レバノン(読み)ればのん(英語表記)Republic of Lebanon 英語

共同通信ニュース用語解説 「レバノン」の解説

レバノン

地中海東端に面し、人口約535万人。キリスト教とイスラム教のスンニ派、シーア派など宗教・宗派が入り組んだモザイク国家。首都ベイルートは「中東のパリ」と称され、中東の経済中心地として栄えたが、1975~90年の内戦で経済が疲弊した。元日産自動車会長カルロス・ゴーン被告はレバノン国籍を持ち、2019年12月に日本からベイルートに逃亡した。(エルサレム共同)

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精選版 日本国語大辞典 「レバノン」の意味・読み・例文・類語

レバノン

  1. ( Lebanon ) 地中海東岸中部にある共和国。一九二三年フランスの委任統治領となり四四年独立。伝統的な商業国で、主に中継貿易が経済を支えている。首都ベイルート。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「レバノン」の意味・わかりやすい解説

レバノン
ればのん
Republic of Lebanon 英語
Al-Jumhūrīya al-Lubnānīya アラビア語

西アジア西部、地中海東岸にある国。正称レバノン共和国Al-Jumhūrīya al-Lubnānīya。北および東はシリア、南はイスラエルと国境を接する。面積は1万0400平方キロメートルで岐阜県と同じくらい、人口375万5000(2004推計)。首都はベイルート。1975年以来の内戦がシリアの介入によって1990年に終結し、復興への歩みを始めた。

[高橋和夫]

自然

地中海沿岸の狭い平野部を除いて全体に山がちで、中央部にはクルナ・アル・サウダ山(3088メートル)を最高峰とするレバノン山脈が南北に走り、シリアとの国境沿いにはヘルモン山(2815メートル)を最高峰とするアンティ・レバノン山脈が、レバノン山脈と並行して連なる。これらの山脈の間には南北120キロメートル、東西8~15キロメートルにわたって、標高1000メートル内外のベカー高原が広がり、オロンテス川が北流し、リタニ川が南流する。

 地中海沿岸平野は典型的な地中海性気候を示し、夏は高温で寡雨となるが冬は温暖で降水があり、年降水量は所によっては1000ミリメートルに達する。首都ベイルートの年平均気温は19.7℃、最高は8月の26.5℃、最低は1月の13.1℃。年降水量は825.5ミリメートルで11月から2月に雨が多く、6月から9月までの夏は雨が少なく乾燥している。多量の降水があるレバノン山脈の海岸側斜面は、松柏(しょうはく)類やレバノンスギなどの森林に覆われている。内陸に移るにつれて降水量は減少し、気候は乾燥して夏はかなりの高温となる。しかし高山地帯では冬には気温が下がり、通常12月から5月にかけては雪が見られる。これがレバノンという地名の語源になったとの説もある。なぜならばアラム語で白は「ラバーン」だからである。気候によっては山地ではスキーが、海岸部では水上スキーが同時に可能な、世界でもまれな国である。

[高橋和夫]

歴史

良港に恵まれたレバノンは古くから交易の中心として栄えてきた。紀元前3000年ごろからフェニキア人が海岸地帯を根拠地とし、ティルス(現、ティール)、シドン(現、サイダ)など多くの都市国家を建設した。その後、バビロニア、ペルシア、ローマなどの支配が及び、ローマ時代にはティルスに海軍基地が置かれ、キリスト教が広められた。しかし、紀元後7世紀にイスラム教を奉じるアラブ人に征服されて以後、アラブ化、イスラム化が進行した。この時代には山岳地帯がシーア派、ドルーズ派などイスラム教から派生した少数派やマロン派キリスト教徒などの避難地となった。11~12世紀にはセルジューク朝と十字軍との争奪の場となり、16世紀にはオスマン帝国に併合され、19世紀まで同帝国の宗主権の下で、半独立的な諸勢力がレバノンを支配した。19世紀に入るとオスマン帝国はレバノンの直接支配を試みたが失敗し、マロン派キリスト教徒とドルーズ派の間で紛争が起こり、多数のキリスト教徒が殺害された。この紛争にフランスが介入し、その圧力の下に1861年、マロン派キリスト教徒はオスマン帝国から自治権を獲得した。さらに第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、1920年4月のサン・レモ会議で、ベカー高原などの内陸部もレバノンに併合された。しかし、この措置によってレバノンは多数のイスラム教徒を抱えることとなった。これにより、マロン派キリスト教徒の数のうえでの圧倒的な優位が崩れた。そして1923年にはシリアとともにフランスの委任統治領となった。だが、1926年、シリアから分離して委任統治下での自治国の地位を獲得し、1944年1月に完全独立を達成した。

