基本情報
正式名称=レバノン共和国al-Jumhūrīya al-Lubnānīya,Republic of Lebanon
面積=1万0452km2
人口(2010)=422万人
首都=ベイルートBeirut(日本との時差=-7時間)
主要言語=アラビア語
通貨=レバノン・ポンドLebanese Pound
地中海東岸にある共和国,およびその地域の名称。アラビア語ではルブナーンLubnānと呼ばれる。
自然,住民
シリア・アラブ共和国とイスラエルの両国と国境を接する岐阜県ほどの面積で,山岳・高原が国土の過半を占める。人口は推計によるもので,人口調査は1932年にフランスが行ったものを除けば,政治的理由でなされていない。
海岸線に沿って細い平坦地が南北に延びているが,国土の中央をレバノン山脈とシリアとの国境をなすアンチ・レバノン山脈がほぼ並走しており,両山脈の中間に標高約900mのベカー高原がある。ローマ帝国領であった時代には〈ローマの穀倉〉と評されたほどに肥沃で,ブドウ酒も名物であった。地中海に面する斜面は冬でも雨が多く夏は高温多湿,内陸部は大陸性気候で乾燥しているなど,地形・気候ともに変化に富む。
住民は大部分がアラブ系ながら,クルド,アルメニア,トルコ,ギリシア系の少数人口をもつ。社会的・政治的帰属は宗教宗派への所属で決まり,大小の諸宗教・宗派が混在している。人種的には北方セム系が中心で,体格もよく美貌で知られている。言語はアラビア語が日常語で,フランス語とともに公用語であるが,アルメニア語,ギリシア語,クルド語なども用いられているほかに,英語もよく通ずる。
古代のフェニキア人の末裔で,有史以来国際通商の大舞台で活躍しており,その遺跡も多い。今日なお中継貿易国家であり,また多数の海外在住人口をもつ。しかし,その根底には多彩で高い農業生産力があることはしばしば見落とされやすい。良質・豊富な水資源に恵まれていることが農業の生産力を支えているが,他方で海,山,高原と変化に富む自然が多彩な農業生産を保障してきた。同時に自然の変化に恵まれていることと,その風光の明美さが新鮮な果物,良質の飲料水の多さと相まって国全体が豊かな観光・保養地の条件をそなえている。季節によっては,午前に山でスキーを楽しみ,午後からは海水浴を楽しむことさえもできる。
歴史,政治
今日のレバノンの原型は〈山のレバノン〉にある。レバノン山脈とベカー高原とがその中心であったが,沿岸地帯やアンチ・レバノン山脈を含む今日の版図は〈大レバノン〉と称されている。それ以前にはレバノンといえば〈山のレバノン〉のことであった。またレバノンは歴史的シリア(シリア,レバノン,パレスティナ,ヨルダンを含む地域。大シリア,シャームとも呼ばれる)の一隅をなし,シリア全体の歴史の歩みと深く結びついていた(これについては〈シリア〉の項目を参照されたい)。
レバノンは,多数の都市国家で栄えたフェニキア時代の後,沿岸部を多くの勢力が南下し北上する〈通路〉となる地政学的な宿命で,さまざまの征服者たちを迎え,かつ送ったが,〈山のレバノン〉は地形そのものが天然の要塞をなしていたから荒廃を免れることができた。そればかりか,資源的・経済的にも自給力があったし,自衛することも可能であったから,山間部の住民は自治を維持することがどの権力の下でもできた。17~18世紀には,ドルーズ派のマーンMa`n家の勢力がシリアの内陸やパレスティナに及ぶこともあったし,山のレバノンは政治的統合に向けて動きはじめていた。
19世紀の前半に,一時エジプトのムハンマド・アリー朝の支配を受けたが,その頃になると新しい転機が熟する。山間部の名望家(アーヤーン)の間で政治的統合をめぐる抗争がひろがり,その対立も北部のマロン派キリスト教名望家と南部のドルーズ派イスラムの名望家との二極化への傾向を,それぞれ内部に緊張をはらみながらも,示すようになった。
