日本大百科全書(ニッポニカ) 「コニッツ」の意味・わかりやすい解説
コニッツ
こにっつ
Lee Konitz
(1927―2020)
アメリカのジャズ・サックス奏者。シカゴに生まれ、11歳でクラリネットを習得。1942年プロ・ミュージシャンになるにあたり、テナー・サックスに転向。1943年同郷のピアノ奏者レニー・トリスターノに出会う。このころクラリネット奏者のジェリー・ウォルドJerry Wald(1918―1973)のバンドに加わるが、トリスターノの勧めにより楽器をアルト・サックスにもち替える。その後シカゴのルーズベルト大学で本格的に音楽を学び、1947年、ピアノ奏者クロード・ソーンヒルClaud Thornhil(1909―1965)の楽団に参加する。
1948年には念願のニューヨーク進出を果たし、同じ楽団に在籍していたバリトン・サックス奏者ジェリー・マリガンの誘いを受け、彼とともに、新たに結成されたトランペット奏者マイルス・デービスの「九重奏団」に参加する。このバンドができるにあたっては、同じくソーンヒル楽団のアレンジを担当していたギル・エバンズの働きかけがあった。コニッツはこのバンドで1949年と1950年にアルバム『クールの誕生』の録音に参加する。また1948年にはニューヨークでトリスターノと再会し、師弟関係を結ぶ。トリスターノは、ビ・バップとは少し違う立場から即興音楽の可能性を探っていた。それはビ・バップの熱狂的演奏に対し、理性的で「クール」な感触をもった音楽だったので「クール・ジャズ」とよばれた。以降コニッツはトリスターノの強い音楽的影響を受けることになる。1949年にはトリスターノと共演した初リーダー作『サブコンシャス・リー』を吹き込み、またトリスターノのアルバムのサイドマンも務めるという形で、トリスターノの音楽理論を実践する。
1951年には北欧に赴(おもむ)き、現地のミュージシャンと共演する。1952年から1953年にかけてはピアノ奏者スタン・ケントンのオーケストラに加わると同時に、トリスターノとは距離をとりだし、音楽の個人教師としても活動する。1954年からは自分のバンドで録音を始め『イン・ハーヴァード・スクエア』や、1955年の『インサイド・ハイファイ』Inside Hi-Fiといった傑作を発表する。この間1955年にはドイツに公演旅行をし、またかつての恩師トリスターノとの再会セッションを行っている。
1961年には、タイプの異なった黒人ドラム奏者エルビン・ジョーンズElvin Jones(1927―2004)と共演し、傑作アルバム『モーション』を録音。1960年代半ばからはヨーロッパでの活動が多くなり、ヨーロッパのミュージシャンとの共演アルバムも増える。1970年代は「九重奏団」を組織しレコーディングも行う。
1980年代以降も精力的に演奏活動を行い、ヨーロッパ・レーベルから大量のアルバムを発表した。またニューヨークの若手ミュージシャンたちの精神的バックボーンとして、即興演奏を真摯に追求する新人たちの良き指導者となっていた。彼はチャーリー・パーカーの影響が圧倒的であった時代に、その影響をほとんど受けずにアルト・サックスを演奏し、しかも即興性を追求した稀有(けう)なミュージシャンである。そのスタイルは初期こそトリスターノの影響を強く受けた「クール」なものだったが、次第に温かみとオリジナリティを確立させていった。白人ジャズマンのなかでは傑出した存在であった。
[後藤雅洋]