 独立後のレバノンは、複雑な宗派の対立を背景に独特の宗派連合国家を形成し、政治的には中立主義、経済的には徹底した自由化政策を推進し、アラブ諸国の物資と情報のターミナルとして独自の繁栄を保ってきた。しかし、1948年のイスラエルの建国以来、中東情勢の激動に必然的に巻き込まれることになった。とくに1970年のヨルダン内戦以後、同国より多数のパレスチナ人が流入し、レバノンはパレスチナ解放機構(PLO)を中心としたパレスチナ・ゲリラの根拠地となり、たびたびイスラエルの報復攻撃を受けた。1975年2月にはパレスチナ・ゲリラを支援するイスラム教徒とそれに反対するキリスト教徒の内戦が起こり、1976年11月にシリア軍の介入を招いた。さらに1982年6月、イスラエルがレバノンへ侵攻し、PLOの掃討のため西ベイルートを完全包囲し、2か月にわたって猛爆撃した。同年8月アメリカの調停によりPLOの西ベイルート撤退で合意が成立し、約1万人のPLOゲリラはアラブ8か国へ退去した。それ以後も、1982年9月のキリスト教民兵によるパレスチナ難民虐殺事件、1983年7~9月のキリスト教、イスラム教各派による内戦の激化とアメリカ海軍の艦砲射撃、1983年10月のアメリカおよびフランスの駐屯本部での爆発事件などが相次いだ。その結果、多くの犠牲を出し、アメリカ軍やフランス軍は撤退した。さらにレバノンの南半分を占領するイスラエル軍に対してシーア派がゲリラ戦を挑んだ。シーア派ゲリラの死をいとわぬ攻撃によってイスラエル軍は多くの犠牲者を出し、イスラエルはついに1985年にレバノンから撤退した。しかし、その後も南部の一部は「安全保障地帯」としてイスラエルによる占領が続き、「南レバノン軍」という親イスラエルのレバノン人傭兵(ようへい)部隊が配置されていた。ここではシーア派の組織ヒズボッラー(ヒズボラ)と、イスラエル軍および南レバノン軍とのあいだで交戦が断続的に行われていた。犠牲の多さからイスラエルでは撤退を求める声が高まり、2000年にイスラエル軍は撤退、南レバノン軍は解体した。ただし国境地帯の緊張は依然続いている。

 2006年7月12日レバノンとイスラエルの国境地帯で、ヒズボッラーがイスラエル兵2名を拉致(らち)したことに対しイスラエル軍がレバノン南部に侵攻を開始。イスラエル軍の空爆により民間人の死傷者が多数出るなどして、同軍は国際社会の非難を浴びた。その後、国連安保理決議を受け、同年8月14日に停戦が発効、10月1日にはレバノン南部に駐留していたイスラエル軍が撤退し国連レバノン暫定軍UNIFIL)に支配地域を引き渡したが、イスラエルはこの地域でのヒズボッラーの武装勢力を一掃することはできなかった。

 なお41万3000人(2007)のパレスチナ難民がレバノンに残されたままとなっている。

[高橋和夫]

政治

1943年に決定された国民協約では、大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニー派イスラム教徒、国会議長はシーア派イスラム教徒、国会議員はキリスト教徒6、イスラム教徒5の比率で配分し、閣僚も各宗派に配分することなどが規定されていた。しかし、国民協約の基礎は1932年の人口調査(キリスト教徒54%、イスラム教徒45%)に基づいたもので、イスラム教徒が増加したという人口構成の変化を反映しておらず、イスラム教徒の不満が強かった。逆にキリスト教徒側は人口のバランスの変化にもかかわらず特権を保持し続けようとした。これが1975年の内戦勃発(ぼっぱつ)の背景となった。内戦と各派の分裂はシリア、イスラエルなどの周辺諸国ばかりでなくイラク、フランス、アメリカなどの介入を招いた。幾多の変転を経た内戦に終結の機会を与えたのは、1990年のイラクのクウェート侵攻であった。イラクを孤立させるためにアメリカはシリアの協力を仰いだ。シリアは多国籍軍に派兵してアメリカに協力した見返りに、レバノンでの行動の自由を得た。一方レバノンでのシリアの覇権に反対していたアウン将軍などの勢力はイラクの援助に依存していた。しかし湾岸危機で孤立したイラクからアウンへの支援がとぎれた。自らに有利な国際環境下、反シリア勢力の孤立という機会を逃さずにシリア軍が動いた。1990年10月アウンが降伏して内戦が終結した。その後ヒズボッラーを除く各派の武装解除が行われ、レバノンにシリアの力による平和が確立された。シリア軍はその後も駐留を続け、レバノンでは実質上シリアの意向を無視しては何事も行えない状況が続いていた。1991年5月にはシリア・レバノン同胞協力調整条約が調印され、シリアはこの現状に法的な体裁を整えた。その後、レバノン国民の要求や国際情勢などから、2005年4月に29年間レバノンに駐留してきたシリア軍は撤退したが、反シリア派と親シリア派の対立は続き、2007年には武装勢力ファタハ・イスラームと国軍の衝突、2008年にはヒズボッラーによる西ベイルート武力制圧が行われたが、ドーハ合意によって沈静化。7月に挙国一致内閣が成立した。

