日本大百科全書(ニッポニカ) 「アブドゥル・ラフマーン」の意味・わかりやすい解説
アブドゥル・ラフマーン(2世)
あぶどぅるらふまーん
‘Abd al-Ramān Ⅱ
(792―852)
後(こう)ウマイヤ朝第4代アミール(君主)(在位822~852)。その治世中、国家は強大であり繁栄した。バグダードのアッバース朝文化を積極的に移入したことから、アル・アンダルス(イベリア半島におけるイスラム教徒の領地)のイスラム文化史上の転換期といわれる。ベルベル人マフムードの反乱、トレドとコルドバのモサラベ(ムスリム支配下のキリスト教徒)の反乱、ノルマン人の侵入などが相次いだが、政治的安定は保たれ、アル・アンダルス東部への領地拡大と、さらに毎夏、北方のキリスト教徒諸地域への遠征が行われた。またアッバース朝との対抗上、その従属国たるチュニジアのアグラブ朝と敵対し、アルジェリアのルスタム朝その他の北アフリカの小王朝と友好関係を保った。文化や芸術の保護、奨励に熱心で、コルドバの大モスクの増築とその他の建築事業を実施し、バグダードからは詩人(アル・アッバース・ブン・フィルナースら)や歌手(ジルヤーブ)や学者たちを招き寄せた。彼の治世中にマーリキー学派法学者集団が形成され、アル・アンダルスにおける同派の確固たる基礎が築かれた。
[私市正年]
アブドゥル・ラフマーン(1世)
あぶどぅるらふまーん
‘Abd al-Ramān Ⅰ
(731―788)
後(こう)ウマイヤ朝の建設者(在位756~788)。ウマイヤ朝第10代カリフ、ヒシャームの孫。750年、アッバース朝によるウマイヤ家虐殺に際し、彼のマウラー(解放奴隷)、バドルとともに、シリア、エジプトを経てマグリブへ逃亡し、755年にはイベリア半島へ渡った。翌756年、アル・アンダルスの支配者、ユースフを破ってコルドバに入城、アミール(君主)位を宣言して後ウマイヤ朝を創始した。32年間に及ぶ治世は、アラブ人とベルベル人の対立抗争や反乱、キリスト教徒との戦いなどによって不安定であったが、ウマイヤ朝の行政・軍事制度の導入と、巧みな政治的手腕とによって王朝発展の基礎を確立した。その成功により「クライシュの鷹(たか)」の異名をとる。フランク王国のカール大帝とのサラゴサの戦い(778)は『ロランの歌』として有名である。
[私市正年]
アブドゥル・ラフマーン(3世)
あぶどぅるらふまーん
‘Abd al-Ramān Ⅲ
(891―961)
後(こう)ウマイヤ朝第8代の君主(在位912~961)。その治世は半世紀に及ぶが、最初の数年間は国内の反乱の鎮圧と政治的再統一に努めた。一方、対外政策も積極的で、北方のレオンやナバラなどのキリスト教徒の地に遠征し、それらの諸王国を服属させた。また、チュニジアのファーティマ朝に対抗して、929年、後ウマイヤ朝で初めてカリフの称号を名のり、北アフリカに軍隊を派遣し、一時マグリブの西半分を支配下に収めた。産業、学問、文化を奨励して多くの学者を来住させた。また、大量に購入したサカーリバ(スラブ人やフランク人の奴隷)は兵士としてだけではなく、宮廷の側近や学者としても活躍した。治世中は隆盛を極め、首都コルドバは、衰退しつつあったバグダードにかわってイスラム世界でもっとも安定し繁栄した都市になった。
[私市正年]
アブドゥル・ラフマーン
あぶどぅるらふまーん
‘Abdul Ramān
(1844―1901)
アフガニスタンのバーラクザイ朝(1819~1946)の第5代王(アミール)。創始者ドースト・ムハンマドの孫。叔父で第2代アミールのシェール・アリー、その子で第4代アミールのヤークーブとの権力闘争に敗れ、サマルカンドへ逃亡、タシケントのロシア総督となる。第二次アフガン戦争でのシェール・アリーの敗北、ヤークーブの失脚後、イギリスの後押しで、カブールのアミールとなった(1880)。国内の暴動を鎮圧し、対ロシア(1888)、対インド(1893)の国境をいちおう画定し、今日のアフガニスタンの基礎を築いたことが、その最大の業績である。
[清水宏祐]