西アジア、ペルシア湾(アラビア湾)最奥部の北西岸に位置する立憲君主国。正式名称はクウェート国Daulapul Kwuit。北と西はイラク、南はサウジアラビアと国境を接し、東はペルシア湾に臨む。総面積1万7818平方キロメートル、人口245万7000(2005推計)。首都はクウェート市。かつては砂漠の中の小国にすぎなかったが、莫大(ばくだい)な石油収入を背景に、第二次世界大戦後、急速に近代化が進み、2007年の1人当りの国内総生産(GDP)は3万8925ドルで世界の上位にある。
[原 隆一・吉田雄介]
アル・ジャフラの小オアシス、南東および海岸部のわずかな肥沃(ひよく)地を除くと、国土の大部分は平坦(へいたん)で荒涼とした砂漠である。沿岸には暗礁と浅瀬が多く、沖合いにはブービアン、ファイラカなどクウェート領有の九つの島が点在する。国土中央部には西方に向かってクウェート湾が開け、その南には天然の良港クウェート港がある。気候は亜熱帯性であるが、沿岸部は暖流の影響で内陸部より過ごしやすい。夏期(4~10月)は酷暑で乾燥し、40℃以上に達することがある。冬期(11~3月)にはタウズとよばれる激しい砂嵐(あらし)がときおり襲来するが、そのときを除けば涼しく快適である。雨は冬に集中し、年間降水量は30~200ミリメートルと少ないが、しばしば集中豪雨がある。河川はなく飲料水は不足し、大部分を海水からの蒸留水と、イラクのシャッタル・アラブ川からの引き水に依存する。
[原 隆一・吉田雄介]
クウェートはメソポタミア平原の外辺に位置しているが、歴史的にはティグリス、ユーフラテス川流域の定住民よりアラブ系遊牧民との関係のほうが深かった。このためバグダードのアッバース朝(750~1258)、モンゴル(1258~1546)、オスマン帝国(1546~1918)のいずれも、この地域に直接影響を及ぼすことができなかった。16~18世紀にかけて、ポルトガル、オランダ、イギリスなどヨーロッパ列強がインド貿易の独占権をねらい次々にこの地に進出してきた。クウェートの呼称は、16世紀ポルトガル人の築いた要塞(ようさい)「小さな砦(とりで)」kūtに由来する。現在のクウェート市は18世紀初頭にアラビア半島内部からアナイザ人の数氏族が移住したことから始まる。サバーハ家、ハリファ家、ザイド家、ジャラヒマ家など有力氏族の末裔(まつえい)が現在のクウェート人である。このうち最強のサバーハ家の首長が1756年クウェートの首長となりサバーハ王朝を創立した。クウェートの町には当時約1万人の居住者がおり、800艘(そう)の船を所有し、貿易、漁業、真珠採集業などで繁栄していた。しかし陸地では狂信的なワッハーブ派教徒の攻撃、海では海賊の出現が後を絶たなかったという。後継者のムバーラク首長のときにはオスマン帝国の支配拡大を恐れ、1899年イギリスと保護条約を結び、その傘の下に入った。以後クウェートはイラクのバスラにかわる中継(なかつぎ)貿易拠点として栄えた。第二次世界大戦後ブルガン大油田の開発をはじめ石油産業は飛躍的に伸びた。とくに1950年に即位した「クウェート近代化の父」とよばれるアブドッラーの時代には、石油収入をてこにして経済・社会発展が目覚ましかった。一方、反植民地主義、民族主義の動きも台頭し、イギリスは1961年に以前の保護条約を廃棄し、外交権を含む独立主権をクウェートに与えた。翌年の1962年には憲法が発布され主権国家となった。
[原 隆一・吉田雄介]
政体は立憲君主制(首長国)で、主権在民の三権分立をうたっているが、現実の政治は、首長家を頂点とする伝統的支配が続いている。首長は建国以来サバーハ家の世襲で、ジャービル系とサーレム系に平等の権利がある。憲法に基づき一院制の国民議会が設けられている。議員の定数は50で任期は4年である。国会議員の大部分は首長一族か部族長で保守的傾向が強かったが、1971年、1975年の総選挙では進歩的な野党アラブ民主主義党(ANM)や高等教育を受けた若手議員なども進出した。1976年のレバノン内戦をめぐって国論が分裂し、首長は国会を解散してしまった。1977年には当時の首長サバーハ(3世)Sabah Al-Salim Al-Sabah(1913―1977)が死去し、皇太子ジャービルJaber Al-Ahmad Al-Jaber Al-Sabah(1926―2006)が新首長に即位した。