格とされた国際陸上競技連盟 (IAAF)が,1982年そのルールを改正し,IAAFの公認する競技会に限り,選手が出演料や報奨金を受け取り,それを各国陸上競技連盟が設ける競技者基金に寄託することを認可したので,金銭取得の禁止を主眼としたアマチュアリズムは大きく崩れ,その他のIFにも波及して,オリンピック参加資格に画期的な変化をもたらした。なお,後出〈近代オリンピック概史〉の〈第4期〉の記述を参照されたい。
表彰 オリンピック大会と冬季大会では,各競技種目の1位から8位までを入賞者とし,1位には金メダルとディプロマ(賞状),2位には銀メダルとディプロマ,3位には銅メダルとディプロマ,4位から8位までにはディプロマが授与される。オリンピック大会のメダルは,1928年の第9回アムステルダム大会 以来同一のデザインで,冬季大会のメダルは各回ごとに異なったデザインである。表彰式には3位まで(チームは全員)が出席し,表彰台の中央に1位,その右側(向かって左)に2位,左側(向かって右)に3位が登壇してメダルを受ける。60年の第17回ローマ大会から,メダルには鎖またはリボンをつけ,選手の首から胸にかけることになった。IOCは74年〈オリンピック功労章Olympic Order〉を制定,オリンピック運動の功労者に贈ることになった。金,銀,銅の序列がある。
オリンピックと政治,人種問題 オリンピック憲章は根本原則の第3条で,〈いかなる国または個人に対しても,人種,宗教または政治的な理由で差別することは許されない〉と規定している。創立以来の鉄則だが,この原則が初めて発動したのは,1936年の第11回オリンピック・ベルリン大会のときであった。IOCは,ヒトラー政府のユダヤ人迫害に抗議し,ベルリンで大会を開催する条件として,オリンピックに参加する選手,役員からユダヤ人を差別しないという誓約をヒトラー政府よりとりつけ,大会期間中,会場の内外で政治的な演説や政治的な標語の掲示を禁止した。62年,ジャカルタ(インドネシア)で,IOC協賛のアジア競技大会 が開催されたとき,インドネシアのスカルノ政府は,親中国,親アラブの政治路線に従って,台湾とイスラエル選手団の入国を拒否した。IOCは,これを政治的差別として,インドネシアNOCの資格を63年4月まで停止した。
中国問題 1956年,第16回オリンピック・メルボルン大会のとき,中国選手団の先着役員がオリンピック村に到着すると,誤って中華民国(台湾)の国旗が掲揚された。中国はこれに抗議して参加を中止し,IOCに対して台湾は中国の領土で,中国を代表するのは北京に本部のある中国NOCだけであることを主張したが,IOCがこれを認めなかったので,58年中国はIOCおよび台湾の加盟している8競技のIFから脱退した。IOCは中国を翻意させる糸口として,〈中華民国〉の呼称を〈台湾〉に改め,中国内の1地域とみなすことを決めたが,中国はなお満足せず,かえって台湾をも刺激し,60年の第17回オリンピック・ローマ大会開会式では,台湾選手団は用意された国名表示のプラカードを用いず,選手団長が胸に〈抗議中〉と大書した布をつけて行進した。こうしてIOCと中国の関係は冷却化したが,73年テヘランで開催された第7回アジア競技大会を前に,アジア競技連盟(AGF)は,中国の主張を受け入れ,台湾を除外して,新たに中国の加盟承認に踏み切った。これを足がかりに中国は75年,あらためて台湾除外を条件にIOCに加盟を申請した。しかし,IOCは逆に台湾除外の条件を台湾NOCに対する政治的差別として却下した。76年,第21回オリンピック・モントリオール大会では,中国と国交のあるカナダ政府が台湾選手団の入国を拒否したが,IOCはこれを不問に付した。そして79年10月,名古屋市で開催されたIOC理事会は,中国オリンピック委員会の加盟を承認し,台湾についてはその残留を認める代わりに,名称を〈中国・台北オリンピック委員会〉と変更し,〈中華民国〉の国旗と国歌を使用させないことを決定した。すでにキラニンIOC会長と事前協議を終えていた中国は直ちに台湾処遇に合意したが,台湾はこれを不満とし,スイスの裁判所に理事会決議無効の訴えを起こしたが,途中で取り下げ,81年3月台湾の代表とサマランチIOC会長がローザンヌのIOC本部で会見,台湾は〈中国・台北〉の呼称を受諾し,新しい旗と歌の制定を約束して,56年以来四半世紀にわたるオリンピックの中国問題は一応の解決を見た。この中国と台湾の共存方式は,〈オリンピック方式〉として国際スポーツ界から歓迎され,陸上競技をはじめ,各スポーツのIFが,次々とこの方式で中国と台湾の交流を実現した。また,この中国問題の副産物として,IOCは憲章で,国旗,国歌とあったのを歌と旗に改めて,その選定はNOCに一任し,IOC理事会の承認を得て使用することを決めた。日本オリンピック委員会 (JOC)は,旗は〈日章旗〉,歌は《君が代》を使用することを決定した。
