パンゼーの乱(読み)ぱんぜーのらん(英語表記)Panthay

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パンゼーの乱」の意味・わかりやすい解説

パンゼーの乱
ぱんぜーのらん

中国、清(しん)代、雲南省におけるイスラム教徒(回族)の反乱(1856~73)。パンゼーPanthayとはビルマ人が雲南回族をよんだ名称で、イギリス人がこれを採用した結果、一般化した。1854年、楚雄(そゆう)府下の銀鉱漢人と回族との間に争闘事件が起き、事件の波及を恐れた清朝官憲が、56年、省都昆明(こんめい)城内で回族を大量に虐殺した結果、日ごろから反漢・反官感情をもつ各地の回族が一斉に蜂起(ほうき)した。反乱軍は馬徳新(ばとくしん)、馬先(ばせん)が指導する東部と、杜文秀(とぶんしゅう)が率いる西部の二勢力に統合された。前者中途で清朝に帰順したが、後者は大理(だいり)を拠点に、諸少数民族をも包含して清朝打倒を叫んだ。しかし72年大理が陥落し杜文秀は自殺して、翌年には鎮圧された。

[片岡一忠]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パンゼーの乱」の意味・わかりやすい解説

パンゼーの乱
パンゼーのらん
Panthay

中国,清代の雲南イスラム教徒の反乱 (1855~73) 。ビルマ人が雲南省におけるイスラム教徒をさしてパンゼーと呼んだが,それをイギリス人が採用して一般化した。清代の雲南では,中国各地から移住民を迎え,陝西のイスラム教徒 (回民) も移住し,漢回両民族が雑居して異質の社会を構成していた。たまたま楚雄府石洋銀廠における漢回鉱夫の廠場 (鉱山) 争奪事件に際し,漢人官僚の処置を不満とした回民が一斉に蜂起,やがてこの反乱は,馬復初,馬如龍が率いる雲南東部,南部の勢力と西部の回民を率いた杜文秀の勢力の2つに統合された。特に杜文秀らの回民は,咸豊5 (1855) 年蒙化で挙兵し,翌年6月には大理を陥れ,杜文秀は総統兵馬大元帥となり,みずからスルタンスレイマンと称した。さらに清政府に敵対している太平天国に呼応すると宣言し,漢人と清軍に抵抗した。雲南西部の主要都市をまたたく間に占領したが,太平天国の滅亡とともに次第に圧迫され,同治 11 (72) 年大理も陥落して杜文秀は自殺し,翌年5月,19年にわたるこの反乱はようやく鎮圧された。

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世界大百科事典(旧版)内のパンゼーの乱の言及

【回族】より


[回漢の摩擦]
 回民は信仰・習慣をはなはだしく異にする多数民族の漢族社会から特殊視されて,社会的経済的圧迫をうけることが多く,職業も小売業・飲食業・運搬業などに限定され,また,地方官吏からの圧迫や差別待遇をうけていた。その結果,各地で回漢の対立がおこり,明代中期から回民と漢人との械闘がしばしば発生し,清朝時代になると,1821(道光1),33,39,45‐48の各年に,雲南省に回民の反乱が続発し,1854‐72年(咸豊4‐同治11)の雲南回民の指導者,杜文秀に率いられた大規模の反乱はパンゼーの乱として著名である。陝西省では,1781‐85年(乾隆46‐50)に新教(伝統的中国イスラムに異を唱えた改革派)回民の反乱があり,1862年(同治1)には回漢の武力衝突がおこり,これは陝西から甘粛,新疆に波及し,77年(光緒3)まで陝甘・新疆のドゥンガン回民の大反乱がつづいた(回教徒蜂起)。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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