カブール(読み)かぶーる(英語表記)Camillo Benso conte di Cavour

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カブール」の意味・わかりやすい解説

カブール(アフガニスタン)
かぶーる
Kābul

アフガニスタンの首都。正しくは「カーブル」と発音する。同国東部の東経69度12分、北緯34度33分、標高1766メートルにある。人口約208万(2001推計)。住民はおもにアフガン人(パシュトゥン人)とタジク人で、ハザーラ人も流入しつつある。また全国各地からの出稼ぎも少なくない。市街地の真ん中をカブール川が東流し、南側が旧市街で、新市街は北と西に広がっている。政府関係諸機関、各種銀行、放送局、カブール大学以下各級学校、アフガニスタン国立美術館などがある。西方のヒンドゥー・クシ山麓(さんろく)のパグマーンは避暑地である。外国との陸上交通としては、東へはジャララバードを経てパキスタンのペシャワルに、北へはサーラング・トンネルを経てウズベキスタンタジキスタントルクメニスタンなどに通ずる。北郊外に国際空港がある。工業では人絹、毛織物、干しぶどう製造、陶器などの工場のほか、機械修理、木工、石工を中心とするジャンガラクの総合工場が重要である。電力はおもにサロービーの水力発電所から、水道は市南部の深井戸から供給される。

[勝藤 猛]

歴史

カブール川上流域の地方が本来カーブルとよばれ、すでにバクトリア時代にはその一部を形成していた。7世紀末よりアラブの遠征軍が進攻しようとしたが、カーブル・シャーなる一族の抵抗のため、イスラム化は遅れた。9世紀の初めにこの支配者がイスラムに改宗し、10世紀、ガズナ朝の統治下にさらにイスラム化が加速された。これと前後して、カーブルの名は集落の名として使われるようになる。交易の要地を占め、インド方面の物産の集積地の役割を果たしていたが、その規模は小さく、都市としての発展が始まるのは、政治の中心地ガズナがティームール(在位1369~1405)の遠征によって破壊されてからである。16世紀には、バーブルの支配下に軍事、経済の中心として繁栄し、ムガル朝の貨幣の鋳造所も置かれた。18世紀後半にドゥラッーニー朝の首都となった。第一次、第二次アフガン戦争(1838~42、78~80)では戦場となった。現在までアフガニスタンの首都の地位を保っているが、1979年のソ連による軍事介入(ソ連軍は89年に撤退した)、およびその後の諸勢力の抗争による荒廃が著しく、96年にはイスラム原理主義勢力であるタリバンの支配下に置かれた。その後、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件を機に、同年10月よりアメリカ、イギリスなどによるアフガニスタン国内の過激派国際テロ組織アルカイダやタリバンに対する武力行使が行われ、カブールも空爆されるなど大きな打撃を受けた。同年11月には反タリバン勢力である北部同盟が進出、カブールを制圧。同年12月国連などの仲介により暫定行政機構が発足、戦禍は止むが治安が悪化した。02年1月には、安保理決議により治安維持を目的に設立された国際治安支援部隊(ISAF)が、カブールとその周辺地域に展開。同年6月暫定政権への移行が成立したが、治安の安定と復興が必要とされる。

[清水宏祐]


カブール(Camillo Benso conte di Cavour)
かぶーる
Camillo Benso conte di Cavour
(1810―1861)

イタリア近代の代表的政治家。トリノの侯爵ミケーレの次男に生まれ、軍人教育を受ける。自由主義思想の持ち主として左遷されたことで工兵将校を辞し、スイス、フランス、イギリスを旅行し、自由主義体制がイタリアに経済的革新と政治的復興とをもたらすものであると確信する。近代的な農業経営や銀行設立に従事し、1847年には政治日刊紙『リソルジメントIl Risorgimentoを発刊、政治活動を開始する。1848年にサルデーニャ王国の下院議員となり、1850年に農相兼商相、1851年に蔵相となる。その間、議会の中道左派のラッタッツィUrbano Rattazzi(1808―1873)と「コンヌービオ」(結婚)とよばれる議会内の提携を行い、極右と極左に対抗する多数派を形成した。1852年に首相となってからは、内政では教会権力に制限を加える自由主義的政策、またイギリスをモデルとする農・工業の振興政策、通商条約の締結に基づく自由貿易政策を展開した。外交では、サルデーニャ王国の国際的地位を高め、フランスのナポレオン3世の支持を得るために、1855年、議会の反対を押し切ってクリミア戦争(1853~1856)に派兵し、パリ講和会議でイタリアの政治状況を訴える機会を得た。1858年、南フランスのプロンビエールで、ナポレオン3世と対オーストリア秘密軍事同盟を結び(プロンビエールの密約)、翌1859年対オーストリア戦を開始し、フランス軍の支持でロンバルディアを解放した。だが、彼の意志に反して、ナポレオン3世がオーストリアと妥協した(ビラフランカの講和)ことに抗議して辞任する。その後、再度組閣し、ニースとサボイアのフランスへの割譲と引き換えに中部イタリアを併合した。続いてガリバルディの解放した両シチリア王国を併合し、1861年3月に成立したイタリア王国の初代首相となるが、その直後、6月6日に急死する。カブールは、民主共和制による統一を主張するマッツィーニに対抗して、サルデーニャ王国を中心とした君主制によるイタリア統一を、国際関係を利用することによって実現した。このことから彼は、ビスマルクとしばしば対比される19世紀ヨーロッパの傑出した政治家である。