ドイツ,朝鮮の合同チーム問題 分裂国家のスポーツをオリンピックで統一させる試みが,一時的に成功した例がある。1952年,IOCはドイツ民主共和国(東ドイツ)を加盟させる条件として,オリンピックではドイツ連邦共和国(西ドイツ)と合同チームを編成することを要望した。その結果,56年,コルティナ・ダンペッツォで開催された第7回冬季大会で,東西ドイツは合同チームで参加し,〈政治を克服したスポーツ〉といわれて世界の関心を集めた。合同チームは,国名を〈ドイツ〉とし,国旗の代わりに西ドイツの国旗中央に白く五輪のマークを描いたもの,国歌の代わりにベートーベンの《第九交響曲》のテーマ曲が用いられた。この方式は,同年のオリンピック・メルボルン大会から64年のオリンピック・東京大会まで,冬季大会を含めて継続した。しかし,最初から選手の選出方法,団長,監督,コーチの人選,合同トレーニングの方法などで矛盾を含み,68年,グルノーブル(フランス)の冬季大会とオリンピック・メキシコ大会では,国名と旗と歌はそのままだが,選手団は東西に分け,開・閉会式の入場行進も,東に続いて西と分かれた。そして72年,札幌の冬季大会から,再び東西に分離しての参加がドイツ統一まで続いた。
IOCは東西ドイツ合同チームの方式を,朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国にも適用しようとして,1963年,ローザンヌで両国代表の会談を仲介し,原則的な合意が成立して,国名は朝鮮Korea,旗は白地中央に五輪のマーク,その下に〈Korea〉と書いたもの,歌は《アリランの歌》と決めた。しかし,細目の協議に移る第2回会談は大韓民国政府の反対で実現せず,合同チームの編成は失敗に終わった。72年から独自に参加している朝鮮民主主義人民共和国は,84年のロサンゼルス,88年のソウルの夏季大会は不参加であったものの,冬季大会は76年を除き毎回参加している。それゆえ分裂国家に関しては,80年のレーク・プラシッド,84年のサラエボ大会は米ソそれぞれが夏季大会をボイコット,不参加表明していたが,このとき二つの中国,東西ドイツ,南北朝鮮が一堂に会した。
人種問題 オリンピックで初めて〈人種〉に関心がもたれたのは,1904年,セント・ルイスの第3回大会である。アメリカ体育協会(AAU)書記長ジェームズ・サリバンの発案で,会期中の8月12,13両日,陸上競技場で〈人類学競技Anthropological Games〉が行われ,アフリカ黒人,アメリカ・インディアン,南アメリカのパタゴニア族,フィリピンのモロ族,メキシコのココバ族,日本のアイヌなどを集め,100ヤード競走,走幅跳び,砲丸投げ,やり投げなどの競技を試みた。アメリカ・インディアンがもっとも優秀な体力を発揮したが,サリバンの意図は一部で批判されたような〈見世物趣味〉ではなく,多くの民族のスポーツ能力をテストしながら,それらの民族の間にスポーツへの理解と関心をもたせることにあったといわれる。この実験を契機に,アメリカのスポーツ界は有色人種排除の〈カラーライン〉が撤去される方向に進み,やがて各スポーツに黒人やインディアンが進出することになる。第2次世界大戦後,アメリカのスポーツ界では黒人選手の活躍が目覚ましく,オリンピック選手団の中でも,陸上競技やボクシングでは黒人選手が主力となった。60年,オリンピック・ローマ大会では,十種競技の黒人選手ジョンソンが,初めてアメリカ選手団の旗手に起用された。しかし,それはアメリカで黒人問題が解決したことを意味するのではなかった。キング牧師の暗殺などで,黒人運動が高潮した時期に開催された68年のオリンピック・メキシコ大会では,陸上競技200mの表彰台上で,1位スミスと3位カルロスの2人の黒人選手が,アメリカ国旗に向かって黒い手袋で包んだこぶしを振り上げ,差別への怒りを表した。