やがて指導力を握ったドルーズ派の名望家シハーブShihāb家のバシール2世がマロン派キリスト教に改宗することで,ひとつの決着がもたらされた。その背後には,大きな社会的・経済的な変化と軍事技術の変化への対応が名望家の間で競われるという事態があった。そのとき,広大な荒地を桑畑に転化させて,国際商品である生糸の生産に向かい,新鋭兵器の購入資金を調達したマロン派教団の経済力と政治工作とがあった。シハーブ家の改宗もこの変化に即したものであり,マロン派教団は国民宗教としての政治的正統性を確立することに腐心したのであった。
生糸生産のための養蚕の普及は,植樹者に与えられてきた伝統的権利の承認となったから,土地の私有制に転化する契機をつくり,自営農民が生まれた。権力闘争に明け暮れした名望家層は,武器購入のために養蚕を奨励したことでしだいに領地と領民に対する統制力を失うかたわら,開発を行い,残る領地での収奪を強めたので,18世紀の中ごろから農民一揆が全国的規模で相次いで起きた。また,一部には徴兵と重税をのがれて逃散する農民も少なくなかった。
こうした社会的変化に並行してマロン派教団の内部における変化があった。下級聖職者に農民出身者が増え,名望家層出身の上級聖職者に教団内部の改革を求める動きが始まっていたし,農民たちに共鳴するところが少なからずあった。
こうした背景で,名望家たちとマロン派教団という大地主層に抵抗する全国組織が精力的で有能な一野鍛冶ターニユスṬānyusを中心人物にしてでき上がって,〈農民共和国〉が宣言される事態(1859)にまで発展した。このとき,マロン派教団の危機をみて〈キリスト教徒と聖地〉を保護するという名目で,その実は東方貿易の利権を確保するために,フランスが軍事介入してきた。
上陸軍が最初に攻撃・制圧したのは蜂起農民の拠点であった。こうして自生的な近代化の芽は外国軍隊によってつまれてしまうが,外国の勢力に依存することで既得権の擁護・拡大を企てるのが,これから後も保守的政治指導者たちの基本的な行動様式となる。それは問題の解決ではなく引き延ばしにすぎないが,重ね重ね繰り返されて今日に至っている。
この時期に問題を複雑にしたものに人口構成の変化があった。南部では名望家間の抗争で人口の減少が続いてきた間に,北部では自然増が激しく,したがって北部のキリスト教徒が南下してイスラム教徒地主の下で小作人となった。その逆の例も政争の結果として生じたことから,農民相互の対立,地主小作関係に宗派的利害が重複することになった。19世紀以来体制の近代化を目ざして一連の改革に着手してきたオスマン帝国中央政府も,農民間の宗派的対立に地主小作関係が交錯する不安定な状況に手を焼き,曲折を経て,キリスト教徒に6,イスラム教徒に5の割合で権力を配分することで調整した。
第1次大戦後,レバノンはフランスの委任統治下に置かれるが,この権力配分による名望家の合議制は温存された。1944年正式に独立を達成したけれども,1926年に名望政治家の合意で制定された〈国民憲章〉は,6対5という議席配分比に加えて,大統領はマロン派キリスト教徒,首相と国会議長(一院制)はそれぞれスンナ派とシーア派のイスラム教徒という権力配置を固定させてしまった。
44名の議員定数で発足した国会は,第2次大戦後の総選挙のたびに定員を増加させてきたが,100名を超すところで事態は爆発する。その理由は内外にあるが,いずれにしても〈山のレバノン〉の旧名望家層にはもはや政治指導力がなくなったという構造的な変化があり,それにもかかわらず,6対5という比率は不変とする〈キリスト教共和国〉への執着が宗派の別を超えて指導的政治家には根強い。
第2次大戦後のアラブ世界の激しい政治変化のなかで,イスラム教徒の大海のなかの孤島として親西欧路線をとるか,アラブ統合に参加するか,という外交問題をめぐってレバノン政局は動いてきた。そこには,19世紀とは逆にイスラム教徒人口の自然増が著しく,すでに人口比は逆転しており,彼らのアラブ民族主義への共鳴と政治的均等化への要求とが重なり合っている。その混迷は,数次にわたるパレスティナ難民の流入,とくに1970年代,ヨルダン王制のパレスティナ人弾圧(黒い九月事件)以降の大量流入でいっそう深まった。パレスティナ勢力が南レバノンで大きな軍事的勢力となると,1975-76年には,キリスト教徒諸勢力とイスラム教徒(レバノン人とパレスティナ人)諸勢力が入り乱れるレバノン内戦に発展し,首都ベイルートは東(キリスト教徒地区)と西(イスラム教徒地区)に分断された。