雲南省(読み)ウンナンショウ

デジタル大辞泉 「雲南省」の意味・読み・例文・類語

うんなん‐しょう〔‐シヤウ〕【雲南省】

雲南

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改訂新版 世界大百科事典 「雲南省」の意味・わかりやすい解説

雲南[省] (うんなん)
Yún nán shěng

中国西南部にある省。略称は滇(てん),雲。面積39万4000余km2,人口4236万(2000)。2地区級市,7地区,8自治州からなり,さらにこれらが127県級行政地域(4市轄区,15市,79県,29自治県)に区分されている。省都は昆明。北はチベット自治区,四川省,東は貴州省,広西チワン族自治区,南はベトナム,ラオス,西はミャンマーと接し,少数民族が30%をしめる。

雲南省はほぼ北高南低の地勢で,北西部の横断山脈部,東部の雲南高原および南部山間・河谷盆地部に区分できる。北西部では青蔵高原の延長として南北走向をもった横断山脈が発達している。高黎貢山(こうれいこうざん),怒山,哈巴雪山(はばせつざん)など数条の支脈が平行に走り,その間をそれぞれサルウィン川,メコン川,長江(揚子江)の上流の怒江,瀾滄(らんそう)江,金沙江が深い峡谷を刻んでいる。平均標高3000~5000m,省内の最高峰は怒山山系の太子雪山の主峰,カワガルボ(卡格薄)峰で6740m。河谷の乾燥地低木林から4500~5000m以上の永久積雪帯まで,植生の垂直分布が明瞭である。山脈の南には騰衝県城を中心に半径30kmの範囲に打鷹(だよう)山など20余の新生代火山群が集中している。明の徐弘祖(霞客)はこの地域を調査し《徐霞客遊記》のなかで,水と蒸気の噴出するさまは虎がほえるよう,泡は弾丸のようであると描写している。雲南東部は平均標高1400~2000mの高原である。まとまりのある山地性高原面を形成しているが,平均1000mの貴州高原部をあわせて雲貴高原とする場合も多い。西部の基岩は紫色砂岩系,東部は揚子準卓状地の先カンブリア時代~中生代炭酸岩系のため路南,弥勒(びろく)の石林,六郎洞(りくろうどう)のウバーレなどカルスト地形が発達している。羅平付近では円錐カルストドリーネが交互に発達しており,徐弘祖は西南の〈奇勝の極〉とのべている。高原上の山間には壩子(はし)とよばれる平坦な盆地があらわれる。土層も厚くこの地域の農業の中心地である。さらにネオテクトニック運動の結果,断層,陥没によってできあがった滇池(てんち)や洱海(じかい),撫仙(ぶせん)湖などの断層湖もみられる。

 気候は四季春のごとしといわれ,寒帯大陸気団と熱帯大陸気団が雲貴上空でぶつかってできた昆明準停滞前線の影響で冬も比較的暖かい。クリやカシの類を代表とする常緑広葉樹林やシャクナゲ類など植生は豊かである。雲南南部はほとんどが1500m以下で怒江や瀾滄江,元江などの谷地が発達し,熱帯モンスーン気候があらわれる。とくに南端のシーサンパンナ(西双版納)タイ族自治州では熱帯降雨林もみられる。

1965年省北部の元謀県元馬鎮大那烏村で,170万年前の猿人の化石骨〈元謀人〉が発見されてから西疇県西洒鎮の〈西疇人〉などいくつかの人骨化石が発見されている。石器や火の使用が認められ,雲南での古生人類の活動が印されている。また雲南各地で新石器の住居跡や墳墓が300ヵ所以上分布し,滇池地域や剣川,祥雲県では青銅器時代の文物が出土している。雲南はもともと少数民族の地であった。《史記》や《漢書》などでは,漢族は前330年楚の威王の派遣した荘蹻(そうきよう)が滇池付近を制圧したとき数千人入ったことが記されている。ただ,この時期や荘蹻の身分については検討の余地がある。秦・漢では雲南をはじめ貴州・四川西南地域の夜郎や昆明などの部族を〈西南夷〉とよんだ。《史記》西南夷伝には,彼らはみな氐(てい)の類だとあるが,氐のほか百越,百僕の族群が考えられる。漢の武帝はこの地域に益州郡を設け,ほかに牂牁(しようか)郡,犍為(けんい)郡,越嶲(えつすい)郡をおいた。〈雲南〉とは,彼の時世に〈彩雲〉が南にあらわれたため名づけられたのがはじまりとも,また横断山脈の支脈雲嶺の南にあることに由来するともいわれる。実際は益州郡の治所,滇池県内に雲南県が置かれ,唐・宋ころまでに広く〈滇〉全域を雲南とよぶことが定着したものとみられる。

