日本大百科全書(ニッポニカ) 「バングラデシュ独立問題」の意味・わかりやすい解説
バングラデシュ独立問題
ばんぐらでしゅどくりつもんだい
旧東パキスタンが「バングラデシュ」として独立するまでの問題。バングラデシュとは、「ベンガルの国」を意味する。1947年8月、英領インドからインド(ヒンドゥー教徒多住地域)とパキスタン(イスラム教徒多住地域)という二つの国家が分離独立した。パキスタンは、インドを挟む形で1000キロメートル離れた東西パキスタンをもって構成された。パキスタンでは、建国直後から西パキスタンによる東パキスタンの支配という状況が続いた。独立の翌年、パキスタン政府が西パキスタンのウルドゥー語をパキスタンの国語とすると言明すると、ベンガル語を母語とする東パキスタンは激しい反対運動を展開し、1956年の改憲でベンガル語も国語として認知された。1960年代に入って西パキスタンの経済発展が続くと、東西の経済的格差が拡大し、東パキスタンは西パキスタンの植民地的存在とすらいわれるようになった。
東パキスタンではパキスタンの民主化と州自治を求める運動が徐々に高まり、1970年12月の総選挙で1949年の結党以来自治要求を掲げてきた政党アワミ連盟がムジブル・ラーマンの指揮下で勝利を収めた。しかし、1971年3月、ヤヒヤー政権がアワミ連盟中央政府の成立を拒否して、武力弾圧を進め、約100万人ともいわれるベンガル人を殺害した。これに対してアワミ連盟を中心とする東パキスタン側はゲリラ戦を展開した。その結果、東パキスタンは内戦状態になり、多数の難民がインドに流入した。インドは、12月3日、難民流入を理由に介入し、第三次印パ戦争が勃発(ぼっぱつ)した。この戦争では、14日間でインドが圧勝し、16日、バングラデシュ人民共和国が宣言された。1972年1月にラーマンが初代首相に就任し、パキスタンは、1974年2月にバングラデシュを承認した。第三次印パ戦争には、インド支持のソ連、パキスタン支持のアメリカ・中国という冷戦構造も反映された。
バングラデシュの誕生は、東西パキスタンを結び付ける紐帯(ちゅうたい)的な機能を果たしたイスラム教よりもベンガル民族主義がこれを上回ったことを意味した。国内に多民族を抱えるパキスタンは、国家再分裂を避けるため、国家統合理念としてのイスラム教を強調し、同国以西に位置するイスラム諸国家との親交に努めるようになった。また、強大な隣国インドに対抗するため、核開発を加速させた。インドは、第三次印パ戦争の結果、東西パキスタンからの挟撃という安全保障の脅威が除去され、南アジアの超大国としての歩みを始めるようになる。
[堀本武功]
『加賀谷寛・浜口恒夫著『南アジア現代史Ⅱ パキスタン・バングラデシュ』(1977・山川出版社)』