 内政面では1989年サウジアラビアのタイーフで合意された国民和解憲章に基づいて体制の変更が実施された。これはイスラム教徒の発言権を強めるものである。たとえば議員数では旧制度の下ではキリスト教徒優位であったが、新しい制度ではキリスト教徒とイスラム教徒が同数となった。同様に閣僚数も同数となった。議会は一院制で128議席、任期は4年。政体は共和制。元首は大統領、任期は6年。

[高橋和夫]

経済・産業

内戦以前は自由港ベイルートを中心とする中継貿易と金融業、観光収入、海外移住者の送金などの貿易外収入が多く、国内総生産の約70%を第三次産業に依存していた。とくに金融業の発展は著しく、1952年に為替(かわせ)制限を撤廃し、金融活動を自由化するなどの自由経済政策をとっていた。また中継貿易の柱として、アラブ産油国の石油輸出基地となり、イラクのキルクーク油田やサウジアラビアの油田からトリポリなど地中海岸へのパイプラインを建設し、多額の通過料を得ていた。観光も重要な産業である。避暑地、避寒地としての自然条件に恵まれているほか、バールベック神殿などフェニキア時代以来の遺跡も多く、また医療水準が高いため、中東各地の富裕層が病気治療と保養のために長期滞在する例も多かった。

 しかし、1975年以後の内戦と政情不安によって経済は壊滅的打撃を受けた。1990年に内戦が終結すると政府は経済復興を優先目標として掲げた。その政策を体現したのが1992年10月に首相に就任したラフィーク・ハリーリRafiq al-Hariri(1944―2005)である。ハリーリは、サウジアラビアでの建設工事で巨富を築いた人物である。ハリーリ内閣の下でレバノン経済は1995年まで年率7%の成長を実現した。内戦前の繁栄を取り戻すために、金融、観光、医療、教育などのインフラ(基盤)の復興に力が入れられている。復興への資金需要は膨大であり、国内預金だけでまかなえるのは、せいぜい3分の1程度にすぎない。海外からの資金の導入が、復興のスピードを決める鍵(かぎ)である。また一部ではハリーリのサウジアラビアとの密接な関係が、ペルシア湾岸の産油諸国からの資金の流れを導くのではと期待されていた。海外に居住するレバノン出身者が保有する、最低でも400億ドルともいわれる資金のレバノンへの投資も重要である。華僑(かきょう)の投資が中国の経済的な離陸を助けた例が想起される。

 1996年には成長率は年で4%程度にまで低下し、1997年以降もその傾向は続いている。経済成長率の低下の一因は、1996年に行われたイスラエルによる南部レバノンへの大規模な攻撃「怒りの葡萄(ぶどう)作戦」であった。レバノンを含む地域全体の景気に暗い影を投げかけているのは、中東和平プロセスが実質上止まっていることである。

 レバノンの輸出品は、繊維、宝石、化学製品、果物、野菜などが中心で、輸入品は車両や電気製品、石油製品、医薬品が多い。輸出額は34億7800万ドル、輸入額は161億3700万ドル(2008)、おもな輸出相手国はシリア、アラブ首長国連邦、スイス、サウジアラビアなど、おもな輸入相手国はシリア、イタリア、フランス、アメリカ、中国など。貿易収支は大幅な輸入超過で、外資の導入によって埋め合わせられている。また財政も赤字状態が慢性化しており、これもまた外資の流入によってなんとか帳尻(ちょうじり)があわされている。こうした理由から2008年末には対外累積債務が約470億ドルにも達している。国内総生産240億ドル(2007)の2倍にも上る額であり、税収のかなりの部分がその利子の支払いに使われている。レバノンの復興進展のためには、経済の改革が必要な時期に入っている。2006年のおもな援助国はアメリカ約9100万ドル、フランス7400万ドル、イタリア4400万ドル、ドイツ2900万ドル、ノルウェー2800万ドルなどとなっている。日本との経済関係では、輸出額450万ドル、輸入額6億1980万ドルとレバノンの大幅輸入超過になっている(2008)。日本へのおもな輸出品目はアルミニウムや銅くずなどの非鉄金属、化学製品など、日本からのおもな輸入品目は自動車、電気製品、電気機器などである。2007年末までの日本の援助は有償資金協力約130億円、無償資金協力約28億円、技術協力約11億5000万円となっている。

[高橋和夫]

社会・文化

公用語はアラビア語であるが、フランス語が、そして最近では英語が普及しており、教育を受けた人々の多くはこの3か国語を話す。

 政治的な理由から1932年以来公式の人口調査は行われていない。しかし1980年代の推定ではイスラム教徒が人口の6割を占めている。イスラム教徒の増加にはいくつかの要因が指摘されている。貧しい層が比較的多いイスラム教徒のほうがキリスト教徒より出生率が高いこと、難民として流入したパレスチナ人の多くがイスラム教徒であったこと、さらには教育水準の高いキリスト教徒のほうが海外への移住や出稼ぎに出る機会が多いことなどである。こうした要因の結果として南部を中心に生活するイスラム教徒シーア派が、人口では最大のグループに成長している。

