アメリカの実験物理学者。ワシントンDC生まれ。1937年にメリーランド大学を卒業し、1940年に修士。エール大学で物理化学を学び、1942年に博士号を取得した。1942年から1946年まで空軍に所属し、2年間のモンサント化学社勤務を経て1948年にブルックヘブン国立研究所の化学部門スタッフとなる。1950年代初めからニュートリノの観測を開始し、太陽から飛来するニュートリノ観測の可能性を1955年の論文で指摘した。
1967年には、サウス・ダコタ州にあるホームステーク鉱山の地下に約600トンの四塩化エチレンを入れたタンクを設置し、太陽からのニュートリノをとらえる準備を整えた。装置は太陽からのニュートリノを初めてとらえ、1970年から1994年までほとんど継続して稼動。太陽が熱く輝く原因は核融合反応であることを実証した。また同時に、太陽についての理論から予想されるニュートリノの飛来数に比べ、観測されるニュートリノがかなり少ないという「太陽ニュートリノ問題」を提起した。その後の日本の研究者などによる観測で、それまで質量がないと思われていたニュートリノに実は質量があることが、その食い違いの原因であることがわかってきた。ブルックヘブン国立研究所を1984年に退職し、1985年からペンシルベニア大学教授。1971年から1973年まで、アメリカ航空宇宙局(NASA)の月サンプル検討委員会のメンバーとして、アポロ11号が月から持ち帰った砂や岩の分析にも携わった。別の手法で宇宙からのニュートリノをとらえた東京大学名誉教授の小柴昌俊(こしばまさとし)、宇宙におけるX線源を発見したR・ジャコーニとともに、新たな天体観測手法を開拓した業績で2002年のノーベル物理学賞を受賞した。
[馬場錬成]
アメリカの地理学者。フィラデルフィアに生まれる。ハーバード大学を卒業後、アルゼンチン、コルドバの気象観測所に勤務した。1876年に母校のハーバード大学に帰り、1890年から1912年まで同大学の地理学・地質学教授を務めた。その間ベルリン大学で交換教授として講義を行い、それが有名な『地形学の説明的記載』Die erklärende Beschreibung der Landformen(1913)の著書となった。1904年にアメリカ地理学者協会を創設し、3期にわたり会長を務め、1911年にはアメリカ地質学会会長となった。地形の発達過程を進化論的にみて、いわゆる地形輪廻(りんね)説を提唱し、世界の地形学に画期的な進歩をもたらした。しかしこの説に対して、ギルバートGrove Karl Gilbert(1843―1918)の実証的な地形学などが提唱されるなどして多くの議論をよぶに至ったが、地形発達の学説史に一つの金字塔を築いたことは確かである。多くの著書のうち『自然地理学』(1898)、『サンゴ礁問題』(1928)、『石灰洞の成因』(1930~1931)などが有名である。
[市川正巳]
イギリスの指揮者。ハートフォードシャーのアッシュリッジ生まれ。ロンドンの王立音楽大学でクラリネットを専攻、クラリネット奏者として活動しつつ指揮を学ぶ。1957~1959年BBCスコティッシュ交響楽団副指揮者、1959~1965年サドラーズ・ウェルズ・オペラの指揮者、ついで音楽監督を歴任。1964年(昭和39)ロンドン交響楽団に同道して初来日した。1967年メトロポリタン歌劇場にデビュー。BBC交響楽団首席指揮者を経て、1971~1986年コベント・ガーデン王立歌劇場音楽監督。1980年にはサーの称号を受け、1983~1992年バイエルン放送交響楽団音楽監督を務めた。オペラ、コンサートともに、誇張を排して堅実かつ克明に音楽をつくりあげてゆき、とくにモーツァルト、ベルリオーズ、ストラビンスキー、ブリテンを得意とした。1990年からドレスデン・シュターツカペレ(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)の名誉指揮者、1998年からニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の首席客演指揮者を務めた。
[岩井宏之]