1981年になってようやく国会選挙が実施されたものの、1986年には議会が解散させられた。1990年8月2日隣国イラク軍が国境を越えてクウェート市を侵攻、イラクへの併合を宣言し、いわゆる湾岸危機が発生した。1991年1月アメリカ主体の多国籍軍の出動で湾岸戦争に突入、クウェート市は2月に解放された。湾岸戦争後、1992年10月に7年半ぶりに国会選挙が実施され、野党勢力が躍進した。1996年10月の国会選挙では保守派が巻き返したが、1999年7月の国会選挙ではふたたび野党が議席数を伸ばした。2005年5月には女性に参政権が認められ、同年6月クウェート初の女性閣僚が誕生している。2006年1月に首長ジャービルが死去、皇太子サードSaad Al-Salim Al-Sabah(1930―2008)が後を継いだが健康上の問題で10日で退位、ジャービルのもとで首相を務めたサバーハ(4世)Sabah Al-Ahmad Al-Jaber Al-Sabah(1929―2020)が新首長となった。国内外での重要課題の第一は、湾岸戦争後の戦後処理や、2004年に国交を復活させたイラクとの関係改善である。第二は隣国イランのイスラム革命の影響である。人口の3分の1がシーア派イスラム教徒であるため、政府はイランからの革命の輸出を警戒している。第三は、本来のクウェート人(一級市民)の人口比が約32%にすぎないということである。外国人労働者はクウェート人との生活水準や法的地位の格差の是正を要求しているが、人種や宗教も絡み、問題を複雑にしている。なお、首長サバーハの死去により、翌日の2020年9月30日にナッワーフNawaf Al-Ahmad Al-Jaber Al-Sabah(1937―2023)が新首長に即位した。
[原 隆一・吉田雄介]
典型的な石油依存モノカルチュア(単一生産)経済である。1950年からの石油産業の急激な発展は、たった30年ほどの間に伝統社会を一変させてしまった。原油の確認埋蔵量は1040億バレル(2009)。石油生産量は1979年には日産237万バレルであったが、石油温存政策や国際的原油過剰傾向に対応し、1981年4月以降日産120万バレルに減産した。その後湾岸戦争時に多くの石油施設が破壊されたこともあり日産50万バレル(1991)にまで落ち込んだが、戦後復興が飛躍的に進み、2008年は日産約270万バレルを生産している。石油採掘は1938年にクウェート南部のブルガン大油田がKOC(クウェート石油会社。ブリティッシュ・ペトロリアムとガルフ・オイル社の折半共有)によって発見されたことに始まる。第二次世界大戦後、生産は徐々に増加し、1951年イラン石油国有化事件の影響で需要が急増し、1956年には中東最大の産油国となった。1953年に中立地帯でアメリカ系アミノイル社が商業ベースにのるワフラ油田、1956年にKOCがクウェート北方のラウドハタイン油田、また1960年には日本のアラビア石油が海上のカフジ油田の発掘にそれぞれ成功している。KOCは1975年、アミノイル社は1977年に国有化された。内陸油田はいずれもパイプラインで結ばれ、ブルガン油田に近いミナ・アル・アハマディの巨大なタンカー港に集められる。
経済構造も圧倒的に石油に依存している。ただし、1981年に国内総生産(GDP)の70%を石油部門が占めていたのに対して、以後しだいに減少し、1986年には30%台にまで落ち込んだ。しかし依然として、2002~2003年度歳入は原油収入が80%を占めている。一方、雇用人口からみると、石油関連産業労働者の総人口に占める比率は、1980年センサス(人口調査)時でわずか1.3%にすぎなかった。大部分の労働者は政府官庁や公共部門に吸収されており、国民の94%が国家公務員または国営企業に勤めている(2009)。2007年の国内総生産(GDP)は約1113億ドルで、実質経済成長率は8.0%(2007)、失業率は4.0%(2006)である。
政府は石油依存型経済からの脱皮を目ざし、石油以外の諸産業にも力を入れている。クウェート市南方50キロメートルのシュアイバはペルシア湾最大の工業地帯で、化学肥料、海水淡水化プラント、石油精製、石油化学、液化石油ガスなどの大工場が集中する。このうち工業生産の4分の3を占める石油精製業は重要で、シュアイバ、ミナ・アブドッラー、アハマディの三大精油所がある。このほかに食品、清涼飲料水、製粉、建設などの工場もあるが、国内市場が狭く、水、土地、原材料や熟練労働力が不足し、飛躍的発展は望めそうにない。また農業に適する土地と水がきわめて少なく、農産物でみるべきものはない。わずかに近郊野菜、メロン、ナツメヤシなどの果実、伝統的な遊牧民のヒツジ、ヤギなどを主とする牧畜などである。これに対し漁業は、ペルシア湾近海は輸出用の中小エビ類をはじめ魚類が豊富で、もっとも将来性のある産業となっている。
