(1)広義には、ある思想・信条から他の思想・信条へと変化すること。(2)狭義には、自由主義的・民主主義的立場をとる個人あるいは集団が、反体制的立場を抑圧する立場とか、国家主義的・軍国主義的反動体制を支持する立場へと態度を変更すること。(3)最狭義には、昭和10年前後の戦前日本において、共産主義者たちが、権力側から加えられた強制・暴力によってその思想・信条を放棄した行為をさす。
(1)の広義の意味においては、その事例は歴史上枚挙にいとまがないほど日常的にみられる。この場合には、転向行為自体は、思想・信条の自由の観点からいって、別によいとか悪いとかいった価値評価はそこでは問題とされないのが普通である。したがって、転向が人間の「生き方」の問題あるいは倫理的価値評価を伴う思想史上の研究対象となるのは、(2)または(3)の場合であろう。
(2)の転向の代表的な事例としては、イギリスのE・バーク、日本の加藤弘之(ひろゆき)の場合が有名である。バークは、アメリカの独立問題に関しては、T・ペインと同じく、イギリス政府や議会の植民地抑圧政策に反対し、植民地議会を支持した。しかし、次のフランス革命に対しては、彼は『フランス革命に関する考察』(1790)を書いて、フランス革命とその精神原理となったルソーの社会契約説を徹底的に批判した。加藤弘之は、明治維新直後には『真政大意』(1870)を書いて、社会契約説(天賦人権論)をかざして福沢諭吉(ゆきち)らとともに徳川封建制を批判し、日本の近代化に大きな役割を果たした。しかし、明治10年代に入ってからは、『人権新説』(1882)を書いて、自由民権運動を批判している。この両者に共通していることは、いずれも、近代市民革命あるいは近代民主主義の思想原理ともいうべき社会契約理論を否定している点である。18世紀中葉期、イギリスにおいては産業革命の時代が到来し、中小生産者層や労働者階級の数が増大した。彼らは、選挙権の拡大を求め、人間は生まれながらにして自由で平等の権利をもつという自然権思想を掲げて闘った。こうした政治運動は、ルソーの自然権思想や社会契約説を基礎にしたフランス革命の勃発(ぼっぱつ)によってますます高揚する傾向にあった。上層市民層のイデオローグであったバークは、こうした傾向を恐れ、フランス革命の思想原理を批判することによって、イギリスにおける選挙権拡大闘争を抑制する側に回ったものと思われる。加藤の場合は、最初、西欧の社会契約論によって、徳川幕藩体制のイデオロギーであった儒教道徳を批判し、一躍、明治啓蒙(けいもう)期における進歩的知識人の地位を獲得した。しかし、彼自身、のちに明治政府の高級官吏の地位につくと、薩長(さっちょう)を中心とする藩閥政治打破を唱える自由民権運動のなかで、民権論者たちが天賦人権論を唱えて政治的権利を要求するや、「適者生存」「自然淘汰(とうた)」という社会進化論を援用して天賦人権論を批判する立場をとるようになった。このようにみるとき、バークや加藤の転向は、彼ら自身の政治的立場の変化によって、その思想内容を保守的・反動的な方向に変更していった典型的事例であるということができよう。
次に、(3)の強制・暴力による転向の場合であるが、これについても、歴史上、ヨーロッパにおけるキリスト教徒とくに非国教徒の転向(回心)や、日本のキリシタンの転向の事例などがみられる。しかし、日本において、転向ということばが特別な政治的意味や倫理的意味を帯びて人々の間で強く意識されるようになったのは、1933年(昭和8)6月9日に当時獄中にあった日本共産党(非合法)の指導者佐野学(まなぶ)、鍋山貞親(なべやまさだちか)(1901―79)が転向声明(天皇制と民族主義にたつ一国社会主義の建設を説きコミンテルンの方針を拒否)を出し、それに続いて500人以上に上る大量の集団転向が行われて以後のことである。それ以前にも、赤松克麿(かつまろ)が共産党解党論を唱えて脱党したり、山川均(ひとし)らが「無産階級運動の方向転換」を唱えて天皇制とまっこうから対決する闘争を回避した事例があり、こうした方向転換が転向とよばれてきたが、佐野・鍋山の転向声明によって、転向という語は、前衛政党たる共産党やプロレタリアートに対する階級的裏切り行為と明確に結び付けてとらえられるようになった。この場合は、権力の暴力に屈して転向したという経緯もあって、転向者の多くは、それ以後、深い挫折(ざせつ)感にとらわれ、政治運動の第一線から退いていったが、なかには政府や軍部に協力する者もいた。
