日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラーマン」の意味・わかりやすい解説
ラーマン(Sheikh Mujibur Rahman)
らーまん
Sheikh Mujibur Rahman
(1920―1975)
バングラデシュ建国の父。ベンガルのファリドプル県に生まれる。1947年カルカッタ(現、コルカタ)のイスラーミーヤ大学卒業、1948年ダッカ大学退学処分。学生時代からムスリム連盟党員として政治活動を行い、1947年パキスタン独立後は1949年アワミ連盟の創立に参画、1953~1966年書記長。1954年東ベンガル州統一戦線政府商工相、1955~1958年制憲・国民議会議員。1966年アワミ連盟委員長に就任後、「6項目要求」を綱領に掲げて東パキスタン州完全自治の運動を展開し、1970年総選挙で過半数を制した。1971年3月バングラデシュ独立戦争開始時に逮捕されたが、4月アワミ連盟の人民共和国独立宣言で大統領に指名された。1972年1月釈放、帰還後は1月の暫定憲法、11月の恒久憲法で首相、1975年1月の憲法改正で大統領となり、民族主義、社会主義、民主主義、政教分離主義を国家原則として国家建設を図ったが、同年8月15日軍部クーデターで殺害された。
[浜口恒夫]
『Sheikh Mujibur Rahman:Bangladesh, My Bangladesh, ed. by R. Majumdar (1972, Orient Longman, New Delhi)』
ラーマン(Tungku Abdul Rahman)
らーまん
Tungku Abdul Rahman
(1903―1990)
マレーシアの政治家。マラヤのサルタン家に生まれる。1920~1931年イギリス留学。第二次世界大戦後の1947年ふたたびイギリスに留学、翌1948年ケンブリッジ大学で法学士号を取得。1949年帰国。1951年統一マラヤ国民組織(UMNO)の総裁に就任した。1955年の立法議院選挙でUMNO、馬華公会(MCA)、マラヤ・インド人会議(MIC)からなる連盟党を率いて52議席中51議席を獲得。1957年マラヤ連邦独立とともに首相兼外相に就任した。1963年マラヤ連邦、シンガポール、サラワク、北ボルネオ(現、サバ)を合併したマレーシア連邦実現に成功、初代首相となる。1969年の人種暴動後の与党内紛により1970年辞職したが、その後も政界長老として言論活動を展開していた。
[黒柳米司]
ラーマン(Zia-ur-Rahman)
らーまん
Zia-ur-Rahman
(1936―1981)
バングラデシュの軍人、政治家。ボーグラー県に生まれる。17歳でパキスタン陸軍に入隊、1965年陸軍少佐。1971年3月26日チッタゴン放送局から歴史的なバングラデシュ独立宣言を行い、独立戦争でゲリラを指揮。1975年8月反ムジブル・ラーマン派軍部クーデター後、陸軍参謀長、11月連続軍部クーデターで実質上全権を掌握、1977年4月大統領に就任した。1978年6月大統領選挙で信任され民政移管に着手、9月バングラデシュ民族主義党を創立、「自力更生」で政治・経済の安定化に努めたが、1981年5月30日軍部内反対派によって殺害された。
[浜口恒夫]