改訂新版 世界大百科事典 「アラウィー朝」の意味・わかりやすい解説
アラウィー朝 (アラウィーちょう)
`Alawī
モロッコの現王朝。1631年以降。フィラーリーFilālī(ターフィーラールトTāfīlālt出身者の意)朝,フィラール朝とも呼ぶ。王家の先祖は13世紀末,アラビア半島からモロッコ南部のターフィーラールト地方に来住したアラブ系の一族で,預言者ムハンマドの孫ハサンの血を引くシャリーフ(〈高貴な血筋の人〉の意)を主張する。聖者崇拝思想の発展とポルトガルやスペインに対する排外的なジハード(聖戦)意識の高揚を土台に,ムハンマド・アッシャリーフをスルタンとしてターフィーラールトに建国(1631),40年には,アラウィー家のムハンマド・ブン・ムハンマドは,周辺地域を含む王とみとめられた。66年ムーレイ・アッラシードMawlāy al-Rasīdがフェスを征服,そこを都としてモロッコを統一した。ムーレイ・イスマーイールMawlāy Ismā`īl(在位1672-1727)は黒人奴隷軍団al-Bukhārīを編成して強大な兵力を誇る一方,首都をメクネスに移して国家組織を整備し最盛期を築いた。彼の死後,再び国内は混乱し,分裂状態になった。フランスのアルジェリア占領(1830)に対して,アブド・アッラフマーン`Abd al-Raḥmān(在位1822-59)はアルジェリアを支援してフランスと戦ったが敗れ,次のスルタン,シディ・ムハンマドの治世(1859-73)にはモロッコ北部をスペインに占領された。このころから,西欧列強の進出と利権をめぐる争いが強まり,ついに1912年のフェス条約でフランスの保護領となった。王朝は保護領下でも存続したが,実権はなく,56年の独立とともにムハンマドMuḥammad5世(在位1955-61)により再建された。現王はハサン2世(在位1961- )。
執筆者:私市 正年
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報