クライスキー(読み)くらいすきー(英語表記)Bruno Kreisky

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クライスキー」の意味・わかりやすい解説

クライスキー
くらいすきー
Bruno Kreisky
(1911―1990)

オーストリア政治家ウィーンのユダヤ人家系に生まれる。ウィーン大学卒業後、社会民主労働党(通称、社会民主党)を中心に政治活動を行い、1938年ドイツによるオーストリア合併後、ナチスに逮捕された。その後スウェーデンへの亡命に成功し、第二次世界大戦中は同地で社会福祉政策、中立外交を学んだ。戦後は同国駐在オーストリア外交団員として北欧諸国との関係修復に尽力した。

 1951年帰国し、1953年から外務次官、1956年社会党(社会民主労働党の後身)の下院議員、1959年外相となる。1966年より党活動に専念、1967年党首となった。1970年総選挙で戦後初の社会党内閣を組閣し、1983年総選挙不振の責任をとって首相を辞任するまで、長期安定政権を維持した。その間ウィーンをスイスジュネーブに次ぐ第三の国連都市として充実させるなど積極的な中立外交を展開して注目された。

[藤村瞬一]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クライスキー」の意味・わかりやすい解説

クライスキー
Kreisky, Bruno

[生]1911.1.22. ウィーン
[没]1990.7.29. ウィーン
オーストリアの政治家。ウィーン大学卒業。第2次世界大戦前オーストリア社会民主党で活躍。 1938年ゲシュタポに逮捕されたが,のちスウェーデンに亡命。 46年帰国し外交官となり,53~59年外務次官。 56年国会議員に当選。 59~66年外相。 67年社会党党首。 70年首相に就任,東欧諸国を含めた近隣友好外交を展開。 75年 10月総選挙で社会党が圧勝,再度首相に選ばれた。 79年5月の総選挙でも3選。 83年辞任。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「クライスキー」の解説

クライスキー
Bruno Kreisky

1911~90

第二次世界大戦後オーストリアの中立政策を代表した政治家。オーストリア社会民主党の改革派リーダーとして1967年に党首に選出され,70年から83年に至る長期政権を維持した。オイルショックによる影響から国内経済を守りつつ,リベラルな改革政策を展開した。対外的にも,ウィーンを国連都市として定着させるなど,平和外交を展開して国際政治におけるオーストリアの地位を高めるのに貢献した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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