[藤澤房俊]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カブール」の意味・わかりやすい解説

カブール
Cavour, Camillo Benso

[生]1810.8.10. トリノ
[没]1861.6.6. トリノ
イタリアの政治家。イタリア王国の第1代首相。ピエモンテの名門貴族出身。トリノ士官学校を卒業したが,自由主義思想をいだいて 1831年軍役を退く。フランスとイギリスへの旅に出て自由主義経済と議会主義に深い確信をもって帰国し,広大な領地に資本主義的大農場経営を導入して農業改革に努め,工業化の課題に取組むため銀行設立,鉄道敷設の事業を熱心に進めた。 47年"Il Risorgimento"紙を創刊して政治的ならびに経済的な自由主義の主張を掲げ,48年新たに開設されたサルジニア王国議会の議員となり政治活動に足を踏入れた。中道右派の立場に立って M.アゼリオ内閣で 50年農商工相,51年財務相をつとめ,中道左派の指導者 U.ラタッツィと連合を結び,52年みずから首相の地位を得た。以後 59年7月まで産業振興策を積極的に推進し,自由貿易主義の見地に立つ低関税政策と英仏両国との通商拡大,金融・信用制度の充実などを果した。その自由主義的政策はイタリア各国の亡命者をひきつけて,ピエモンテをリソルジメント運動の中心地とする効果をもたらした。外交政策では,1858年ナポレオン3世とプロンビエルの密約を結んでオーストリアに対する独立戦争の準備を進めた。 59年戦端が開かれて勝利の見通しが強まったとき,突如としてビラフランカの和議がなされたため,これに抗議して同年7月首相を辞任した。しかし 60年1月に復帰して,3月中部イタリアの併合に成功,続いてシチリアとナポリに遠征した G.ガリバルディと対抗しつつ 10月に南イタリアを併合,イタリアの統一と独立に貢献した。 61年3月イタリア王国の成立が宣言されて初代首相に任じられたが,山積する課題を残して6月に急死した。

カブール
Kabul

アフガニスタンの首都で,同名州の州都。険しい山地の谷間を流れるカブール川に臨み,標高 1800mに位置する。国内大都市と幹線道路で結ばれるほか,北はトルクメニスタンなど,東はパキスタンと道路が通じている。 3000年以上の歴史をもつ古い都市で,インドの聖典『リグ・ベーダ』にも言及され,プトレマイオスの著書にも記述がある。しかし,その所在が広く知られるよりはるか以前から,北はヒンドゥークシ山脈を越えて,南はガズニーやガルデーズを経由して,東はカイバー峠を越えて,パキスタンやインドからこの地にいたる経路を支配する町であった。 13世紀にはチンギス・ハンの侵入によって大きな被害を受けたが,16世紀にはムガル帝国カブール県の県都となって,1738年にペルシアのナーディル・シャーが占領するまで続いた。アフガニスタンの首都となったのは 1773年。第1次アフガン戦争中はイギリス駐留軍大虐殺の場となった。 1979年のアフガニスタン紛争以後,旧ソ連軍が駐留し反政府ゲリラの攻撃の的となり,大きな損害を受けた。歴史的記念物が多く,また多くの美しい庭園があり,旧市街の西端に近いバーブル庭園にはムガル帝国創始者であるバーブル帝の墓があり,行楽地としてよく知られる。また,市の北 80kmにあるダーマン山脈の渓谷には前イスラム時代の文化の中心地で,アレクサンドリア・カピサなどの町跡があり,古代史上重要なところである。カブール美術館はシルクロード遺物,ガンダーラ美術の収集で知られる。食品加工,皮革,織物,家具製造のほか,大理石製品などの工業がある。市の北部にはカブール国際空港がある。人口 293万8300(2009)。

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