 迫害を受けた少数派がレバノンの山地に逃れたという歴史的な経緯を反映して、宗派は多種多様であり、「生きた宗教の博物館」とよばれるほどである。おもなものにはイスラム教のシーア派、スンニー派、ドルーズ派、そしてキリスト教のマロン派、ギリシア正教、ギリシア・カトリック、アルメニア正教、カトリック、プロテスタントなどが存在する。

 内戦中は多くのレバノン人が国を離れたため人口は激減したが、戦争が終わると人々が戻り始めた。その結果として高い人口増加率をみせている。また人口密度の高さも世界で有数である。

 19世紀末よりレバノンは250万にも上る人々を北アメリカやアフリカなどに送り出してきた。そのなかには著名となった人物も多い。たとえばアメリカの消費者運動のリーダー、ラルフ・ネーダーRalph Naderはレバノン系の人物である。レバノン移民は、世代を経ても故郷と密接な関係を維持する傾向が強く、移民や出稼ぎからの送金はレバノンにとっては貴重な収入源であり、国民総生産の3分の1にもあたるとされている。

 教育制度は小学校6年、中学校3年、高等学校3年の六・三・三制だが、フランス方式の小学校5年、中学校4年、高等学校3年の五・四・三制の学校もある。義務教育は6年間で、授業は公用語のアラビア語のほかに英語あるいはフランス語で行われており、教育水準は高い。19世紀に設立されたアメリカン・ベイルート大学は、内戦前は中東全域から俊英を集めていた。ほかに国立総合大学のレバノン大学、カトリック系のセント・ジョセフ大学など12の大学が存在している。そのなかには内戦の間に設立されたものもあり、レバノンが教育にかける期待の大きさをうかがわせる。レバノンでは昔から多くの新聞が発刊されてきた。アラビア語日刊紙にはアンナハル、アルアンワル、アッサフィルなどがあり、それぞれ中立系、保守系、左派系などの独自の主張をもっている。英語日刊紙にはザ・ディリー・スター、レバノン・ニュース・ワイヤー、アルハヤトなどがある。テレビ局は国営テレビのほかにLBC(レバノン放送)、フューチー・テレビジョン、ヒズボッラー系のアルマナルなどがある。

[高橋和夫]

『P・K・ヒッティ著、小玉新次郎訳『レバノンの歴史』(1977・山本書店)』『板垣雄三編『新中東ハンドブック』(1992・講談社)』『青山弘之・末近浩太著『現代シリア・レバノンの政治構造』(2009・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「レバノン」の意味・わかりやすい解説

レバノン
Lebanon

基本情報
正式名称=レバノン共和国al-Jumhūrīya al-Lubnānīya,Republic of Lebanon 
面積=1万0452km2 
人口(2010)=422万人 
首都=ベイルートBeirut(日本との時差=-7時間) 
主要言語=アラビア語 
通貨=レバノン・ポンドLebanese Pound

地中海東岸にある共和国,およびその地域の名称。アラビア語ではルブナーンLubnānと呼ばれる。

シリア・アラブ共和国とイスラエルの両国と国境を接する岐阜県ほどの面積で,山岳・高原が国土の過半を占める。人口は推計によるもので,人口調査は1932年にフランスが行ったものを除けば,政治的理由でなされていない。

 海岸線に沿って細い平坦地が南北に延びているが,国土の中央をレバノン山脈とシリアとの国境をなすアンチ・レバノン山脈がほぼ並走しており,両山脈の中間に標高約900mのベカー高原がある。ローマ帝国領であった時代には〈ローマの穀倉〉と評されたほどに肥沃で,ブドウ酒も名物であった。地中海に面する斜面は冬でも雨が多く夏は高温多湿,内陸部は大陸性気候で乾燥しているなど,地形・気候ともに変化に富む。

 住民は大部分がアラブ系ながら,クルド,アルメニア,トルコ,ギリシア系の少数人口をもつ。社会的・政治的帰属は宗教宗派への所属で決まり,大小の諸宗教・宗派が混在している。人種的には北方セム系が中心で,体格もよく美貌で知られている。言語はアラビア語が日常語で,フランス語とともに公用語であるが,アルメニア語,ギリシア語,クルド語なども用いられているほかに,英語もよく通ずる。

 古代のフェニキア人の末裔で,有史以来国際通商の大舞台で活躍しており,その遺跡も多い。今日なお中継貿易国家であり,また多数の海外在住人口をもつ。しかし,その根底には多彩で高い農業生産力があることはしばしば見落とされやすい。良質・豊富な水資源に恵まれていることが農業の生産力を支えているが,他方で海,山,高原と変化に富む自然が多彩な農業生産を保障してきた。同時に自然の変化に恵まれていることと,その風光の明美さが新鮮な果物,良質の飲料水の多さと相まって国全体が豊かな観光・保養地の条件をそなえている。季節によっては,午前に山でスキーを楽しみ,午後からは海水浴を楽しむことさえもできる。

