日本歴史地名大系 「西町」の解説
西町
にしまち
厳島神社の後ろから西側に位置する町の総称。南町もこれに含む。東町に比して成立が早く、中世末には形成された、社家・供僧・町人の屋敷を主とする町。天正三年(一五七五)一一月一六日の毛利輝元安堵状に「従寺家裁判之屋敷、嶋中東西三十五箇所之内四ケ所」とみえ(大願寺文書)、島中の町屋敷を東西に分けている。文禄四年(一五九五)一〇月七日の大願寺領西町屋敷付立(同文書)には「西大願寺領屋敷」として中江・滝小路・
元来、聖地として無住であった厳島に内侍をはじめ社家・供僧、さらに神社と関係した職人・商人らが常住するようになったが、それらは西町地域内であった。正安二年(一三〇〇)四月一五日の伊都岐島社未造殿舎造営料言上状案(大願寺文書)によれば、御手洗川に橋二ヵ所二〇間、
大内氏支配下では、厳島の屋敷が社家・供僧・内侍の社家三方および商工人によって分有されており、例えば、天文一〇年(一五四一)三月二二日の厳島屋敷打渡注文(大願寺文書)によると、大内氏は滝少路四、中江少路一、中西少路七、大西三、南少路一など合わせて三五ヵ所の屋敷を大願寺に寄進したが、その多くは西町に属した。各社家・供僧・内侍ともに多くの屋敷を有し、毛利氏支配になってもそれは同様で、文禄四年の厳島寺社穂田元清等抱屋敷町割書立(野坂文書)によれば、大願寺六九、
西町
にしまち
豊臣秀吉の町割の際最初に縄張した町が
西町
にしまち
福山城下の西・南部を占める藩士の屋敷地域を俗称したもので、町名として大字名となるのは明治以後である。文化六年(一八〇九)の「福山志料」には「西町・東町、右二区藩臣ノ宅舎ヲ置街巷アマタアリテ或ハ名アリ、或ハ名ナシ、又小石梁数処アリ、今尽ク記セズ」とある。安政(一八五四―六〇)前後の書と思われる「備後国福山城下悉知」では、小名の項に「西町・中之丁・裏之丁・袋町」などが記されて福山城下町名のもとの小名とされているので、城西の限られた地域の呼名としても存在したようである。
西町
にしまち
西町
にしちよう
外堀(一部は加茂川)と内堀に挟まれた武家地の西端を占める。西は中海。近世中期以降のものとされる伯州米子之図(県立博物館蔵)では内堀口を出て北へ向かう道筋に西町とみえる。また南に内堀に沿って東西に長さ一二五間・幅一〇間の馬場があり、この馬場に並行する通りにも西町とある。この通りの北側にほぼ東西に走る道筋は、宝永六年(一七〇九)の伯耆国米子平図および享保五年(一七二〇)の湊山金城米子新府(ともに同館蔵)では
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしちよう
西町
にしまち
西町
にしちよう
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしちよう
東西に延びる北陸街道南沿いに位置し、北は富山湾に面する。東は
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしちよう
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしちよう
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
西町
にしまち
- 埼玉県:川越市
- 西町
脇田村の地に成立した武士屋敷町。
西町
にしまち
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報