朝日日本歴史人物事典 「三宅寄斎」の解説
三宅寄斎
生年:天正8.1.1(1580.1.17)
安土桃山末期から江戸初期の儒者。出生日は一説に12日とする。幼名信俊,のち島または玄蕃,字を亡羊といい,別に江南野水翁の号を用いた。通称福麿。和泉岸和田(大阪府岸和田市)の人,父は豊臣秀吉の臣。寄斎は著書が伝わらず行状も不明。わずかに『先哲叢談』後編(1830),『間散続録』(写本,慶応義塾大学蔵)からその事績を知るのみ。11歳で父を失い仕官を断念,伏見,京都に遊学。京都大徳寺で読書力行を重ね,藤原惺窩などの師友を得た。生計のため,医業に従事。その学問は漢唐注疏から朱子学に至り,京洛の殿上人や武将に広く信奉され,後陽成,後水尾両天皇にも進講した。石田三成からも招聘されたが,関ケ原の「未然を先識して」避けたという。香,茶,挿花にも秀でた。<参考文献>寺田貞次『京都名家墳墓録』
(ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報