今日のレバノンの原型は〈山のレバノン〉にある。レバノン山脈とベカー高原とがその中心であったが,沿岸地帯やアンチ・レバノン山脈を含む今日の版図は〈大レバノン〉と称されている。それ以前にはレバノンといえば〈山のレバノン〉のことであった。またレバノンは歴史的シリア(シリア,レバノン,パレスティナ,ヨルダンを含む地域。大シリア,シャームとも呼ばれる)の一隅をなし,シリア全体の歴史の歩みと深く結びついていた(これについては〈シリア〉の項目を参照されたい)。

 レバノンは,多数の都市国家で栄えたフェニキア時代の後,沿岸部を多くの勢力が南下し北上する〈通路〉となる地政学的な宿命で,さまざまの征服者たちを迎え,かつ送ったが,〈山のレバノン〉は地形そのものが天然の要塞をなしていたから荒廃を免れることができた。そればかりか,資源的・経済的にも自給力があったし,自衛することも可能であったから,山間部の住民は自治を維持することがどの権力の下でもできた。17~18世紀には,ドルーズ派のマーンMa`n家の勢力がシリアの内陸やパレスティナに及ぶこともあったし,山のレバノンは政治的統合に向けて動きはじめていた。

 19世紀の前半に,一時エジプトのムハンマド・アリー朝の支配を受けたが,その頃になると新しい転機が熟する。山間部の名望家(アーヤーン)の間で政治的統合をめぐる抗争がひろがり,その対立も北部のマロン派キリスト教名望家と南部のドルーズ派イスラムの名望家との二極化への傾向を,それぞれ内部に緊張をはらみながらも,示すようになった。

 やがて指導力を握ったドルーズ派の名望家シハーブShihāb家のバシール2世がマロン派キリスト教に改宗することで,ひとつの決着がもたらされた。その背後には,大きな社会的・経済的な変化と軍事技術の変化への対応が名望家の間で競われるという事態があった。そのとき,広大な荒地を桑畑に転化させて,国際商品である生糸の生産に向かい,新鋭兵器の購入資金を調達したマロン派教団の経済力と政治工作とがあった。シハーブ家の改宗もこの変化に即したものであり,マロン派教団は国民宗教としての政治的正統性を確立することに腐心したのであった。

 生糸生産のための養蚕の普及は,植樹者に与えられてきた伝統的権利の承認となったから,土地の私有制に転化する契機をつくり,自営農民が生まれた。権力闘争に明け暮れした名望家層は,武器購入のために養蚕を奨励したことでしだいに領地と領民に対する統制力を失うかたわら,開発を行い,残る領地での収奪を強めたので,18世紀の中ごろから農民一揆が全国的規模で相次いで起きた。また,一部には徴兵と重税をのがれて逃散する農民も少なくなかった。

 こうした社会的変化に並行してマロン派教団の内部における変化があった。下級聖職者に農民出身者が増え,名望家層出身の上級聖職者に教団内部の改革を求める動きが始まっていたし,農民たちに共鳴するところが少なからずあった。

 こうした背景で,名望家たちとマロン派教団という大地主層に抵抗する全国組織が精力的で有能な一野鍛冶ターニユスṬānyusを中心人物にしてでき上がって,〈農民共和国〉が宣言される事態(1859)にまで発展した。このとき,マロン派教団の危機をみて〈キリスト教徒と聖地〉を保護するという名目で,その実は東方貿易の利権を確保するために,フランスが軍事介入してきた。

 上陸軍が最初に攻撃・制圧したのは蜂起農民の拠点であった。こうして自生的な近代化の芽は外国軍隊によってつまれてしまうが,外国の勢力に依存することで既得権の擁護・拡大を企てるのが,これから後も保守的政治指導者たちの基本的な行動様式となる。それは問題の解決ではなく引き延ばしにすぎないが,重ね重ね繰り返されて今日に至っている。

 この時期に問題を複雑にしたものに人口構成の変化があった。南部では名望家間の抗争で人口の減少が続いてきた間に,北部では自然増が激しく,したがって北部のキリスト教徒が南下してイスラム教徒地主の下で小作人となった。その逆の例も政争の結果として生じたことから,農民相互の対立,地主小作関係に宗派的利害が重複することになった。19世紀以来体制の近代化を目ざして一連の改革に着手してきたオスマン帝国中央政府も,農民間の宗派的対立に地主小作関係が交錯する不安定な状況に手を焼き,曲折を経て,キリスト教徒に6,イスラム教徒に5の割合で権力を配分することで調整した。

 第1次大戦後,レバノンはフランスの委任統治下に置かれるが,この権力配分による名望家の合議制は温存された。1944年正式に独立を達成したけれども,1926年に名望政治家の合意で制定された〈国民憲章〉は,6対5という議席配分比に加えて,大統領はマロン派キリスト教徒,首相と国会議長(一院制)はそれぞれスンナ派とシーア派のイスラム教徒という権力配置を固定させてしまった。

 44名の議員定数で発足した国会は,第2次大戦後の総選挙のたびに定員を増加させてきたが,100名を超すところで事態は爆発する。その理由は内外にあるが,いずれにしても〈山のレバノン〉の旧名望家層にはもはや政治指導力がなくなったという構造的な変化があり,それにもかかわらず,6対5という比率は不変とする〈キリスト教共和国〉への執着が宗派の別を超えて指導的政治家には根強い。