貿易は、輸出総額の約90%が原油や石油製品によって占められている。また伝統的に中継貿易が盛んで、石油以外では再輸出が目だつ。輸入は近年、機械、自動車、電気製品、プラント類、工業原材料、食料品などが急増している。2008年の輸出額は870億ドル、輸入額は249億ドル。おもな輸出相手国・地域は日本、韓国、台湾、シンガポール、アメリカなど、おもな輸入相手国はアメリカ、日本、ドイツ、サウジアラビア、中国などとなっている(2006)。日本との貿易では、輸出額151億9700万ドル、輸入額20億8600万ドルと、大幅な日本の輸入超過となっている。対日輸出品目のほとんどが原油および石油製品で、2008年の日本への原油輸出量は日量32.3万バレル。日本からのおもな輸入品目は自動車、機械、電気機器などである。国際収支は、湾岸戦争後の数年を除けば、石油収入と海外投資収益が大きいため大幅な黒字である。あり余る財源を自国の経済・社会開発、産業の多角化に投資するほか、1976年にはRFFG(未来の世代のための準備基金)を設立し、将来の石油枯渇時にも備えている。一方、先進資本主義国への対外投資や、アラブ圏やそのほかの開発途上国にアラブ開発クウェート資金(KFAED)を通じて対外援助、融資を活発に展開している。
[原 隆一・吉田雄介]
住民の大部分はアラブ人イスラム教徒(85%。2007)であり、そのうちスンニー派が70%、シーア派が30%である。近年人口増加が著しく、1950年の推定人口約15万人から、1980年のセンサス(人口調査)時には約135万人と、30年で9倍に増加し、1995年のセンサスでは約158万人、2005年には245万7000人(推計値)となった。人口急増の主因は、高い自然増とともに、オイル・ブームによって流入した近隣アラブ諸国やイラン、インドからの外国人移住労働者の社会増による。1980年にはすでに非クウェート人が全人口の6割近くを占め、クウェート人を上回った。2008年には非クウェート人が約68%に達している。クウェートは石油収入のおかげで「豊かな国家」を築き、社会福祉が行き届いている。低所得者向けの快適な住宅、外国人を含め無料の医療費、幼稚園から大学まで完全無料の教育などを実現している。ただ、クウェート人と非クウェート人両者の生活水準や法的地位の格差は社会不安の材料となっていることも事実である。教育制度は小学校4年、中学校4年、高等学校4年の4・4・4制で、小学校と中学校の8年間(6~14歳)が義務教育となっており、幼稚園から大学まで公立学校の教育費は無料である。大学には国立のクウェート大学のほかにクウェート・アメリカン大学などの私立大学がある。
[原 隆一・吉田雄介]
『『世界各国便覧叢書7 シリア・アラブ共和国 クウェイト国』(1971・日本国際問題研究所)』▽『前川雅子著『アラブの人びと クウェートに住んだ体験から』(1991・サイマル出版会)』▽『総合研究開発機構編・刊『イラク・クウェート紛争と今後の展望』(1992)』▽『脇祐三著『中東激変』(2008・日本経済新聞出版社)』▽『牟田口義郎著『石油に浮ぶ国――クウェートの歴史と現実』(中公新書)』
クウェート国の首都。イラクのバスラから南へ約130キロメートル、クウェート湾の南岸に位置する天然の良港。人口は30万5964(1998推計)。18世紀初頭にアラビア半島内部からアナイザ人が移住して建設した。18世紀後半には、ペルシア湾岸の中継(なかつぎ)貿易、漁業、真珠採集、ダウという名の小さなアラビア風帆船の造船業などで栄えた。19世紀にはドイツがベルリン―バグダード間の鉄道の終着駅としてクウェートを考えたが、イギリスと保護条約を結ぶことによってこの計画を拒否した。第二次世界大戦後はブルガン油田をはじめとする石油開発で急速に発展した。その変貌(へんぼう)ぶりは砂漠の中に忽然(こつぜん)と現れた超近代都市といわれる。近郊には近代設備のある石油積出し港アハマディや、ペルシア湾最大といわれるシュアイバ工業地帯などがある。
