三原西町(読み)みはらにしまち

日本歴史地名大系 「三原西町」の解説

三原西町
みはらにしまち

[現在地名]三原市ほん町・西にし町・西宮にしみや

三原城の西、恵下谷えげだに川の扇状地を中心に形成された城下町。単に西町ともいう。北は西野にしの村分の野畑のはた山・大畑おおはた山、西は同村かや町に接し、南西は西野川で元禄一三年(一七〇〇)築調の宮沖みやおき新開に接する。福島正則のとき川口宗助によって町割されたといわれ、幅三間の街道(山陽道)の南北二〇間ずつの町分と、その周辺の地方(西地方)分とからなる。

町割が行われる以前に、北部山麓万福まんぷく寺、金剛こんごう寺、昌寿しようじゆう(現東町の松寿寺)建立され、町が形成されていたことは、天正三年(一五七五)の「中書家久公御上京日記」からもうかがえる。町名の初見は慶長二〇年(一六一五)一一月の仏通寺含暉院諸堂普請勧進衆書付棟札(同寺蔵)で、「タルキ、ツチ四十、二寸クキ数四百 三原西町小工寄進」とある。

三原志稿」によると、町分は街道沿いの古魚店ふるうおのたな八六間四尺五寸、なか町七四間、西中にしなか町八八間四尺五寸、中間ちゆうげん町一二三間一尺五寸と、東の河原かわら谷沿い五三間からなり、地方分は古魚店と中町の南の浮世川うきよがわ(背戸の河原)八七間一尺五寸、西中町と中間町の南のしん(下町)七七間四尺五寸、会下えげ(恵下谷)一千七四五間半、河原谷一九五間四尺五寸などであった。正保年間(一六四四―四八)の三原城所絵図によると、町屋が並ぶ街道は三四〇間とあるが、延享四年(一七四七)東町差出シ帳(「三原市史」所収)の付紙に「西町長サ五町四拾五間」「西地方長サ弐町三拾四間」とあり、「三原志稿」では街道沿いの部分は三七二間余となるから、漸次町屋が西に延びている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報