第二次世界大戦後、日本民主化の運動が高揚し、社会党や共産党が合法化されると、社会主義運動のリーダーたちの資格をめぐって、非転向者対転向者というシェーマによってその優劣が問われるような事態がみられた。また思想的理由やその他の理由によって共産党を離れた者に対しても転向者というレッテルが貼(は)られた時期もあった。こうしたことは、戦前の厳しい「冬の時代」における日本型転向の特殊事情と深い関係があることはいうまでもない。
しかし、戦後、民主主義や市民的自由の思想が発展していくなかで、転向を人格的・倫理的次元において断罪するような転向観はしだいにその影を潜めつつある。
[田中 浩]
『思想の科学研究会編『共同研究 転向』全3巻(1959~62・平凡社)』▽『しまねきよし著『転向――明治維新と幕臣』(1969・三一書房)』
広くは,ある個人の信念・行動が圧迫強制によって方向転換することを指すが,一般には,共産主義思想を放棄すること。その個別的事例はしばしばみられるところであるが,歴史的事件としての転向は,1933年6月,当局に拘束されていた日本共産党幹部佐野学と鍋山貞親が,コミンテルンの方針を拒否し,民族主義と天皇制に立脚する〈一国社会主義〉の建設を説く〈獄中からの転向声明〉を発するに及んで,多くの共産党員が引き続き集団的に転向した事例を指す。この事件は当時の共産主義運動にきわめて大きな打撃を与え,社会的にも反響を呼んだ。転向の態様やその後の動向は個人によって異なるが,欧米の知識人の〈転向〉が共産主義そのものへの失望の結果としてなされたものであるのに対し,日本では当局の強制と懐柔を直接の契機とし,いわば〈良心に反して〉なされた事例が圧倒的に多かったため,転向者は,敗北感,挫折感,あるいは革命への裏切りの意識に苦しむことになった。転向文学をはじめとして当時転向について記された文献の多くは自己批判ないしその内面的処理の問題を扱っている。
戦後,転向についてさまざまな角度からの研究と活発な議論が展開されるようになった。転向の理論的説明には,転向という現象のどの部分に本質を見いだすかということが関係し,そのことは必然的に日本におけるマルクス主義受容をどのような観点から把握するかという問題に帰着する。マルクス主義を何よりも革命のための理論とみる立場からは,転向は政治的裏切りであり糾弾の対象となる。また,日本のマルクス主義受容が,現実を捨象し抽象性のなかに閉じこもる知識人特有の傾向に沿ってなされたとみる場合は,転向は一切の理論的なものの放棄であり,大衆の動向への屈服であるということになる。また,マルクス主義への帰依が共同体へのロマン的回帰の願望に発するものとみて,転向とは,その回帰の媒介がマルクス主義から伝統的なものに変化したことにほかならないとする見方もある。さらに,マルクス主義の実践を青年期に特有の正義感や急進的理想主義のあらわれとみて,転向とは〈大人になること〉,すなわち成熟もしくは通俗化の結果であるとする見解もある。