72年のオリンピック・ミュンヘン大会でも,数人のアメリカ黒人選手が表彰台上で国旗に背を向けた。同じミュンヘン大会で,パレスティナ・ゲリラが選手村に侵入し,イスラエル選手11人を殺害する惨事が起こった。1970年,IOCは南アフリカ共和国のアパルトヘイト (人種隔離)政策に抗議して,南アフリカ共和国NOCを除名した。さらに75年,ローデシア政府の人種差別に抗議してローデシアNOCを除名したが,81年4月,白人政権が倒れてジンバブウェ共和国が成立すると同時に,IOCはそのNOCを承認し,ジンバブウェはオリンピック・モスクワ大会に参加し,女子ホッケーでは黒人と白人の混成チームが優勝した。1976年,オリンピック・モントリオール大会に際し,アフリカ・スポーツ最高評議会(SCSA)は,ニュージーランドのラグビーチームが南アフリカ共和国に遠征したことに抗議して,アフリカ諸国のオリンピック・ボイコットを決議した。キラニンIOC会長は,ラグビーがオリンピックに無関係であるとして説得を試みたが聞き入れず,すでに現地に到着していた選手団を含め,23ヵ国が不参加を決行し,このため参加国は12年前のオリンピック・東京大会と同じ94ヵ国に減った。南アフリカ問題は,91年6月のアパルトヘイト全廃により,翌7月,32年振りにIOC復帰が認められ解決する。
オリンピックの歴史 古代オリンピック 古代オリンピックは,ギリシアのオリュンピア(オリンピア)で,古代ギリシアの主神ゼウスにささげる祭典競技であった。古代ギリシアでは四大祭典として,このほかデルフォイのアポロン神域で催されたピュティアPythia祭,コリントスの海神ポセイドンを主神とするイストミアIsthmia祭,ゼウスを主神とするネメアNemea祭(前573)があったが,もっとも盛大で歴史も長かったのがオリュンピアの祭典である。古代ギリシアにおける競技の歴史は,神話時代にさかのぼって古く,オリュンピア祭典競技の起源に定説はないが,記録に残る最初のオリュンピア競技は前776年に行われ,その後4年に1度ずつ開かれて,393年の第293回まで1169年の長期にわたって続けられた。のちにローマの歴史学者が4年紀を1オリュンピアードと名づけたのも,この大会の影響力の大きさを物語っている。場所はゼウス神殿のあった聖域の東側に隣接した競技場で,その南側には競馬や戦車競走の行われる競馬場があった。聖域の遺跡は,ドイツの考古学者E.クルティウス によって1875年から81年にかけて本格的に発掘され,さらに1936年から42年にかけてドイツ発掘隊が再発掘した。戦争で中断したが,競技場の遺跡は,西ドイツ発掘隊が52年に着手し,60年に完了して全貌が明らかになった。競技場は長さ約200m,幅約40mの長方形で,走路の長さは192.27mであった。この長さをスタディオンstadionと呼び,古代ギリシアの尺度の単位とされ,スタディアムstadium(競技場)の語源になった。1スタディオンが最短の競走で,それ以上の競走は走路を往復して行われた。オリュンピア競技は,8月から9月にかけての満月の日を中心に開催され,初期は1日だったが,前472年以後の最盛期には5日間にわたって行われた。参加できるのは自由市民の男子に限り,奴隷と女性は参加を禁じられた。女性の入場は未婚女性に限られ,既婚女性は女性祭司1人しか許されなかった。前750年以後,ギリシア本土以外の地中海沿岸や黒海沿岸の各地にギリシアの植民市が建設されるとともに,それらの都市からの参加者も増えた。祭典の数ヵ月前から,オリュンピアのあるエリス地方の使者が,馬に乗ってギリシア全土にオリンピック休戦(エケケイリア)を触れ回った。オリュンピア祭典の成功と各地からの参拝者の旅行の安全を図るためで,必ずしもこの期間にギリシアが完全に平和だったわけではないが,27年にわたったペロポネソス戦争の間も祭典は中止されなかった。すべての競技で競技者は全裸で競技した。優勝者には,ゼウスの神木オリーブの枝で編んだ葉冠が与えられ,その彫像が聖域内に建てられた。