[原 隆一]
基本情報
正式名称=クウェート国Dawla al-Kuwayt/State of Kuwait
面積=1万7818km2
人口(2010)=274万人
首都=クウェートKuwait(日本との時差=-6時間)
主要言語=アラビア語
通貨=クウェート・ディナールKuwait Dinar
ペルシア湾の北西岸に位置する国。アラビア語で正しくはクワイトal-Kuwayt。1968年の協定によって,南のサウジアラビアとの中立地帯は南北に分割されてそれぞれが両国の領土として取り扱われることになったが,陸上の石油資源だけはこの中立地帯のどこで発見されても両国に帰属し,その生産物は折半されることになっている。国土面積はこの中立地帯の分を含めると約1万8000km2である。
国土の大半は砂漠であり,気候は,夏は40℃をこすのが普通で相当に暑いが,冬は快適である。沿岸は一般に浅瀬であるが,クウェート湾が形成されているところに良港があるのが特徴である。海岸にはブービヤーン,ワルバ,ファイラカなどいくつかの島がある。人口は第2次大戦後急激に増加し,1950年に約15万であったのが,1996年には約207万と推定されている。しかしクウェート人はその約40%で,他はパレスティナ人など他国のアラブのほか,パキスタン人やインド人などが占める。全人口のうちイスラム教徒が85%を占めるが,クウェート人だけを見れば,イスラム教徒が100%近くになる。クウェート人ムスリムではスンナ派がやや多く,シーア派は30~40%を占めるといわれている。
海上数kmの地点にあるファイラカFaylaka島で,紀元前2000年ごろのディルムン文化の遺跡が発見されており,そのころからセレウコス朝時代まで,同島を中心に文化が栄え商業活動が行われていたことが知られている。またクウェート湾北側のカージマは632年ムスリム軍とペルシア軍が戦った古戦場跡とされている。しかしそれ以後18世紀まではこの地域の歴史はつまびらかではない。クウェートの現在の支配氏族スバーフal-Ṣabāḥ家(サバーハ家)は,アネイザ部族連合のウトゥブ族に属し,18世紀の初頭に同じ部族に属する他の数家族とともにこの地へ移住してきたといわれている。
当初クウェートはジャラーヒマ家が海運を,ハリーファ家が貿易を,スバーフ家が外交を担当する分割統治の形態をとっていたが,前2者がクウェートを離れたことにより,スバーフ家がクウェートの統治者となった(1756年)。スバーフ家を中心とするクウェートの歴史はつねに周辺の大国や強大な部族の抗争と無関係ではいられなかった。為政者はオスマン朝やイギリスなど域内最強の勢力と結ぶことにより,クウェートの存続をはかってきた。クウェートは公式には第1次世界大戦までオスマン朝の宗主権を認めていたが,実質的には独立国家であった。1896年大首長ムバーラクが宮廷クーデタで即位してからはイギリスへの傾斜を強め,1899年イギリスの保護国となる条約を結んだ。
1950年に〈近代化の父〉といわれるアブドゥッラー首長が即位し,61年にイギリスとの保護関係を解消してクウェートは独立した。独立と同時にオスマン朝の後継者をもって任ずるイラクがクウェートの領有を主張して国境に軍を進める事件があったが,アラブ連盟軍の出兵などによって暫定的な解決をみて,国連にも加盟した。クウェートでは1930年代から立憲民主運動が見られたが,それが具体的に結実するには独立を待たねばならなかった。61年に制憲議会を召集,翌年憲法が制定された。憲法では第7代ムバーラク首長の子孫が首長(アミール)を継承するものとし,首長の任命による内閣,普通選挙による一院制議会(定員50名,任期4年)の設置が定められている。選挙権はクウェート人男子の識字者の一部に限定され,政党も禁止されてはいたが,議会制度はクウェート社会に急速に浸透し,議会は政府批判勢力としての色彩を強めていった。しかしパレスティナ問題,レバノン情勢,イランにおけるイスラム革命,イラン・イラク戦争などにより国内が混乱するのを恐れた首長は,76年,86年と議会を解散し,言論を統制するという非常措置をとった。81年には,イラン革命によるシーア派勢力の拡大をふせぐため,選挙制度の大幅な手直しが行われた。1989年から東欧における民主化運動の高まりを受け,クウェートでも議会再開運動が発生したが,政府は立法権のない国民評議会を設置した。議会の本格的な再開は湾岸戦争後の1992年で,反政府勢力が過半数を占めた。クウェートでは政党の結成は禁止されているが,イスラム系のイスラム立憲運動(ムスリム同胞団),国民イスラム連合(サラフィー系),国民イスラム同盟(シーア派),およびリベラルのクウェート民主フォーラムが実質的な政党として機能している。
