日本歴史地名大系 「三原城下」の解説
三原城下
みはらじようか
三原湾内に浮ぶ
〔城下町の形成〕
中世の三原浦には鋳物・鍛冶・製塩など各種産業が発達して町が形成された。鎌倉末期からの三原刀鍛冶は正家を祖として備後一帯に枝葉を広げ、三原鋳物師「津守守真」の名は嘉元四年(一三〇六)二月の刻銘をもつ愛媛県松山市
こうした三原浦の町を土台に城下町が形成されるのは天正期で、天正一一年と推定される三月三日付の小早川隆景書状(「閥閲録」所収飯田平右衛門家文書)に「三原屋敷配申付下向候間、定頃者五間三間充も可立候哉、両三人輪番ニ被仕、五日ニ一度被見廻候而、坪泉被申談、家々出目入目無之様ニ小路直ニ可被申付候」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報