オスマン帝国における常備歩兵とその軍団。トルコ語で〈新しい兵士〉を意味する。軍団の創設に関して定説はないが,14世紀後半,とくにアドリアノープル(現,エディルネ)征服(1360ころ)直後のことと推定されている。1354年以後オスマン朝のバルカン領土が拡大すると,新たな戦力の補給とバルカン諸民族の同化政策とを兼ねてこの軍団が創設された。最初,戦争捕虜の1/5が戦利品として国庫に属したことから,これをトルコ人の家庭に預けてトルコ語とムスリムとしての生活習慣とを身につけさせた後,軍団員として登録した。1402年のアンカラの戦に敗北後,オスマン朝のバルカン征服が停滞し,捕虜の確保が困難になると,デウシルメ制が導入された。これによって徴用された者の大部分がイエニチェリとなった。この軍団は16世紀末までは,オスマン帝国軍の精鋭として規律正しく,王朝の発展に貢献した。17世紀以後は軍紀が乱れ無頼集団化して,しばしば暴動を起こした。軍団創設当時のアナトリアやバルカンでは,神秘主義諸教団の長老やデルウィーシュの影響力が強く,オスマン朝諸制度の中に宗教的要素がもちこまれたが,イエニチェリ軍団の場合も,ベクターシュ教団との関係が強く,軍団員の多くがこの教団に加入し,その宗教儀礼が軍の儀式に反映された。軍団には馬具や武器の製造を担当する特殊部隊が特権的ギルドを形成していたこともあって,17世紀以後軍団員の商工業への進出がみられた。18世紀末以後,帝国軍隊の西欧化改革が進むと,軍団はこれに反対し,反乱を起こしたが,マフムト2世は1826年に軍団を廃止し,同時にベクターシュ教団の活動も禁止された。
執筆者:永田 雄三
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オスマン帝国における常備、有給の歩兵親衛軍団。「新軍」を意味する。ムラト1世(在位1362~1389)の治世に創設されたらしい。原則的にヨーロッパ新属領のキリスト教徒の子弟を徴用してイスラム教に改宗させ、厳格な訓練を施したのち、スルタンの常備親衛軍に入れた。結婚したり商業に従うことは禁じられたが、高禄(こうろく)を受け、高位高官に栄進する登竜門であったので、自分の子弟を志願させるキリスト教徒も現れた。スルタンに忠誠を誓い、とくに14~16世紀におけるトルコの征服戦争に武功をたて、トルコ兵の花形とされた。しかし、のちには軍紀が乱れて横暴専権を極め、スルタンの廃位にも介入し、また、マフムート2世(在位1809~1839)の近代化政策に反対したので、マフムート2世は1826年その兵舎を砲撃し、これを廃止した。
[護 雅夫]
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オスマン帝国における常備軍団。英語のjanissaryはこれの訛り。14世紀末の創設。当初は被征服地のキリスト教徒から児童を強制的に徴集し,特殊訓練を施してその要員とするデウシルメによる精鋭部隊としてヨーロッパ人にも恐れられた。しかし,後にはムスリム子弟の世襲となり,横暴をきわめたので,1826年に廃止された。
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…イスラムの諸学問を修め,ペルシア文学や芸術を身につけた彼らは,〈オスマン紳士(オスマンルOsmanlı)〉を自負する知的エリートでもあった。一方,デウシルメによって徴用された子どもたちの大多数はイエニチェリやシパーフsipah(近衛騎兵)となったが,とくに前者は,その創設以来神秘主義教団ベクターシュと深い関係をもち,また兵営前の〈肉の広場Et Meydanı〉に料理用の大なべを持ち出すことによってスルタンに対する不満の意思表示をする慣行を通じて,政治的に大きな発言力を獲得した。また,イスタンブールの治安維持はこの軍団の主要な任務の一つであった。…
…11~13世紀にトルコと戦った十字軍によってもたらされた情報で,各種の打楽器・管楽器を多用するトルコ軍楽への関心が高まり,従来のドラム隊に横笛を加えた〈鼓笛隊〉が設置されたり,クラリネットの前身となったシャルマイが使用されるといった動きが見られる。 1521年に始まるオスマン帝国のヨーロッパ侵攻によって,ヨーロッパ諸国はトルコの〈イエニチェリ〉軍団に席巻され,その軍楽隊〈メヘテルハーネmehterhane〉とその演奏に強烈な印象を受けた。ことにウィーンは1529年と1683年の2回,トルコ軍に包囲され,直接メヘテルハーネを耳にした。…
…オスマン帝国政府が支配下のキリスト教徒,具体的にはアルバニア,ギリシア,ブルガリア,セルビア,ボスニア,ヘルツェゴビナ,さらにはハンガリー方面のキリスト教徒農民の男童・少年を対象として,〈カヌーヌ・デウシルメ〉と称する特定の法規に基づき,所定の手続をふんで,定期的に一定人数の徴用を行う制度。徴用目的は将来オスマン王家に専従・奉仕する宮廷使用人や,吏僚ないしイエニチェリ軍団の要員を補充するための必要措置であった。デウシルメは頻度の差こそあれ15世紀以後,約2世紀半継続実施された。…
…開祖ハーッジー・ベクターシュḤājjī Bektāsh(?‐1337ころ)は一説では12世紀にホラーサーンからアナトリアに到来したが,教団の組織化は15世紀初めから1世紀間にわたって進められた。15世紀後半にはイエニチェリ軍団と結合し,その教育と戦場への従軍において排他的な特権を維持した。1826年マフムト2世のイエニチェリ掃滅に伴い同教団も弾圧を被ったが,再び勢力を回復し,近代民衆文学運動の一翼を担った。…
… マムルーク朝はアイユーブ朝時代に編制されたマムルーク軍団によって樹立された王朝であるが,この王朝の崩壊後も,マムルーク軍人は在地の支配者として19世紀初頭に至るまでエジプト・シリアの実権を保持し続けた。イランのサファビー朝では軍事力強化のためにグルジア人マムルークが採用され,またオスマン帝国でも18世紀初頭に至るまでは奴隷兵としてのカプクル軍団,とりわけ,キリスト教徒の子弟を徴募して編制したイエニチェリ軍が,ヨーロッパやアラブ世界の征服に大きな役割を演じた。 少年のマムルークの中には将来の出世を見込んで自ら身を売る者があり,奴隷商人の手を経てバグダードやカイロに運ばれると,そこでアラビア語やイスラムについての教育と弓や馬術などの軍事訓練を受けた後,奴隷身分から解放されてスルタンのマムルーク軍団に編入された。…
※「イエニチェリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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