アフガン戦争(読み)アフガンセンソウ

デジタル大辞泉 「アフガン戦争」の意味・読み・例文・類語

アフガン‐せんそう〔‐センサウ〕【アフガン戦争】

英国アフガニスタンとの、1838年から1919年にかけての3回にわたる戦争。19年、ラワルピンディ条約でアフガニスタンの独立が承認された。

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精選版 日本国語大辞典 「アフガン戦争」の意味・読み・例文・類語

アフガン‐せんそう‥センサウ【アフガン戦争】

  1. イギリスとアフガニスタンの三度にわたる戦争。第一次(一八三八‐四二)、第二次(一八七八‐八〇)の戦争を通じて、イギリスがアフガニスタンの保護国化に成功したが、第三次(一九一九)の戦争では、ラワルピンディ条約でアフガニスタンの独立が認められた。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アフガン戦争」の意味・わかりやすい解説

アフガン戦争
あふがんせんそう

インドを支配するイギリスとアフガニスタンとの一連の戦争。19世紀に入ってアフガニスタンは、中央アジアからのロシア南下とイギリスのインド防衛の接点となり、3次にわたるアフガン戦争はいずれもイギリスの干渉で起こった。

[加賀谷寛]

第一次

1838年から1842年までにわたった戦争。この直前の1837年、ロシア人に指揮されたイラン軍がヘラートを包囲し、イギリス人将校がこの防衛にあたっていた。イギリスはこのロシアの進出に危機感を抱き、カブール権力を握っていたドースト・ムハンマドを退けて、親英的なシュジャー・ウル・ムルクを王位につけようと干渉に踏み切った。1838年2月、進入したイギリス軍はカンダハールを落とし、カブールに進んだ。ドースト・ムハンマド王は逃げ、1839年8月シュジャー・ウル・ムルクが王位についた。しかし、カブールでは反英の反乱が起き、1842年1月イギリス軍はカブールから東方への撤退を決定した。1万余のイギリスならびにインド人兵隊は撤退の際に殲滅(せんめつ)された。ジャララバード、カンダハールを保持していたイギリス軍は、カブールを懲罰的に再占領したが、引き揚げざるをえず、1843年イギリスは、抑留していたドースト・ムハンマドをインドから送ってふたたび統治させた。

[加賀谷寛]

第二次

1878年から1880年までにわたった戦争。ドースト・ムハンマド王の第3子シェール・アリー王が、イギリスによる王朝の内紛調停とイランとの紛争に対する仲介に不満を抱いてロシアに接近した。これに対し、イギリス軍がカブールを占領、シェール・アリー王はロシアに援助を求めて逃亡した。シェール・アリー王の死後、その子ヤークーブが1879年王を宣し、イギリスと講和(ガンダマク協定)した。アフガニスタンはこの講和により、インドに領土を割譲し、イギリス使節駐在を認めた。しかし、数か月後、カブールで反英蜂起(ほうき)が起こり、使節団が皆殺しにされ、ここに戦争が再開された。イギリスはカブールを奪回したがマイワンドで撃破されて、1880年ドースト・ムハンマドの孫アブドゥル・ラフマーンを、外交権をイギリスに譲ること、侵略に対しては援助することを条件に王位につけて撤退した。1901年アブドゥル・ラフマーンの死後即位した子のハビーブッラーは、1915年、父がイギリスと取り決めた条約を批准したので、アフガニスタンはイギリスの保護国となった。

[加賀谷寛]

第三次

1919年2月、軍部を握ったハビーブッラーの第3子アマーヌッラー・ハーンが即位し、イギリスに敵対して独立を求めたが、空襲を受けて休戦を申し入れ、同年8月ラワルピンディ条約を結んだ。ここに独立が正式に承認された。