前2世紀以後,ローマの勢力が伸張するに従って,オリュンピア競技からもギリシア精神が失われ,競技に賞金がかけられたり,これを目当てとする職業競技者が横行したりして競技も衰退期に入り,ローマ帝国時代になると,皇帝ネロが聖域内に別荘を建て,みずから競技に参加するため,その日程の都合で,65年に行われるべき第211回の祭典をかってに67年に延期して伝統を乱すような末期的現象を呈するようになった。313年にコンスタンティヌス1世がキリスト教を公認し,392年にはテオドシウス1世が異教禁止令を出したので,オリュンピアの祭典も競技も翌393年の第293回を限りに消滅した。エリスで継承された年代記では,すでに369年の第287回が最後の記録で,それもボクシング優勝者だけが記録されているのは退廃した競技の状況を物語っている。オリュンピアの競技はすべて個人競技で,ボールを使う競技や水泳競技はなかった。初期には1スタディオンを走る短距離競走だけで,前776年の第1回優勝者はエリスのコロイボスであった。第14回(前724)から走路1往復の競走,第18回(前708)からレスリングと五種競技(走幅跳び,やり投げ,短距離競走,円盤投げ,レスリング)としだいに競技種目が増え,会期が5日間になった最盛期には13種目になった。オリュンピア競技で行われた競技は,短距離,中距離(1往復),長距離(3~12往復)の各競走,五種競技,レスリング,ボクシング,パンクラティオン(ボクシングとレスリングを兼ねた格闘競技),武装競走,らっぱ手競走,伝令競走,競馬,4頭立戦車競走,2頭立戦車競走,駿馬4頭立戦車競走,駿馬2頭立戦車競走,2頭立ラバ戦車競走,牝馬競馬,牝駿馬競走,駿馬10頭立戦車競走の19種目。第37回(前632)から少年競技として,競走,レスリング,ボクシング,パンクラティオン,五種競技が行われた。後に芸術競技,音楽競技なども加わった。
近代オリンピック概史 1896年,アテネ(ギリシア)で近代オリンピアードの幕を開けたオリンピックの歴史は,第1期(1896-1912),第2期(1920-36),第3期(1948-64),第4期(1968-80),第5期(1984- )に分けることができる。
第1期(1896-1912) オリンピック運動が草創の苦難を乗り越えて,未来への展望を開く時期である。アテネの第1回大会はアレクサンドリアの富豪アベロフG.Averoffの寄付金とギリシア王室の援助で開催にこぎつけ,ギリシアの故事をしのんで初めて行ったマラソン の劇的効果で成功を収めたが,終了後第2代会長に就任した創始者クーベルタンは,1900年の第2回パリ大会で,たちまち苦難に遭遇した。クーベルタンの母国とはいえ,フランスでは官民ともにオリンピックへの理解が乏しく,クーベルタンの希望したオリンピック大会は,たまたまフランス政府主催で開催された万国博覧会のアトラクションとして行われ,オリンピックの独自性を発揮できなかった。陸上競技はブーローニュの森の乗馬クラブの馬場で行われ,プログラムには〈オリンピック〉の文字もなく,観衆もまばらだった。水泳はセーヌ川の上流で行われたが,どの競技にもメダルの用意がなく,IOCの要請で,あとから郵送されるという始末であった。04年,セント・ルイス(アメリカ)で行われた第3回大会も,同時に開かれたルイジアナ解放100年記念博覧会の余興のように扱われ,アメリカ以外の参加国はわずかに11ヵ国,それもカナダ以外はほとんどアメリカに居住する外国人で,選手総数は600人をわずかに超える程度だった。14競技が7月から10月にかけて散漫に行われ,アメリカ選手の活躍だけが目だった。オリンピックがまたしても博覧会のプログラムに編入されたことに失望したクーベルタンは,セント・ルイスに姿を見せず,オリンピック運動を活性化するため,〈オリンピックは永遠にギリシアで〉と熱望するギリシアの世論にもこたえて,06年4月,再びアテネで特別オリンピック大会を開催した。のちにIOCが,オリンピックの開催と並行して他の国際行事の開催を禁止する規定を設けたのは,パリとセント・ルイスの2回にわたる博覧会の苦い経験によるものであった。第1回以来,大会に参加する資格は個人にもクラブにも与えられていたが,08年の第4回ロンドン大会から,参加する主体をNOCに限定し,個々の選手にイギリスで定めたアマチュア規定を適用することになり,ロンドン大会の開会式では,初めて各国の選手団がそれぞれ国名標識と国旗を先頭に入場行進を行った。