アメリカの女性黒人政治運動家。1月26日、アラバマ州に生まれる。マルクーゼに哲学を学び、ドイツ留学を経て、カリフォルニア大学から哲学で修士号を得る。10代から南部で公民権運動に参加し、カリフォルニアで学生非暴力調整委員会や、自衛のため武力行使も辞さずとするラディカルなブラック・ナショナリズムを唱導したブラック・パンサー党とともに大学や地域で政治活動に加わり、1968年にはアメリカ共産党に入党した。これを主たる理由として、カリフォルニア大学での教職を罷免された。さらに70年には、誘拐、銃撃事件の共謀者との嫌疑で逮捕されたが、16か月の留置後、72年、裁判によって無罪釈放された。この政治的弾圧に対しては、抗議とアンジェラ支援の運動がアメリカのみならず、日本を含めて国際的に広がった。80年に共産党から副大統領候補として出馬。哲学だけでなく、政治運動、女性問題に関しても優れた評論、著作が多く、日本では『アンジェラ・デービス自伝』The Autobiography of Angela Davisほか数冊が翻訳されている。
[中村雅子]
『加地永都子訳『アンジェラ・デービス自伝』上下(1977・現代評論社)』▽『デービス編著、袖井林二郎監訳『もし奴らが朝にきたら――黒人政治犯・闘いの声』(1972・現代評論社)』
アメリカの画家。20世紀前半の抽象的風景画の開発者。フィラデルフィア出身。父親の同僚であったロバート・ヘンライについて学んだが、アーモリー・ショーの影響から抽象様式に転向。1920年ごろから静物や都市風景を幾何学的で平面的なパターンに還元する試みに手をつけ、27年の『卵あわだて器』によって手法を確立した。35年から40年にかけて連邦美術計画の仕事に参加し、インディアナ大学やニューヨークのラジオ・シティの壁画を制作したほか、アメリカ美術家会議の議長を務めている。40年以後、画面全体に広がる開放的で華麗な平面抽象の世界に入った。
[桑原住雄]
アメリカの女優。マサチューセッツ州ローエルに生まれる。学生演劇に興じるうち女優になることを夢み、ニューヨークへ出て演劇スクールに通い、巡業劇団から1929年ブロードウェーの舞台に立つ。1931年に映画界へデビュー、『青春の抗議』(1935)と『黒蘭(こくらん)の女』(1938)でアカデミー主演女優賞を受けた。美貌(びぼう)とは縁が遠いが、個性的なマスクと突き詰めた演技で1940年代の演技派女優として活躍、『イヴの総(すべ)て』(1950)でその頂点ともいうべき名演を示した。1960年代以降は、老女の醜悪さをみせた『何がジェーンに起ったか?』(1962)の成功で、恐怖映画のスターとして出演を続けた。1977年には、女性として初のアメリカ映画協会賞を受賞している。
[畑 暉男]
アメリカのジャズ・トランペット奏者、作曲家。イリノイ州生まれ。1944年にプロ入りし、ビリー・エクスタイン楽団を経て1945年からチャーリー・パーカーと行をともにして注目された。1949年にアルバム「クールの誕生」を録音してクール・ジャズの先駆者となり、1959年には「カインド・オブ・ブルー」を録音、モードによるアド・リブの可能性を広げ、1969年にはロックや電化音まで駆使して録音した「ビッチェズ・ブリュー」で次の時代のジャズを示唆する、というぐあいにジャズ界をリードした。1970年代後半は病気のため活動を休止したが、1981年に再起。自作名曲に『ソー・ホワット』『マイルストーンズ』などがある。
[青木 啓]
イギリスの詩人。ウェールズに生まれ、初等教育を終えたのち日雇いや行商などを続け、ニューヨークに渡る。アメリカ、カナダの各地を放浪中、事故で片脚を失い、ロンドンに戻り、窮乏に耐えながら文筆に専念。自然の風物と庶民の生活感情を率直に歌った処女詩集『魂の破壊者』(1905)で注目を浴びた。ついで自然、愛、社会などを主題とする鋭い感性に富む詩集を次々と発表するが、8年に及ぶ青春彷徨(ほうこう)を自伝風に描いた『ある放浪者の自叙伝』(1908)でいまもなお広く読者をもつ。ほかに『自然詩その他』(1908)、没後刊行された、妻への奇抜な求婚を描いた『若きエマ』(1980)などが知られる。
[上田和夫]
アメリカの南部連合の臨時大統領。陸軍士官学校卒業(1828)。結婚により裕福な綿花プランターになる。ミシシッピ州選出民主党下院議員(1845~46)を辞し、メキシコ戦争に行き負傷。上院議員(1847~51)になったが、知事選出馬のため辞任、落選。陸軍長官を務めたのち、ふたたび上院議員(1857~61)になった。連邦離脱後の南部諸州の政府、南部連合の臨時大統領に就任(1861)。南北戦争後、66年に反逆罪を宣告されたが、翌年保釈、裁判は中断されたままになった。
