パイジェロ(その他表記)Giovanni Paisiello

改訂新版 世界大百科事典 「パイジェロ」の意味・わかりやすい解説

パイジェロ
Giovanni Paisiello
生没年:1740-1816

18世紀後半を代表するイタリア歌劇の作曲家。ナポリで教育をうけ,喜歌劇(オペラ・ブッファ)の作曲家として名声をあげたのち,1776年ロシアのエカチェリナ2世から宮廷楽長として招きを受け,84年まで同地にとどまった。その間に発表したのが,軽妙で劇的効果に富む《セビリャ理髪師》(1782)である。この曲は,のちにロッシーニが同一題材を取り上げるまで揺るぎのない名声を保った。事実ロッシーニは,多くの着想をパイジェロから受け継いでいる。その後ナポリに帰って王室楽長となり,《水車小屋の娘》(1788),《ニーナ》(1789)などの名作を発表したが,19世紀初頭の政治的な激変期にあってナポレオンの支持を得たことが災いして,ナポレオンの没落後は不遇な生涯を送った。作品はオペラ80曲以上,ほかに宗教曲とハープシコード協奏曲を含む器楽曲がある。
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百科事典マイペディア 「パイジェロ」の意味・わかりやすい解説

パイジェロ

イタリアの作曲家。パイジェッロともいう。イタリア南部のターラントに生まれ,ナポリの音楽院で学ぶ。同地でオペラ・ブッファ(オペラ)の作曲家として名を上げ,1776年−1784年エカチェリナ2世に招かれてペテルブルグの宮廷楽長を務める。同地で発表した《セビリアの理髪師》(1782年)は,ロッシーニの同名オペラにも少なからぬ影響を与えた。その後はナポリで王室楽長として活躍し,《ニーナ》(1789年)などを発表。オペラ作曲家としてチマローザと並ぶ名声を博す。80曲以上のオペラを残し,晩年には宗教曲にも力を注いだ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パイジェロ」の意味・わかりやすい解説

パイジェロ
Paisiello, Giovanni

[生]1740.5.9. タラント
[没]1816.6.5. ナポリ
イタリアの作曲家。 1755~59年ナポリのサント・オノフリオ音楽院に学び,63年以来オペラ作曲家として活躍。 76年よりペテルブルグでロシア女帝エカテリーナ2世に仕え,『セビリアの理髪師』 (1782) などを上演。 84年ナポリに戻りフェルディナンド4世の宮廷楽長となり,数多くのオペラを発表。 1802~03年ナポレオンに仕えたため,革命後おもな地位を奪われ,不遇な晩年をおくった。『水車小屋の娘』 (88) ,『ニーナ』 (89) ほか 100曲以上のオペラと宗教曲,器楽曲を残した。

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世界大百科事典(旧版)内のパイジェロの言及

【セビリャの理髪師】より

…数多くの作曲家がオペラ化しているが,次の2作が有名である。(1)ロシアのエカチェリナ2世に宮廷作曲家として仕えていたイタリアの作曲家G.パイジェロが1782年ペテルブルグで初演した2幕4場のオペラ。D.O.ペトロセリーニの台本による。…

【ロシア・ソビエト音楽】より

… 1730年代に入ると,ロシアの宮廷に直接西欧から音楽が輸入され始めた。1735年以来長くロシアに滞在したイタリアの作曲家アラヤFrancesco Araja(1709‐70?)を草分けとして,ガルッピBaldassare Galuppi(1706‐85),トラエッタTommaso Traetta(1727‐79),パイジェロ,サルティGiuseppe Sarti(1729‐1802),チマローザといった一流のイタリア人作曲家が,エカチェリナ2世(在位1762‐96)の宮廷楽長としてペテルブルグに滞在した。イタリアをはじめ西欧から多くの音楽家が雇われて,ロシアの宮廷や大貴族の下で演奏やロシア人音楽家の教育に当たった。…

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