 県城は現在の祥雲県雲南駅である。後漢には雲南県は永昌郡に属した。225年(建康3)三国の蜀は益州郡を建寧郡に改め,永昌郡の一県であった雲南県を郡に昇格させた。唐代には漢民族の勢力はこの地域から後退した。かわって洱海付近で力を得たペー(白)族の先住民白蛮とチベット系の吐蕃が台頭したが,白蛮の一部族南詔が唐に支持され族長皮羅閣を〈雲南王〉として南詔国を成立させた。ここから〈雲南〉は南詔の別称として使われることになる。南詔の時代,成都方面から漢族の子女や職人を集め手工業を振興させるなど,白蛮をはじめ各少数民族は直接,間接に漢文化を吸収し,またみずからの文化を発展させた。902年南詔が崩壊したあと,937年段思平によって大理国が建てられた。大理国は南詔とほぼ同じ地域を治めたが,この間,漢族のペー族との融合が進むと同時にペー族の漢化がさらに進んだ。たとえば,漢字を主体に新しい字を補ってペー族の文章を表現する文(ほくぶん)が作られている。その後,元が大理国を滅ぼし,雲南行中書省を設けて治所を現在の昆明,中慶城におき,地域統治の一本化を行った。ここから〈雲南〉が広い行政地域として使用されるようになる。明代になると,王朝の意思を貫きながらも各民族の特徴に応じて統治する土司(どし)・羈縻(きび)の制度をいっそう重視し,1381年(洪武14)雲南布政使司をおく一方,世襲の族長制を活用し封建政治をおしすすめた。1659年(順治16)清の世祖が雲南省を設け,1912年以後民国へひきつがれた。

雲南省には,イ(彝),ペー(白),ラフ(拉祜)族など中国での大半の51の少数民族と,系統が未確定のクーツォン(苦聡)人やクームー(克木)人がおり,うち70%近くが山地に居住する。また,怒江リス(傈僳)族自治州,貢山トールン(独竜)族ヌー(怒)族自治県のように,その行政単位のなかで過半数を占める場合が多い。民国後も族長支配による制度が残り,国民党政権はこれを温存しさまざまな名目で税を課した。1941-43年シーサンパンナでは,チノー(基諾)族がハニ(哈尼)やプーラン(布朗)族などと共同して,反国民党・反封建の人民蜂起をおこし,闘争は失敗したが一定の影響を与えている。しかし,イ族の奴隷の使用や封建制の遺制が残っている場合が多かったため,解放後民主改革をへて,民族地域自治の政策が積極的にすすめられた。ナシ(納西)族の阿注という通婚形式や東巴(トンパ)文の象形文字など少数民族独自の文化も残存する。

昆明の気候はおだやかで〈春の町〉ともよばれ,雲南の政治経済の中心である。火力発電所を基礎に化学や電機工業が発達している。大理ペー族自治州の中心大理市では,化学肥料,機械工業がさかんである。また大理市は大理石加工,東川市と箇旧(こきゆう)市はそれぞれ銅およびスズの産地として知られ,大姚(だいよう)県塩豊の岩塩採掘なども有名である。高原部の山間盆地,壩子では農業がさかんで,水利化は60%をこえ,イネ,トウモロコシ,タバコなどが栽培されている。とくにタバコは雲煙とよばれ,雲南の財政収入の過半を占める。中央部の玉渓や楚雄などが主産地である。山地では水利化が遅れ,土地の乾燥化,酸性化の傾向が強いため生産性は高くない。雲南全体では斜面での耕地など低産農地は1/3にのぼる。その他,瀾滄江河谷では普洱(プーアル)茶,滇紅で知られる茶,シーサンパンナではゴムやコーヒーなどの熱帯作物が栽培されている。雲南省はGDPや1人当り収入の低い省であるが,貧困脱却援助の一環として,1996年の昆明~曲靖高速自動車道の開通につぎ,97年には,電化された昆南(昆明~南寧)鉄道が通り,食糧供給や鉱産品などの流通の加速を図っている。また,1996年中国がASEANの正式対話国となってから,メコン川とその上流の雲南省の瀾滄江の流域開発により,中国西南部とASEAN地域との,鉄道・情報網形成プロジェクトを含む経済協力を進めている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「雲南省」の意味・わかりやすい解説

雲南〔省〕
うんなん

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