マフムト2世

改訂新版 世界大百科事典 「マフムト2世」の意味・わかりやすい解説

マフムト[2世]
Mahmut Ⅱ
生没年:1784-1839

オスマン帝国末期の啓蒙的専制君主,第30代スルタン。在位1808-39年。中央行政機構の機能的分権化による大宰相の権力削減,イエニチェリ軍団の全廃(1826)と西欧式軍隊の編制,地方名士(アーヤーン)層の討伐,世俗的教育・郵便・検疫制度の導入など一連改革によって,18世紀以来失われていたスルタンの中央集権支配力を回復し,西欧化によるオスマン帝国改革運動の基礎を固めた。しかし,政治的には多難で,民族的独立を要求するバルカン諸民族の相次ぐ蜂起(1829年,ギリシア独立,セルビア自治権獲得)と,これに対するロシア干渉とに苦しんだ。また,彼の強引な中央集権政策は,アナトリア民衆の不満を増大させ,この地方に対する,ムハンマド・アリーのエジプト軍の進駐を容易にし,1833年のキュタヒヤ条約によってシリア割譲を余儀なくされた。また38年に彼がイギリスとの間に締結した通商条約は,オスマン帝国の関税自主権を喪失させ,半植民地化への道を開いた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マフムト2世」の解説

マフムト2世(マフムトにせい)
Mahmud Ⅱ

1785~1839(在位1808~39)

オスマン帝国の第30代スルタンイェニチェリ軍団の廃止(1826年),国勢調査の実施,税制・行政の見直し,近代的な省庁制や郵便制度の導入,世俗教育の義務化など西欧モデルの近代化と中央集権化とを柱とする急進的な改革を断行したが,地方勢力やムスリム民衆の反発を招いた。対外的には,ギリシアの独立やロシアの干渉に苦しんだ。

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367日誕生日大事典 「マフムト2世」の解説

マフムト2世

生年月日:1785年7月20日
オスマン・トルコ帝国の第31代スルタン(在位1808〜39)
1839年没

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