日本大百科全書(ニッポニカ) 「ビジャヤナガル王国」の意味・わかりやすい解説
ビジャヤナガル王国
びじゃやながるおうこく
Vijayanagar
南インドの王国。四つの王朝が交替し、14世紀中葉から17世紀中葉にかけてクリシュナ川以南の半島部を支配した。14世紀初頭の南インドは、デリー・サルタナット軍の侵入によって混乱に陥ったが、スルタンからトゥンガバドラー河畔の地の統治をゆだねられたハリハラは反旗を翻し、弟と協力して同川南岸にビジャヤナガラを建設し、1336年その地で戴冠(たいかん)しサンガマ朝を創始した。彼を継いだ弟のブッカの時代には、南方のマドゥライのムスリム政権をも倒し、半島南部を統一し、15世紀前半にはその勢力は北西方オリッサ(現、オディシャ)地方にも伸張した。15世紀末のサールバ朝の時代には、北方のバフマン朝との抗争が激化し、それを食い止めた将軍ナラサ・ナーヤカの子が、16世紀初頭に王位を簒奪(さんだつ)し、トゥルバ朝を創始した。それを継いだ弟のクリシュナデーバラーヤはバフマン朝分裂後の北方のムスリム諸勢力と戦って勝利を得、クリシュナ川北岸にまで領土を拡大した。彼は、当時半島西岸部に進出してきたポルトガル人とも友好関係を保ち、王国に最盛期をもたらした。彼の死後ラーマラージャが摂政(せっしょう)となって権力を振るったが、1565年北方のムスリム連合軍と戦ってターリコータの地で大敗し、その結果ビジャヤナガラも落ち、王国は混乱した。ラーマラージャの弟ティルマラは、南東方のベヌゴンダに退いて王位につき、王国は彼の創始したアーラビードゥ朝の下に約100年の余命を保つが、北方からのビジャープール、ゴールゴンダの侵入が相次ぎ、王国各地方ではナーヤカとよばれる地方統治者の勢力が伸び、17世紀中葉ついに滅亡した。
14~17世紀は海上ルートによる東西貿易の栄えた時代で、中国、ペルシア、ヨーロッパなどの各地からの旅行者が王国を訪れて記録を残している。なかでも16世紀前半のポルトガル人ヌーネスとパイスは、王国のありさまを詳細に記述し、首都ビジャヤナガラを当時世界でいちばん繁栄した都市として称賛している。そのようすは今日ハンピに残る広大な遺跡からもうかがうことができる。ナーヤカによる地方統治については、西欧の封建制度との類似についても指摘されている。王たちはヒンドゥー教を信奉し、とくにそのビシュヌ派に厚い保護を与えた。寺院建築様式としては、柱の装飾が華美になり、門塔(ゴープラム)が高くそびえるのがこの時代の特徴である。
[辛島 昇]