バーラクザイ朝(読み)バーラクザイちょう(その他表記)Bārakzai

改訂新版 世界大百科事典 「バーラクザイ朝」の意味・わかりやすい解説

バーラクザイ朝 (バーラクザイちょう)
Bārakzai

アフガニスタンのパシュトゥーン族のドゥッラーニー系に属する王家。1826-1973年。アフガニスタンの建国者アフマド・シャー・ドゥッラーニーの出たサドーザイとは別の家系であり,ここからドースト・ムハンマドDōst Muḥammad(在位1826-39,43-63)が出て,サドーザイと抗争ののち,1826年,アフガニスタンの支配権を掌握した。彼の後,ムハンマド・アフザル,アブドゥル・ラフマーンハビーブッラーアマーヌッラーAmānullāh(在位1919-29)と王位が父子相伝され,アフガニスタンの国家形成に貢献した。この家系はドーストの名を取ってムハンマドザイMuḥammadzaiと呼ばれる。アマーヌッラーの後は,ドーストの兄スルターン・ムハンマドの子孫(ムサーヒバーン,またはヤヒヤー・ヘールと呼ばれる)のナーディル・シャーが即位,ついでその子ザーヒル・シャーが王位にあったが,1973年の共和国成立の際に退位した。これにより約150年続いたバーラクザイによるアフガニスタン統治が終わった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーラクザイ朝」の意味・わかりやすい解説

バーラクザイ朝
ばーらくざいちょう
Bārakzay

アフガニスタンの王朝(1819~1973)。ムハンマドザイ朝ともよばれる。ドゥッラーニー朝の1分派としてカンダハールを拠点に勢力を拡大、1819年にはドースト・ムハンマドがカブールを掌握、26年にはアミールとなった。以後1901年にハビーブッラーがシャーを名のるまで、歴代の君主はアミールとよばれていた。1873年から1904年にかけて、対ロシア、対インド、対イランの国境が画定された。版図は前王朝より狭かったが、山がちな地形のため、ロシアの圧力や、イギリスとのアフガン戦争にもかかわらず、同朝の存続が可能であった。西欧化による改革を志向したアマーヌッラーの亡命(1919)後は、ムサーヒバーン家のナーディル・シャー、その子のザーヒル・シャーが政権を握った。1973年には、ザーヒル・シャーのいとこのムハンマド・ダーウードによるクーデターによって、アフガニスタン共和国が成立した。

[清水宏祐]

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旺文社世界史事典 三訂版 「バーラクザイ朝」の解説

バーラクザイ朝
バーラクザイちょう

アフガニスタン共和国

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世界大百科事典(旧版)内のバーラクザイ朝の言及

【パラグアイ】より

…62年のロペス大統領の死まで続いた同政権は,副大統領の座にあったその子F.ソラノ・ロペスを大統領とする政権に引き継がれた。ソラノ・ロペス政権は前政権の政策を継承しながら国力の高揚に努めたが,64年隣接国との国境問題を契機としてブラジル,アルゼンチン,ウルグアイを敵国とする三国同盟戦争(パラグアイ戦争)に突入,70年3月ロペス大統領の戦死に至るまで死闘が繰り返された。この戦争によりパラグアイは広大な領土と半数近い国民を喪失,国力は著しく弱まった。…

※「バーラクザイ朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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