 第2次大戦後のアラブ世界の激しい政治変化のなかで,イスラム教徒の大海のなかの孤島として親西欧路線をとるか,アラブ統合に参加するか,という外交問題をめぐってレバノン政局は動いてきた。そこには,19世紀とは逆にイスラム教徒人口の自然増が著しく,すでに人口比は逆転しており,彼らのアラブ民族主義への共鳴と政治的均等化への要求とが重なり合っている。その混迷は,数次にわたるパレスティナ難民の流入,とくに1970年代,ヨルダン王制のパレスティナ人弾圧(黒い九月事件)以降の大量流入でいっそう深まった。パレスティナ勢力が南レバノンで大きな軍事的勢力となると,1975-76年には,キリスト教徒諸勢力とイスラム教徒(レバノン人とパレスティナ人)諸勢力が入り乱れるレバノン内戦に発展し,首都ベイルートは東(キリスト教徒地区)と西(イスラム教徒地区)に分断された。キリスト教徒勢力はシリアの軍事介入を要請し,以後シリア軍がレバノンに駐留することとなった。さらに82年6月には,イスラエルがパレスティナ勢力の撤退と親イスラエル政権の樹立を狙って侵入し,レバノンは国際政治と軍事戦略の大渦に巻き込まれ,ふたたび諸派の武力衝突の泥沼にのめりこんでしまった。イスラエル軍は85年6月に撤退したが,レバノン南部を〈安全保障地域〉と称し,反イスラエル・親イスラエル諸勢力が入り乱れて軍事活動が続いている。

 89年11月に国会が開かれ,国民和解憲章を採択するとともに,1年余不在だった大統領を新たに選出した。しかし,新大統領は就任直後に暗殺され,政情不安を如実に示した。90年初頭にはふたたび内戦状態となったが,シリア軍の介入で停戦。国民和解憲章にもとづいてキリスト教徒とイスラム教徒の議席が同数になり,やっと安定への兆しが現れた。この国の政治には19世紀以来つねに列強が介入してきたが,〈イラン革命〉後は〈イスラエル対シリア・イラン〉および〈シリア対イラク〉という域内対立が,国内の地方・宗派・階級的な対立の構図に重複されるようになった。しかし90年代に入ってからはサウジアラビアの調停が実効をあげ,イスラエルの工作も弱まった。

第2次大戦後,経済復興のために統制を敷く国が多いなかで,レバノンは自由経済体制を採り,中東の一大金融中心地となり,とくにオイル・マネーの流入・堆積で隆盛をきわめた。また,国際航空路の発達がベイルートの地歩を高め,高い消費水準と良質のサービスとで一大保養地・観光地となった。産油国の不動産投資もまずこの国に集中して都市景観を一新させたし,近代的な高層住宅や大ホテルなどを急増させた。しかし,1975年以降の内戦でその都市機能はすっかり失われてしまった。

 軽工業も食品加工などのほかにみるべきものはなく,建設業が第2次産業部門の中心で,商業ほかの第3次部門が国民所得の半分を占める。貿易収支は常に赤字でも,北米,中南米と産油国に居留する家族成員からの送金で全体としては収支均衡している。産油国には専門職,技能職も多く出ているが,アフリカの奥地に入り込んで活発な商業活動をする者も今なお少なくないし,中南米諸国ではすでに確固たる地歩を実業界で築き上げている者も多い。それらの流出人口がいずれも,故国の山村に住む親類・縁者との交流を保ち続けているから,国際事情についての国民の知識は驚くほど高く正確である。1970年代の中葉から15年に及ぶ内戦で,専門職・技能職・知識人の多くが国外に逃れたし,その過半はいまだに帰国していない。このことと,第2次大戦後の30年にわたり,中東で最も華やかな存在であったベイルートの荒廃と東西分裂が,この国の復興を遅れさせている。

100年以上の歴史をもつベイルート・アメリカ大学(1866創設)は中東最古の近代的大学で,とくにその医学部の風土病・熱帯医学研究でよく知られ,インドからアフリカに至る各地から留学生を集めている。その前身である〈シリア清教カレッジ〉時代には講義もアラビア語で行われ,アラビア語の伝承,説話,詩,歌謡などの収集・保存運動が卒業生によってなされた。それは,オスマン帝国政府にアラビア語の公用語化を求める政治運動の伏線で,レバノンはアラブ世界における〈言語ナショナリズム〉の発祥地であり一大拠点となった。

 その伝統は現在も生き続けて,中東で最も自由な言論・出版活動の中心となっている。フランス文化の影響も深く,とくにフランス大学(サン・ジョセフ大学。1881創立)はその拠点となっているが,中東の考古学,イスラム文献学の実績でも有名である。