キリスト教徒勢力はシリアの軍事介入を要請し,以後シリア軍がレバノンに駐留することとなった。さらに82年6月には,イスラエルがパレスティナ勢力の撤退と親イスラエル政権の樹立を狙って侵入し,レバノンは国際政治と軍事戦略の大渦に巻き込まれ,ふたたび諸派の武力衝突の泥沼にのめりこんでしまった。イスラエル軍は85年6月に撤退したが,レバノン南部を〈安全保障地域〉と称し,反イスラエル・親イスラエル諸勢力が入り乱れて軍事活動が続いている。
89年11月に国会が開かれ,国民和解憲章を採択するとともに,1年余不在だった大統領を新たに選出した。しかし,新大統領は就任直後に暗殺され,政情不安を如実に示した。90年初頭にはふたたび内戦状態となったが,シリア軍の介入で停戦。国民和解憲章にもとづいてキリスト教徒とイスラム教徒の議席が同数になり,やっと安定への兆しが現れた。この国の政治には19世紀以来つねに列強が介入してきたが,〈イラン革命〉後は〈イスラエル対シリア・イラン〉および〈シリア対イラク〉という域内対立が,国内の地方・宗派・階級的な対立の構図に重複されるようになった。しかし90年代に入ってからはサウジアラビアの調停が実効をあげ,イスラエルの工作も弱まった。
経済,産業
第2次大戦後,経済復興のために統制を敷く国が多いなかで,レバノンは自由経済体制を採り,中東の一大金融中心地となり,とくにオイル・マネーの流入・堆積で隆盛をきわめた。また,国際航空路の発達がベイルートの地歩を高め,高い消費水準と良質のサービスとで一大保養地・観光地となった。産油国の不動産投資もまずこの国に集中して都市景観を一新させたし,近代的な高層住宅や大ホテルなどを急増させた。しかし,1975年以降の内戦でその都市機能はすっかり失われてしまった。
軽工業も食品加工などのほかにみるべきものはなく,建設業が第2次産業部門の中心で,商業ほかの第3次部門が国民所得の半分を占める。貿易収支は常に赤字でも,北米,中南米と産油国に居留する家族成員からの送金で全体としては収支均衡している。産油国には専門職,技能職も多く出ているが,アフリカの奥地に入り込んで活発な商業活動をする者も今なお少なくないし,中南米諸国ではすでに確固たる地歩を実業界で築き上げている者も多い。それらの流出人口がいずれも,故国の山村に住む親類・縁者との交流を保ち続けているから,国際事情についての国民の知識は驚くほど高く正確である。1970年代の中葉から15年に及ぶ内戦で,専門職・技能職・知識人の多くが国外に逃れたし,その過半はいまだに帰国していない。このことと,第2次大戦後の30年にわたり,中東で最も華やかな存在であったベイルートの荒廃と東西分裂が,この国の復興を遅れさせている。
社会,文化
100年以上の歴史をもつベイルート・アメリカ大学(1866創設)は中東最古の近代的大学で,とくにその医学部の風土病・熱帯医学研究でよく知られ,インドからアフリカに至る各地から留学生を集めている。その前身である〈シリア清教カレッジ〉時代には講義もアラビア語で行われ,アラビア語の伝承,説話,詩,歌謡などの収集・保存運動が卒業生によってなされた。それは,オスマン帝国政府にアラビア語の公用語化を求める政治運動の伏線で,レバノンはアラブ世界における〈言語ナショナリズム〉の発祥地であり一大拠点となった。
その伝統は現在も生き続けて,中東で最も自由な言論・出版活動の中心となっている。フランス文化の影響も深く,とくにフランス大学(サン・ジョセフ大学。1881創立)はその拠点となっているが,中東の考古学,イスラム文献学の実績でも有名である。
フランス風に自由で文化的な雰囲気は,中東・アフリカ諸国からの亡命政客を迎える要因になっている。各宗派・政党が機関紙を,アラビア語,英語,フランス語などで発行している。アルメニア語,ギリシア語の新聞もあるし,世界中ほとんどの国の新聞・雑誌を入手できる。そこにこの国の高い教育水準と外国人居留者の多彩さをみることができるだろう。
執筆者:林 武