日本大百科全書(ニッポニカ)「難民」の解説
難民
なんみん
refugee
人種、宗教、政治的意見の相違などによる迫害を避けるために外国に逃れた者を難民とよぶ。最近では政治的理由によるものがほとんどで、人種的、思想的理由によるものも政治的理由と結び付くことが多い。これらを政治難民、狭義の難民とよび、後述する難民条約による保護を受けるので、条約難民ともよぶ。個々の立場に着目して亡命者とよぶこともあるが、ある程度の数がまとまった場合に難民の語が用いられ、戦争や動乱に伴って多数の難民が生ずる。広義では、自然災害や飢饉(ききん)のため居住地外に逃れる者(経済難民、流民)、自国内にいる場合(国内避難民)も難民とよばれ、人道的保護を受ける場合もある。
[宮崎繁樹]
難民の事例
古くは、イギリスのスチュアート王朝の迫害を受けて新大陸に移住した清教徒や、フランス革命の際多くの王侯貴族が外国に逃れた例がある。フランス語のエミグレ(亡命者)は、狭義では後者をさす。第一次世界大戦末期1917年のロシア革命によっても大量のロシア難民が生じ、その救済のために、戦後、国際連盟は1921年ノルウェーの北極探検家ナンセンを難民救済の弁務官に任命し、のちにアルメニア難民救済の任務も課し、約150万人のロシア難民が約20か国で生活可能となった。難民に対しては旅券にかわる身分証明書(ナンセン旅券)が付与された。1933年以後ナチスの迫害により多くの難民が生じ、1938年にドイツ難民高等弁務官が置かれ、1939年前者と統合し国際連盟統一難民高等弁務官が置かれ、これらによって推計約225万人の難民が保護された。第二次世界大戦中も多くの難民が生じ、戦後その救済は、政府間難民委員会や連合国救済復興機関によって行われ、1946年国際連合の専門機関として国際難民機関(IRO)の設置が決められ、1948年8月20日発足した。しかし1952年同機関は廃止され、事業は国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に引き継がれた。1991~2000年、緒方貞子(おがたさだこ)が高等弁務官を務めた。
[宮崎繁樹]
難民条約・議定書
第二次世界大戦後も、1948年のイスラエル独立から始まったパレスチナ戦争により多くの難民が生じ、中東不安の原因となった。その救済のため、1954年国連パレスチナ難民救済機関が設置された。1948年の「世界人権宣言」は、迫害からの庇護(ひご)を他国に求め享有する権利(第14条)を定め、1967年の「庇護権に関する宣言」はこれを再確認した。この間1951年7月28日「難民の地位に関する条約」が採択され、1954年発効したが、1967年にはその保護対象を拡大した「難民の地位に関する議定書」が採択され、同年発効した。同条約は、迫害のおそれのある国への難民の送還の禁止(ノン・ルフールマンの原則)、難民として入国したことによる処罰の禁止、任意帰国・再移住・定住に対する便宜供与、滞在にあたっての人道的処遇などを定めている。
日本で難民問題にとくに関心がもたれるようになったのは、1975年サイゴン陥落以来ベトナム、ラオス、カンボジアからボートピープルなどとして流出したインドシナ難民を契機とする。政府はその定住受入れ枠を最大1万人まで拡大するとともに1981年「難民の地位に関する条約・議定書」に加入、翌年1月1日日本についても発効させ、従来の「出入国管理令」を改定して「出入国管理及び難民認定法」とし、同日から施行した。しかし、インドシナ難民の減少に伴い、1994年3月には特別待遇をやめ一般の難民と同様に扱うことにした。
[宮崎繁樹]
UNHCRの活動
世界的にみると各地での武力紛争、政情不安、地震、飢饉(ききん)などによって、ボスニア、イラク、リベリア、ルワンダ、コンゴ民主共和国(旧ザイール)、ソマリアなどで大規模な難民の移動や人道上の危機が生じ、UNHCRは狭義の難民のみならず国内避難民にも保護の対象を広げた。その数は、1991年に1700万人、1993年に2300万人、1995年に2700万人以上と大幅に増加し、その後は1997年に2273万人、1999年に2115万人となっている(各年1月現在)。また、UNHCRは1999年3~6月のコソボ紛争で生じた難民約80万人、および国内避難民の帰還においても保護・援助を行った。従来難民対策としては、本国帰還、庇護国定住、第三国定住など難民の落着き先を探す「事後対応」「庇護国中心」「難民重視」策であったが、難民発生の兆候を未然に察知し、予防する方策に重点を置く新たな取組みを指向し、そのために、難民を生み出す、もしくはその可能性のある国においてもUNHCRは活動を展開することになった。
[宮崎繁樹]
『国際連合難民高等弁務官事務所編『世界難民白書1995――解決をもとめて』(1996・読売新聞社)』