[竹中興慈]
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アメリカ合衆国の地理学者,地形学者。ペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれる。1869年にハーバード大学を卒業し,70年に工学修士となる。70-73年アルゼンチンのコルドバにある国立観測所の天文学助手,76年ハーバード大学に戻り,90年同大学自然地理学教授となり1912年までその任にあった。30年より他界するまでカリフォルニア工科大学の地質学教授を務めたほか,おもに合衆国西部の数大学で教えた。日本をはじめアジア,西ヨーロッパ,南アフリカ等世界各地を旅行し,晩年はとくにサンゴ礁の成因や石灰洞の起源について関心をもった。34年カリフォルニア州のパサデナで死去。その間,1904年にアメリカ地理学会を創設してその会長になったほか,アメリカ地理学者協会,アメリカ地質学会の会長も務めた。彼は進化論的立場から地形をとらえ,浸食輪廻説によって地形の変化を系統的に説明した。この学説は世界各地に広まり,多くのデービス学派の地形学者が輩出した。この考えは,彼がペンクとの交換教授としてベルリン大学で行った講義内容をまとめた《地形の説明的記載Die erklärende Beschreibung der Landformen》(1912)にまとめられている。また,《Elementary Meteorology》(1894)を著したほか,地理学,地理教育に関する著書・論文も多い。
執筆者:町田 貞
黒人ジャズ・トランペット奏者,モダン・ジャズ史上最大の音楽家の一人。イースト・セント・ルイスに生まれ,1945年チャーリー・パーカー五重奏団でデビュー。編曲を重視した九重奏団をつくり,まだフォームがなかったモダン・ジャズに初めてフォームを付与し,50年代への道をひらいた。59年には複雑化したコード進行とアドリブのマンネリ化を一新するため,モード手法(旋法)をとりいれ,当時勃興しつつあったフリー・ジャズへのアンチ・テーゼとした。69年には《ビッチェズ・ブリュー》を発表,大胆な電気楽器のとりいれとメンバーの3/4をリズム・セクションとした編成で世間を驚かせたが,次の10年間のクロスオーバー,フュージョンの流行はこの作品に発したものといわれている。70年代後半健康を害し休養していたが,81年センセーショナルなカムバックをした。また無名の新人をスカウトして大物に育てあげた点でも業績を残している。
→ジャズ
執筆者:油井 正一
アメリカ南部連合の大統領。在職1861-65年。ケンタッキー州に生まれる。ウェスト・ポイント陸軍士官学校を卒業,7年の軍隊生活後,ミシシッピ州で大農園を経営。連邦下院議員,連邦上院議員を経て,1861年初め南部連合初代大統領に選出されたが,南北戦争中は過激な州権論者に悩まされた。敗戦後の65年5月北軍に逮捕され翌々年まで獄中生活。その後友人の農園で余生を送った。著書《南部連合政府の興亡》(1881)がある。
執筆者:井出 義光
イギリスの指揮者。ローヤル音楽カレッジに学び,1949年より指揮活動を始める。61-64年サドラーズ・ウェルズ・オペラの音楽監督。67-71年BBC交響楽団の首席指揮者,71年コベント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督。77年バイロイト音楽祭に登場し,《タンホイザー》を指揮,イギリスの指揮者が同音楽祭で指揮をした最初のものとなった。モーツァルトのオペラでは新解釈を打ち出したほか,ベルリオーズやストラビンスキーなどを得意とし表現豊かな指揮を特徴とする。
執筆者:西原 稔
アメリカの宣教師。ニューヨーク州出身。ウィスコンシン州の大学在学中,南北戦争に従軍。1869年シカゴ神学校を卒業し,71年アメリカン・ボード宣教師として来日,神戸,三田両教会の設立に尽力し,75年より新島襄の同志社創立に協力。彼の教育方針のよき理解者となった。組合教会の伝道と同志社のキリスト教教育に尽くし,1910年帰国した。
執筆者:土肥 昭夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