 フランス風に自由で文化的な雰囲気は,中東・アフリカ諸国からの亡命政客を迎える要因になっている。各宗派・政党が機関紙を,アラビア語,英語,フランス語などで発行している。アルメニア語,ギリシア語の新聞もあるし,世界中ほとんどの国の新聞・雑誌を入手できる。そこにこの国の高い教育水準と外国人居留者の多彩さをみることができるだろう。
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百科事典マイペディア 「レバノン」の意味・わかりやすい解説

レバノン

◎正式名称−レバノン共和国al-Jumhuriya al-Lubnaniya/Republic of Lebanon。◎面積−1万201km2。◎人口−426万人(2010)。◎首都−ベイルートBeirut(117万人,都市域人口,2003)。◎住民−大部分がアラブ,ほかにクルド人,アルメニア人,トルコ人など。◎宗教−キリスト教(主としてマロン派,ほかにギリシア正教,アルメニア正教など)とイスラム(主としてスンナ派とシーア派,ほかにドルーズ派など)がほぼ半々。◎言語−アラビア語(公用語)が大部分であるが,フランス語,英語も広く用いられる。◎通貨−レバノン・ポンドLebanese Pound。◎元首−大統領,ミッシェル・スレイマンMichel Suleiman(2008年5月選出,2014年5月任期終了。後任の大統領は選出されず,2015年時点空席。)。◎首相−タンマーム・サラームTammam Salam(2014年2月就任)。◎憲法−1989年11月国民和解憲章採択。◎国会−一院制(定員128,任期4年。議席はキリスト教勢力,イスラム教勢力各64とし,それぞれが各宗派に割り当てられる。イスラム教シーア派が議長に就く)(2009)。◎GDP−287億ドル(2008)。◎1人当りGNI−5490ドル(2008)。◎農林・漁業就業者比率−5%(1997)。◎平均寿命−男78.1歳,女82.3歳(2013)。◎乳児死亡率−19‰(2010)。◎識字率−90%(2007)。    *    *西アジア,地中海東岸の共和国。南北にレバノン山脈,アンチ・レバノン山脈が並行して走り,その間にベカー高原がある。海岸平野は地中海式気候,ベカー高原は大陸性気候。農業は果実,柑橘(かんきつ)類が豊富で輸出もされる。経済の中心は中継貿易・金融で,自由港のベイルートがその中心地として繁栄したが,レバノン内戦によりその地位は低下した。ローマ帝国,ビザンティン帝国の支配下にあった時代にキリスト教化し,7世紀以降はイスラム圏に入ったため,現在のような複雑な宗教分布になった。第1次大戦後,オスマン帝国領からシリアの一部としてフランスの国際連盟委任統治領となったが,1926年シリアから分離,1944年完全独立を達成した。40万人といわれるパレスティナ難民の流入もあって国内の政治バランスが崩れ,キリスト教徒とイスラム教徒の対立にパレスティナ解放機構(PLO)もからんで内戦が相ついだ。とくに1975年―1976年のレバノン内戦では死者2万人,負傷者5万人を出した。さらに,1982年のイスラエルによる侵攻はレバノン戦争に発展した。1990年にひとまず内戦は終結し,2000年5月に南部に駐留していたイスラエル軍が,2005年4月にはシリア軍がそれぞれ撤退した。複雑な民族・宗派間の均衡を図るため,大統領はマロン派のキリスト教徒,首相はスンナ派のイスラム教徒,国会議長はシーア派のイスラム教徒から選出される。国会は一院制で定員は128だが,議席はキリスト教徒,イスラム教徒各64で,さらに各宗派(マロン派,ギリシア正教,アルメニア正教,スンナ派,シーア派,ドルーズ派など)に割り当てられる。2005年ハリーリ元首相の暗殺事件が起こり,イスラム教シーア派のヒズボラなどの親シリア派とハリーリ元首相の長男サアド・ハリーリを中心とするイスラム教スンニ派など反シリア派の対立が激しく続いたが,2009年6月の国会選挙で反シリア派が過半数を確保すると,同年11月サアド・ハリーリが首相に就任し親シリア派も含めた挙国一致内閣を発足させることに成功した。しかし,2011年1月ハリーリ元首相の暗殺事件の真相究明のための国際法廷による起訴状をめぐって緊張が高まり,親シリア派の閣僚が一斉に辞任し,挙国一致内閣は崩壊し,シーア派系のミーカーティーが首相に就任した。2013年3月,国会選挙と選挙法改正をめぐる対立でミーカーティー内閣は総辞職した。以降10ヵ月新内閣が組閣されず,ミーカーティー内閣が職務執行行政省として職務を遂行。2014年4月,タンマーム・サラーム首相率いる新内閣組閣。隣国シリアの内戦について政権は不干渉の立場をとっている。またヒズボラなど対イスラエル抵抗組織の活動を許容している。

レバノン[山脈]【レバノン】

レバノン中央部を地中海岸と並行して南北に走る山脈。北のシリア国境からガリラヤ北方の山塊に至る。全長約160km。石灰岩,砂岩からなる。最高峰クルナ・アッサウダ(3086m)。現在は荒廃しているが,古くは船材として有名なレバノン杉におおわれていた。迫害を受けた諸宗派が多く流入し,いまも北部はキリスト教マロン派,南部はイスラムの異端ドルーズ派の居住地となっている。
→関連項目レバノン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「レバノン」の意味・わかりやすい解説