そのためか,参加国のナショナリズムが早くもこの大会で激発し,イギリスとアメリカの選手団が互いに挑発してトラブルが絶えなかった。そのため,会期中にセント・ポール寺院で行われた選手,役員のための特別ミサで,ペンシルベニア主教は〈このオリンピックでは,勝つことよりも参加したことに意義がある〉と戒めた。このことばをクーベルタンが修飾し,〈オリンピックで重要なことは勝つことではなく参加することである〉というオリンピックの格言になった。12年,第5回大会がストックホルムで開かれた。すでにスウェーデンには独自のスポーツ風土が形成されており,オリンピックは幸運に恵まれた。組織委員会長でスウェーデン陸上競技連盟会長のS.エドストレム は,スウェーデンの有名な電気工学者で,その発案により,陸上競技の着順判定に世界で初めて写真判定装置が試用された。この大会まで漕艇,サッカー,体操などを除いて,国際的組織をもたないスポーツが多く,したがって競技のルールも統一を欠いていたが,IOCは各スポーツに国際組織の結成とルールの整備を呼びかけ,13年になると陸上競技をはじめ国際競技連盟(IF)が次々に創立され,スポーツの国際的発展に新時代を開いた。日本が初めてオリンピックに参加したのもこのストックホルム大会である。この大会で,陸上競技の五種競技と十種競技に優勝したアメリカ・インディアンのJ.ソープ は,その前年セミ・プロ野球に加わって報酬を得ていたことが判明,アメリカ体育協会(AAU)がそのアマチュア資格を否認し,IOCは金メダルを没収した。オリンピックで起こった最初のアマチュア規則違反事件であった。のちに75年,AAUは,すでに故人となっていたソープの復権を決定し,IOCも82年10月の理事会で復権を承認,83年1月サマランチ会長が遺族に金メダルを贈った。
第2期(1920-36) 第1次大戦で,1916年ベルリンに予定されていた第6回大会を中止したあとを受け,20年アントワープ(ベルギー)で平和回復を祝った第7回大会を起点とし,オリンピック運動が軌道に乗り,大会が〈4年に1度の偉大なスポーツ祭典〉にふさわしく,その内容外観を整備充実した時期である。アントワープの会場には初めて五輪の旗が翻り,ベルギー選手によって初めて〈選手宣誓〉が行われた。テニスでは日本の熊谷一弥 ,柏尾誠一郎がシングルスとダブルスで2位となり,日本人初のメダリストになった。24年2月,シャモニー・モンブラン(フランス)で,パリで開催される第8回大会の一部としてスキーとスケートの競技が行われたが,IOCは翌年の総会でこれを第1回とするオリンピック冬季競技大会を創設した。パリ大会には陸上のP.J.ヌルミ (フィンランド),水泳にJ.ワイズミュラー (アメリカ)と,スポーツ史上不朽の名を残す名選手が出現した。とくにヌルミは前回1500mに優勝し,さらにこの大会から28年のアムステルダム大会にかけて,9個の金メダルを獲得する偉業を遂げた。1925年,オリンピック運動が軌道に乗ったことを見届けたクーベルタンは,IOC会長を辞任し,バイエ・ラトゥール伯爵(ベルギー)が第3代会長に就任した。59年のノーベル平和賞受賞者,P.J.ノエル・ベーカーは,クーベルタンをしのんで〈狂信的愛国主義,人種主義,政治権力,商業主義と戦い抜いた偉人〉と賞賛した。1928年,アムステルダム(オランダ)の第9回大会から初めて女子の陸上競技が登場した。女子水泳はすでにストックホルム大会から行われていたが,女子陸上競技が採用されたことで,女子スポーツの将来に新しい展望が開かれた。この大会で日本の織田幹雄 が三段跳び,鶴田義行 が200m平泳ぎでそれぞれ優勝して日本で初めての金メダリストになり,また女子陸上800mでは人見絹枝 が2位に入賞した。32年,ロサンゼルス(アメリカ)で開かれた第10回大会では,オリンピック史上初めて10万人収容の大競技場が建設され,36年の第11回大会に提供されたベルリン競技場の施設とともに,大会施設の巨大化に端を開いた。最初のオリンピック村(選手村)は,第8回大会の時に男子選手用が登場したが,ロサンゼルスでは本格的なオリンピック村が開設され,IOCはこれが参加選手の友好に寄与したことを評価し,その後の大会開催都市にオリンピック村の造成を義務づけた。日本選手は水泳の競泳6種目のうち5種目で金メダルを獲得するなど,各競技で優秀な成績を収めた。