一方,議会制度の採用などによって内政面で湾岸諸国の先鞭をつけたクウェートは,国際政治でも新局面をひらいた。67年の六月戦争(第3次中東戦争)では直ちにイスラエルに宣戦し,アメリカとイギリスへの石油を禁輸してのちのOPEC(オペック)戦略の先鞭をつけたのみならず,戦争当事国への資金援助を開始した。
1980年からのイラン・イラク戦争ではイラク支持を明確にしたが,90年8月,侵攻してきたイラク軍に占領された(湾岸危機)。翌91年,米軍を中心とする多国籍軍によって解放され(湾岸戦争),長年の懸案だったイラクとの国境が画定した。
石油以前のクウェートは漁業,真珠採取,中継貿易を経済の柱としていたが,20世紀に入って日本の養殖真珠が進出するようになりこの真珠経済は壊滅的打撃を受けた。また石油の発見によってクウェートの社会・経済システムは根本的に変容してしまった。石油については,早くも1911年に,石油利権交渉がイギリス系のアングロ・ペルシアン石油会社(現,ブリティッシュ・ペトロリアム社)によって当時の首長との間で始められている。交渉は曲折をへて,最終的には34年,イギリス系とアメリカ系が合弁で設立したクウェート石油会社にクウェートの陸上部全域に対する利権が与えられたが,このように長引いたのは,ひとつには,クウェートの造船業者が労働力の逼迫を恐れて利権設定に反対したからでもあった。38年にブルガン油田が発見され,第2次大戦時の中断をへて,戦後46年の初輸出以後は続々とほかにも油田が発見されている。また中立地帯についてはアミノイル・ゲッティ社,沖合については日本のアラビア石油に,戦後,利権が与えられた。75年,政府はアラブ産油国で初めてクウェート石油会社を,77年にはアミノイルも100%接収した。莫大な石油収入によってクウェートは1人当りのGNPで世界最高水準に達したが,一般の産油国のように直ちに工業化を志向することをせず,自国の条件から割り出して,社会開発と金融立国という独自の政策をいち早く選んだ。低所得層向けの大量の住宅投資,教育の無料化,医療施設の完備,最低賃金,労働者保護,生活救済などのこれまでの施策によって,今日しばしば第一級の福祉国家といわれている。道路,電気,水道,通信などの施設も充実し,これが結果的には金融立国政策にもよい影響を与えている。しかし,第1次,第2次石油危機を経て,石油価格が低落すると,肥大化する政府部門に圧迫されて財政は赤字に転落した。しばらくは豊富な在外資産や投資運用によって赤字の影響を最小限に抑えることができたが,湾岸戦争による戦費負担などで一気に余裕がなくなり,経済システムの抜本的な改革を迫られている。政府は公共サービスの値上げ,有料化,所得税の導入,民営化など〈ふつうの国〉への転換をはかろうとしているが,議会の強い抵抗にあっている。
またクウェート社会のかかえる大きな問題として外国人労働力への依存があげられる。政府はクウェート人化政策をかかげ,徐々に政府職員を外国人からクウェート人に入れ換えているが,効率を追求する民間企業ではかならずしもこの政策はうまくいっていない。
執筆者:冨岡 倍雄
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ペルシア湾北西の国。18世紀にアラビア半島中央から移住したスバーフ家などウトゥーブ族の支配が確立。オスマン帝国の宗主権を認めながらも実質的には独立国として振舞った。19世紀末にイギリスの保護下に入り,1961年独立して憲法,議会を整備した。首都はクウェート市。90年イラクに占領されたが,翌年多国籍軍により解放される(湾岸戦争)。天然真珠の採取を経済の柱としていたが,第二次世界大戦後は世界有数の産油国となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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