レバノン
Lebanon

正式名称 レバノン共和国 Al-Jumhūrīyah al-Lubnānīyah。
面積 1万452km2
人口 766万(2021推計)。
首都 ベイルート

西アジア,地中海東岸に臨む国。狭い海岸平野に並行してレバノン山脈(1500~3000m)が走り,ビカー高地を隔てて,東方シリア国境にはアンティレバノン山脈が走る。沿岸部は温帯冬雨気候(地中海式気候)であるが,山地は大陸性気候。第1次世界大戦後の 1920年にフランスの委任統治領となり,1923年国際連盟も正式にこれを認めた。1926年共和国憲法制定,1941年独立宣言したがフランスと紛争。1946年駐留フランス軍が撤退し完全独立を達成した。住民は大部分がアラブ人で,ほかにアルメニア人クルド人などが居住する。宗教は,イスラム教徒(スンニー派シーア派)が約 6割,キリスト教徒が約 3割(うち約 2割がマロン派)を占める。不文律によって,大統領はマロン派キリスト教徒,首相はスンニー派イスラム教徒,国会議長はシーア派イスラム教徒から選出される。公用語はアラビア語。主産業は農業で,地中海沿岸では柑橘類や野菜,山地ではオリーブやアーモンド,ブドウなどの果物,ビカー高地では穀類,サトウダイコン,野菜などを栽培する。古代フェニキアの栄えた地で,今日も中継貿易,金融,金取引などの商業活動が盛ん。中東諸国のなかでは教育水準が高く,国外で活躍する商人,技術者も多い。1975~89年のイスラム教徒とキリスト教徒の内戦によって国土が荒廃。1989年10月の国民和解憲章合意後も,両派武装勢力の断続的な対立が続いたが,1990年に終息し,国の再建が進められている(→レバノン内戦)。内戦前は避暑,避寒の観光地として知られた。(→ベイルート史

レバノン
Lebanon

アメリカ合衆国,ペンシルバニア州の南東部にある都市。 1720年ドイツ人が入植。ハリスバーグの北東約 40km,肥沃なレバノン谷に位置する。付近に鉄鉱石,石灰石その他の鉱床があり,独立以前から製鉄の中心であった。現在はほかにボイラ,織物,靴下,化学製品などを産する。人口2万 4800 (1990) 。

レバノン
Lebanon

アメリカ合衆国,テネシー州中東部の都市。ナッシュビル=ダビッドソンの東にある。駅馬車の路線に沿って 1802年に創設され,家畜および農産物の集散地として発達した。主要な作物はタバコ。工業製品としては寝具,衣料,皮製品,自動車部品,家具,時計などがおもである。人口1万 5208 (1990) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「レバノン」の解説

レバノン
Lebanon

地中海の東岸に臨む共和国。首都ベイルート
古代フェニキア人の根拠地で通商の中継地として栄えた。7世紀半ばごろからイスラーム圏に入り,セルジューク朝と十字軍の争奪の場となる。16世紀以降はオスマン帝国の支配下にはいった。第一次世界大戦後の1920年,シリアの一部としてフランスの委任統治領となったが,第二次世界大戦中の41年にイギリス軍が進駐して独立を宣言し,44年共和国として独立。人種・宗教などは複雑で,大統領はキリスト教徒,首相はイスラーム教徒がなる習慣がある。中継貿易が発達し,文化水準は高い。1945年アラブ連盟に参加。1967年の第3次中東戦争でパレスチナ難民が多数流入し,70年にはパレスチナ解放機構(PLO)が拠点をここに移した。その結果,1975年からパレスチナ勢力を巻き込んで内戦が始まり,76年にシリアが介入し,82年にはイスラエルの侵攻もあり,中央政府の権威が低下して事実上の国家崩壊状態となり,ようやく90年に内戦は停止された。1992年の総選挙で親シリア派が過半数を握って新内閣が誕生した。しかし1993年,南部国境地帯のイスラーム原理主義組織ヒズボラの拠点にイスラエル軍の攻撃が行われた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「レバノン」の解説

レバノン
Lubnān

地中海東部に位置する共和国。首都はベイルート。住民の多くはアラブ人だが,宗教的にはイスラーム(スンナ派シーア派ドルーズ派),キリスト教(マロン派,アルメニア正教会,カトリック,シリア正教会)など複雑な人口構成となっている。古代から多くの民族が興亡,フェニキア,オスマン帝国,フランス委任統治などをへて,1943年独立。自由な風土で中東の経済・文化の中心地となり,特にアラビア語の近代化では重要な役割を果たした。75年から宗派間の内戦が始まり,国土が荒廃したが,90年以降復興が進む。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル大辞泉プラス 「レバノン」の解説

レバノン

2009年製作のイスラエル・フランス・イギリス合作映画。原題《Lebanon》。監督:サミュエル・マオス。第66回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞。

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