陸上競技でアメリカの黒人選手が活躍するようになったのもこの大会からである。36年,ヒトラー政権下のベルリンで開かれた第11回大会で,ナチ政府は競技場に〈ハーケンクロイツ(かぎ十字)〉の党旗を初めて公式の国旗として掲げるなど政治色が濃かったが,IOCはオリンピック大会の主催権がIOCにあることを主張して,ユダヤ人排斥の宣伝物を会場周辺から撤去させるなど,極力政治的干渉に抵抗し,オリンピック運動の独自性確保に成功した。聖火リレー ,聖火台(1936),3段の表彰台(1932)など,のちにIOCで規定される式典様式はこの大会で創始されたものが多く,オリンピック大会の規模と形式は,ロサンゼルスとベルリンの両大会から決定的な影響を受けた。IOCが記録映画をつくるようになったのもベルリン大会からであり,L.リーフェンシュタール の《民族の祭典》と《美の祭典》(ともに1938)はベネチア映画祭で金賞を受賞。ベルリン大会に先立って開催されたIOC総会は,40年の第12回大会を東京で開催することを決定した。しかし,日中戦争の激化で,1938年7月,日本政府は東京大会組織委員会に対し東京大会の中止返上を命じた。IOCは代替都市としてヘルシンキを,さらに44年の開催都市としてロンドンを指定したが,第2次大戦のためいずれも中止となった。IOCのラトゥール会長は1942年飛行機事故で死去し,IOC会長は46年,エドストレム(スウェーデン)が就任するまで空位となった。
第3期(1948-64) 第2次大戦後,オリンピック運動が復興して1948年ロンドンで12年ぶりに第14回大会を開催し,その後アメリカとソ連の対抗を中心に展開される国際スポーツ界の新しい状況に適応する道を探りながら,〈史上空前の偉大な祭典〉と評価された東京大会に至るまでの期間である。52年ヘルシンキで開催された第15回オリンピック大会にソ連選手団が初めて参加した。ヘルシンキではソ連選手のために別の選手村を用意するなど,異様な空気が漂ったが,ソ連選手の勢力はアメリカに迫り,世界のスポーツはいやおうもなく冷戦体制に組み込まれた。1946年IOC会長に就任したエドストレムは高齢のため52年辞任し,A.ブランデージ (アメリカ)が第5代会長に就任した。以後IOCは72年まで20年にわたってスポーツの純粋性を主張する理想主義者ブランデージ会長の統率下に置かれ,激発するナショナリズムや横行する商業主義と苦闘を重ねることになる。IOCは政治的な東西対立を超克する試みとして,1956年東西ドイツの統一チーム編成に成功したが,これも64年までしか続かなかった。1956年の第16回大会は,初めて南半球に移ってメルボルン(オーストラリア)で開催されたが,馬術競技だけはメルボルンの馬に対する検疫制度がきびしいため,切り離してストックホルムで行われた。この年2月,コルティナ・ダンペッツォ(イタリア)で開催された第7回冬季大会で,日本の猪谷千春(のちのIOC委員)は,スキー回転で2位に入り,日本人初の冬季大会メダリストとなった。メルボルン大会に先立って,選手村の国旗の誤りから中国選手団が参加を拒否し,IOCに台湾の除籍を求めていれられなかったのに抗議して,58年,中国はIOCから脱退し,以後20年にわたって中国問題がIOCの困難な課題となった。60年ローマ(イタリア)で開催された第17回大会は,古都にふさわしくカラカラ浴場の跡を体操会場に,コンスタンティヌス凱旋門をマラソンのゴールに使うなど,歴史的な趣向をこらし,異色のオリンピックとしてみごとに成功した。64年の第18回オリンピック・東京大会は〈造型と科学のオリンピック〉といわれ,国立競技場をはじめとする競技施設が造形美を誇り,競技の計時・記録・報道の装置に初めて電子機器が使用された。一方,この大会を目ざして東海道新幹線が開通し,東京都内には高速道路網が建設されるなど,まさに日本経済の高度成長を象徴するオリンピックであった。 →東京オリンピック大会