このように転向は,さまざまな次元の問題をはらんでおり,研究する側の関心に応じた形で転向像が形成されているのが実情であるが,こうしたなかで,鶴見俊輔をはじめとする思想の科学研究会の編著《転向》は,転向をその契機に着目して〈権力の強制によっておこる思想の変化〉と定義することで,その概念の一般化を図り,共産主義者にとどまらず,戦時体制に協力した自由主義者や社会主義者,終戦時の軍人,戦後の学生運動の人々にいたる広範な事例に転向の概念を適用して検討を試みた。この結果,昭和の知識人たちの思想の変化の諸相が明らかにされるとともに,転向は思想史研究上の方法的概念にまで高められた。しかし,扱われた人物の中には,その思想の変化が必ずしも〈権力による強制〉の結果とはみなし難い事例もあり,その場合,転向は,反体制側から体制側への,あるいは進歩的思想から保守的思想への,政治的立場や思想の内容の変化を指す言葉として用いられている。その後,こうした意味での転向の用例が一般化し,たとえば明治維新後新政府に仕えた旧幕臣,天賦人権論を放棄して進化論を唱えた加藤弘之,平民主義から帝国主義へと転換した徳富蘇峰等の場合も転向の事例として挙げられるようになった。
こうして,転向はきわめて一般的な言葉となったが,他面で,その内容がややあいまいになり,単なる思想の変化や発展との区別をどこに求めるかということが問題になっている。言論の自由や政治的自由が歴史的にみて非常に限られた時期と地域においてのみ存在してきたことを考えると,転向はきわめて普遍的な性格をもった現象であるといえよう。しかし他方で,転向が当局による〈温情主義的〉な懐柔の結果でもあったことに着目すると,思想弾圧の形態も含めて,日本特有の問題が浮かび上がってくる。転向が単なる歴史的事件としてのみならず,日本の思想状況全般にかかわる問題としてとりあげられ,かつその概念的一般化が試みられるのは,転向のもつそうした特質に由来するのである。ただ,転向という言葉を一般概念として,共産主義者以外の事例に用いる際には,この言葉の本来の語義が非難の意味をもつこと(キリスト教への改宗を意味するconversionが転向の正確な英訳といえないのはそのため)を考慮して,何らかの意味でマイナスに評価される思想の変化に対してのみに,その使用を限定すべきであろう。そして,その評価が,変化の契機,思想の内容,政治的機能,あるいは当事者の倫理的側面のいずれについてなされるのかを明確にし,評価の基準についても,研究者自身の立場を自覚的に明らかにすべきであろう。そうすることで,転向の提示する諸問題の理解がより深いものとなり,その概念の一層の精緻化が可能になるものと思われる。
→転向文学
執筆者:坂本 多加雄
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一般的にはある思想信条から別の思想信条に転換することだが,歴史的には佐野学・鍋山貞親(さだちか)の転向声明後の権力の強制による社会主義思想の放棄,国家社会主義・日本主義などへの転換をいう。共産党の最高幹部であった両者が1933年(昭和8)6月8日,「共同被告同志に告ぐる書」を発表,コミンテルンの国際主義を排斥,天皇をいただいた一国社会主義をめざし,反戦闘争と植民地解放政策に反対した。声明は影響力甚大で,未決・既決の党員の3割以上が追随した。初めは実践運動からの後退だけで転向を認められたが,後にはマルクス主義の放棄も要求され,当局の転向政策が完成,非転向者は数えるほどになった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…50年4月発行の最終号において〈思想の科学研究会〉の設立が宣言され,前記の人々が理事に,川島武宜が会長に就任し,学際的研究会が組織され,後に竹内好,久野収らも加わった。共同研究が積極的に行われ,昭和20年代に《アメリカ思想史》,30年代には《転向》があり,多くの研究者,評論家を育成,《思想の科学》はその機関誌として講談社(1954‐55),中央公論社(1959‐61)と発行所を変えて刊行された。61年2月中央公論社に風流夢譚事件が起こり,これに関連して《思想の科学》は62年1月号に〈天皇制〉を特集,中央公論社は周囲の事情を考慮して発売を中止し,破棄断裁を行った。…
※「転向」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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