[加賀谷寛]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アフガン戦争」の意味・わかりやすい解説

アフガン戦争
アフガンせんそう
Afghan Wars

3次にわたるアフガニスタンとイギリスの戦争。第1次 (1838~42) は,1818年ドゥラーニー朝に代って勢力を得たバーラクザーイー朝ドースト・ムハンマドに対して,ドゥラーニー朝のシャー・シュジャーをあと押しするイギリスがイラン軍のヘラート攻撃を退けてアフガニスタンをその保護下におこうとして起した。イギリス軍は 39年カブールに入りシャー・シュジャーを復位させたが,国民の抵抗激しく,41年カブールを撤退する途中で全滅し,また 42年シャー・シュジャーが暗殺されるに及んで,イギリス軍はアフガニスタン撤退を余儀なくされ,ドースト・ムハンマドが再び王位についた。第2次 (78~80) は,イランとのシースターン国境紛争に関する 73年のイギリスの仲介による調停を不満とするドースト・ムハンマドの子シェール・アリーがロシアに接近,イギリス大使の入国を拒否したことから起った。イギリス軍は 78年カブールを占領。シェール・アリーの子ムハンマド・ヤークーブにインドへの領土割譲と大使受入れを承認させたが,カブールにおけるイギリス使節団員の虐殺事件の結果,イギリス軍は再度カブールを占領,ヤークーブは廃されアブドゥル・ラフマーンが王位についた。この後 1905年アフガニスタンはイギリスの保護国となった。第3次 (1919) は,19年王位についた親ソ派のアマーヌッラーがイギリス=インド政府に対して起したもの。しかし,彼は1ヵ月後休戦を申し出,19年8月8日ラワルピンジー条約が結ばれた結果,アフガニスタンの独立が正式に承認された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アフガン戦争」の解説

アフガン戦争(アフガンせんそう)
Afghan

アフガニスタンを舞台とするさまざまな戦争のことだが,狭義には,イギリスとアフガニスタンとの間で3回にわたって戦われた戦争をさす。最初の2回は,インドを支配していたイギリスと,中央アジアからの南下を図るロシアとの対抗のなかで生じた。ロシア軍は実際には侵入しなかったが,アフガン君主がロシアに接近しようとしていると疑ったイギリスが,アフガニスタンに攻め込んだ。第1次戦争(1838~42年)では,イギリス軍はほぼ全滅し,イギリスが傀儡(かいらい)君主として復位させたシャー・シュジャーも暗殺された。西北インドの支配を強化し態勢を立て直して臨んだ第2次戦争(78~80年)でも,イギリスは軍事的に損害を被ったが,外交戦術で新王アブドゥル・ラフマーンを取り込み,アフガニスタンを保護国とした。第一次世界大戦直後,アマーヌッラー王はイギリスの疲弊に乗じてインドに攻め込み(第3次戦争,1919年),その結果イギリスはアフガニスタンの独立を認めた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アフガン戦争」の解説

アフガン戦争
アフガンせんそう
Afghan

19世紀〜20世紀初め,3回にわたって行われたアフガニスタンとイギリスとの戦争
インドへの侵入路にあたるアフガニスタンは,インドが植民地となってからは,イギリスとロシアの衝突の場となった。イギリスはロシアの南下を恐れ,第1次戦争(1838〜42)を行ったが完敗,第2次戦争(1878〜80)でイギリスはこの国を事実上の保護国とし,英露協商(1907)でロシアにこれを認めさせた。1919年,ロシアのソヴィエト政権樹立の影響下で行われた第3次戦争で,アフガニスタンはイギリスから独立した。

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改訂新版 世界大百科事典 「アフガン戦争」の意味・わかりやすい解説

アフガン戦争 (アフガンせんそう)

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百科事典マイペディア 「アフガン戦争」の意味・わかりやすい解説

アフガン戦争【アフガンせんそう】

イギリス・アフガニスタン戦争

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世界大百科事典(旧版)内のアフガン戦争の言及

【イギリス・アフガニスタン戦争】より

…イギリスとアフガニスタンの3回にわたる戦争(1838‐42,1878‐80,1919)。アフガン戦争とも呼ばれる。インドの支配者たるイギリスは,中央アジアを征服しつつ南下するロシアの勢力を,インドに対する脅威とみなした。…

※「アフガン戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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