第4期(1968-80) アフリカの植民地解放が続出して,IOCの加盟国が増加し,オリンピック運動が5大陸に拡大されたことに特徴がある。同時にスポーツの科学的研究が進展し,スポーツの技術,スポーツの施設,用具などが急速に改良され,スポーツの技能水準が飛躍的に向上した。1968年,第19回オリンピック大会が開催されたメキシコ市は標高2240mの高地だったので,陸上競技の成績に影響し,中・長距離の競走では,ケニアなどの高地民族が生気を得て活躍し,走幅跳びではアメリカのR.ビーモンが8m90を跳んで〈21世紀の記録〉と驚嘆された。1960年代の世界に広がった学生の反体制運動はメキシコも例外ではなく,オリンピック大会の直前に激しい学生運動が起こり,大会の会場は警護の戦車で包囲され,また陸上競技ではアメリカの黒人選手が人種差別への抗議行動を行った。フランスやオーストリアのスキー選手とスキー用品メーカーとの結託が表面化し,72年,札幌の冬季大会(札幌冬季オリンピック大会 )では,IOCはオーストリアのスキー選手カール・シュランツがスキー・メーカーの宣伝に利用されたとして,選手村から追放される事件が起こった。同じ年,ミュンヘンで開かれた第20回大会は,初めて21競技を行い,これが以後の大会の基準となって,大会巨大化は避けがたい傾向になった。この大会は〈コンピューター・オリンピック〉といわれたように,大会の運営,審判,記録測定,情報伝達に電子機器が全面的に利用され,水泳では1000分の2秒差で着順が判定される例があった。ミュンヘンの選手村にパレスティナ・ゲリラが侵入し,イスラエル選手団を襲って11人を殺害する事件が発生し,選手村を平和の聖域としたオリンピック運動に大きな衝撃を与えた。76年の冬季大会開催都市に予定されていたデンバー(アメリカ)では,オリンピック開催による環境破壊に反対するコロラド州の住民運動が起こり,1973年2月,住民投票の結果,反対派が圧勝してデンバー市は開催権を返上,開催都市はインスブルック(オーストリア)に移された。しだいに規模を拡大するオリンピック大会の開催は,環境との関係が避けられなくなった。73年9月,IOCはバルナ(ブルガリア)で1930年以来43年ぶりで〈オリンピック会議〉を開催,関係者約4000人が出席,〈オリンピックの未来像〉をメーンテーマに討議を重ねた。その結論を踏まえ,74年ウィーン(オーストリア)で開催された第75回IOC総会は,オリンピック憲章に画期的な改正を断行し,全文から〈アマチュア〉の語を削除して〈アスリート〉または〈コンペティター〉にかえ,一定の条件で選手が金銭的収入を得ることを認め,アマチュアリズムは事実上消滅するに至った。76年,モントリオール(カナダ)で開催された第21回大会は,中国と国交を開いたカナダ政府が台湾選手団の国旗使用を拒否したため,台湾選手団が引き揚げ,またニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ共和国遠征に抗議したアフリカ各国選手団のボイコットという政治的トラブルに巻き込まれた。中国のIOC加盟は,79年,台湾NOCの呼称を〈中国・台北オリンピック委員会〉とすることで解決した。80年,モスクワで開催された第22回大会は,1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻に対する制裁措置として,アメリカのカーター大統領が西側同盟国にボイコットを呼びかけたため,日本,西ドイツ,カナダ,韓国などの各国政府とNOCがこれに同調し,オリンピック史上例のない政治干渉が平和運動としてのオリンピック運動に打撃を与えた。イギリス,オーストラリア,フランスなどのNOCは政府の勧告を退け自主的に参加したが,参加国は前回より13ヵ国減少し,81ヵ国であった。81年10月,IOCはバーデン・バーデン(西ドイツ)でオリンピック会議と総会を開催,総会では88年の大会開催候補都市に対する投票が行われたが,市民の強い反対を押し切って立候補した名古屋市は,52対27でソウルに惨敗し,また冬季大会はカルガリー(カナダ)に決定した。オリンピック会議には選手代表も招かれたが,IOCも専門委員会にアスリート(競技者)委員会を設け,創立以来初めて選手に発言の場が与えられることになった。またこの総会で初めて2人の女性委員が選出され,82年の総会から出席することが決まった。