…1861‐65年の間に,アメリカ合衆国の南北両地域の間で行われた戦争。奴隷問題を焦点とする南北対立の中で,南部11州が連邦を脱退してアメリカ南部連合を結成し,連邦側はそれを阻止し,連邦を守ろうとして南北戦争が起こった。南北戦争は今日ふつう〈内乱Civil War〉と呼ばれているが,戦争中,連邦側は〈反逆戦争War of the Rebellion〉と呼び,南部連合側は〈独立戦争War of Independence〉と呼んだ。…
…74年アメリカン・ボード年会で,日本にキリスト教主義大学を設立することを訴えて大きな反響を得,宣教師として帰国。75年京都府顧問山本覚馬,ボード宣教師J.D.デービスの協力で官許同志社英学校を京都に設立。翌年熊本バンドの入学で,同志社教育と日本組合教会の基礎は確立した。…
…またアメリカでもモダン・ジャズをドラマチックなスタイルの中に吸収した《黄金の腕》のE.バーンスタインや,《或る殺人》のデューク・エリントンの〈シンフォニック・ジャズ〉が出現し,さらに50年代末から60年代にかけて,フランス映画の中にもいち早くモダン・ジャズを映画音楽として取り入れ,若々しい現代的ないぶきの表現に成功する。マイルス・デービスの即興演奏による《死刑台のエレベーター》,MJQによる《大運河》,アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズによる《殺られる》等々がそれである。 ヨーロッパ映画の作曲家としては,フェリーニ監督作品(《道》《甘い生活》等々)を中心としたイタリアのN.ロータ(1911‐79),J.ドゥミー監督作品(とくにせりふがすべて歌われた《シェルブールの雨傘》など)を中心にしたフランスのM.ルグラン(1932‐ ),マカロニウェスタン(S.レオーネ監督《荒野の用心棒》《夕陽のガンマン》等々)を中心にしたイタリアのE.モリコーネ,ミカエル・カコヤニス監督作品(《エレクトラ》《その男ゾルバ》)を中心にしたギリシアのミキス・テオドラキスらが輩出するが,やがてハリウッドに吸収されハリウッドの映画音楽を活性化することになる。…
…ジャズを志すプレーヤーは,ことごとくバップに向きを変え,古老たちの博物館的ニューオーリンズ・スタイルにはきっぱりと背を向けたのである。
[クールの誕生]
パーカー・コンボのトランペット奏者マイルス・デービスは1948年,バップの革新的要素を,編曲を重視した九重奏団で演奏し,腕くらべ的で統制を欠いたジャム・セッションをグループ表現に高めたのであった。〈モダン・ジャズmodern jazz〉という言葉で呼ばれるようになったのもこのころであった。…
…さまざまの傾向をふくむが,大きく分けるとキュビスムの影響をうけた半抽象的な系列と写実的な系列の二つがある。前者の舞台になったのは主としてニューヨークで,ブルックリン橋や高層建築をモティーフとして,近代文明を謳歌するステラJoseph Stella,シーラーCharles Sheeler,大都市のバイタリティを抽出したデービスがおり,後者には都会の底辺の日常の光景をとらえたマーシュReginald Marsh,孤独と疎外を描いたホッパー,ソーシャル・リアリズムsocial realismの立場を貫いたシャーンがいる。また,中西部の広大な農村風景を描きつづけたベントン,ウッドGrant Wood(1892‐1942),カリーJohn Steuart Curry(1897‐1946)などの提唱したリージョナリズムRegionalism(地方主義)も写実的な系列を代表する。…
…また氷期には海水温も5~10℃の範囲で低下し,泥質堆積物とあいまって礁の形成は阻止され,その後現在の間氷期に向かって海水準が上昇し,礁の形成が行われたという氷河制約説glacial control theoryを提唱した。これに対して地形輪廻説で有名なW.M.デービスはダーウィンの沈降説を全体として支持しながら,デーリーの気候変化に伴う海水温の低下や海水準低下を認めて縁辺帯説を1923,28年に提唱した。すなわち氷期には礁の形成は阻止されたものの,サンゴ海(暖海)ではサンゴ藻の生育は持続し,サンゴ礁の地形は海食から保護された。…
※「デービス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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