第5期(1984- ) 1984年の第23回ロサンゼルス大会は,ソ連がアメリカ政府のソ連選手団受入れ対策をオリンピック憲章違反と非難して不参加を決定,社会主義国16ヵ国が同調して,前回モスクワ大会に続き東西両陣営の政治的駆引きの場となった。また,経済的にも破綻し,引き受け手のない状態であった。オリンピックが政治的にも経済的も行き詰まり,転換を余儀なくされたのが,ロサンゼルス大会以降20世紀末のこの時期である。この転換は,アマチュアリズムの放棄と連動して,ビジネス五輪といわれるような,徹底した商業主義によってもたらされ,80年に就任した第7代IOC会長A.サマランチによってリードされた。政治的問題は,89年のベルリンの壁崩壊に続く90年のドイツ統一,91年のソ連邦の消滅という戦後史を塗り替えた出来事によって,以後,経済原則に従属する形となる。だが,これによってもたらされたものは,オリンピックそのものの存在意義を問う。それらは,ドーピング (禁止薬物使用)等競技モラルの危機や商業主義に左右される競技の方法や内容,環境問題などであり,21世紀の大会に託された課題といえよう。〈オリンピックは,世界のトップレベルの選手が参加する最高の競技会であるべきだ〉とするサマランチ会長の方針は,プロ選手参加の道を開くなど,参加資格のオープン化を加速させた。女子マラソン,新体操,シンクロナイズドスイミング,自転車ロード種目など,女子種目の増大も顕著であった。84年の第14回サラエボ冬季大会は,会期が12日間で行われた最後の大会となった。80年大会同様,中国,朝鮮,ドイツの分裂国家が一堂に会した。
88年ソウル(韓国)で開催された第24回大会は,一時,朝鮮民主主義人民共和国との共同・分裂開催も検討されたが,実現しなかった。テニスと卓球が新たに加わり,テニス,サッカーにはプロの参加も認められた。アンチ・ドーピングの必要性を世界に最も強くアピールしたのは,皮肉にも陸上100mで9秒79の驚異的な記録を出したB.ジョンソン(カナダ)の薬物汚染であった。この出来事は,競技の極限状況やドーピングの深刻な現状を世界に知らしめることにもなった。88年の第15回カルガリー(カナダ)冬季大会から,会期は夏季大会同様,週末を3回含む16日間となった。
92年の第25回バルセロナ(スペイン)大会と第16回アルベールビル(フランス)冬季大会は,最後の夏季・冬季同年開催の大会となった。89年から92年にかけて起こった戦後世界の体制の変化や民族紛争は,統一ドイツ,独立国家共同体,仮加盟のボスニア・ヘルツェゴビナなど,参加国を大きく様変わりさせた。バルセロナでは,全米プロバスケットボール協会の編成した〈ドリームチーム〉の登場や,テレビ映りを意識した1対1のトーナメント方式導入のアーチェリーなど,ビジネス五輪はさらに前進したといえよう。89年,日本体育協会 から離れ,別法人格を取得した日本オリンピック委員会(JOC)は,アルベールビルへ初めて選手団を編成。オリンピック特別賞が新設され,メダリストに報奨金が用意された。この大会で日本選手団は,28年の第2回サン・モリッツ(スイス)大会から第15回カルガリー大会までの総メダル獲得数と同じ7個のメダルを獲得。2年後にめぐってきた第17回冬季大会はリレハンメル(ノルウェー)で開催され,環境に配慮し,自然と共存する〈グリーン・オリンピック〉を提唱。ボブスレーとリュージュの兼用コースや,岩山をくりぬき地下にアイスホッケー場を造るなどすべての面で〈環境五輪〉を強調した。
96年アトランタ大会を放映するアメリカ三大テレビネットワークのNBC は,95年にIOCとの間で2000年シドニー(オーストラリア)夏季大会,2002年のソルト・レーク・シティ(アメリカ)冬季大会のアメリカ国内独占放送権契約を結んだ。さらに年末には,開催地未定の時点にもかかわらずインフレ率を見込んで,2004年夏季,2006年冬季,2008年夏季の3大会の契約をも獲得。長期的な経済的安定を求めたIOCとの合意によったものである。100周年を記念する大会となったアトランタ大会は,197のIOC全加盟国・地域から1万624人の選手が参加。うち3600人を超えた女性選手は過去最高で,〈女性の五輪〉ともいわれている。
20世紀最後の冬季大会である第18回長野大会は日本で3回目のオリンピックとなり,愛と参加,自然との共存の理念を掲げた。92年のアルベールビル大会からオリンピック開催地での開催となった障害者のオリンピック,〈パラリンピック 〉冬季競技大会は,98年の長野で7回目を迎えた。オリンピックの全体像も変わりつつあるといえよう。 執筆者:川本 信正+野々宮 徹